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「ソフィア」
店から出たジョンは、勢いを余らせて、いつになく乱暴な足音をたてて止まった。
ソフィアはただ店から出ただけで、どこにも行かず、ジョンを待っていた。それが意外だという顔でジョンはソフィアを見つめてきた。
「用事は終わったの?」
ソフィアに問いに、ジョンは頷く。それから気を取り直していつものように背指示を伸ばして颯爽と歩いてきた。
「あなたの名前で学校に伝言があったから。でも予想しない人といっしょにて驚いてしまったの。イヴリンには失礼なことをしてしまったわ。今からでも戻って挨拶をしようかしら」
「いや、不要だ」
ジョンが真剣な顔をして言い切ったが、ソフィアは自分がそれを予想していたように思う。そして答えに安堵していることも。
あの時、イヴリンに対して感じた違和感。
それは今になっても拭えていない。ジョンは何も言わないが、あの時のジョンの強引な撤退も気になっている。
たぶん、イヴリンは何かを……ソフィアにはきっと理解できないものを持っている人なのだろうと、それだけはうっすら分かる。それを知りたいとするべきか、ソフィアは答えをまだ出していない。
ただ、これだけは尋ねたかった。
「……イヴリンはとても楽しそうだったけど、ジョンはイヴリンを好きなの?人妻だけど」
「そういった感情は一切ない」
ジョンの断言に、ソフィアは心の底からほっとした。
……そう、尋ねなければジョンのことなどわかりっこないのだ。
「……まさかソフィアがそういったことを聞いてくるとは思わなかった」
ジョンが続けた言葉に、ソフィアは少しうつむいた。確かに意識しているようでそれはとても恥ずかしい。まるでわたしが彼を好きみたいだと耳が赤くなる。実際はシナバーなのでソフィアの頬はその白さを保っているのだが。
「君は僕のことなど、路傍の石のように思っているとばかり」
ところがジョンの認識はその程度だったらしい。
「一応、君と人間関係を構築したいと思っている存在だと理解していただけて嬉しい」
「卑下だか自慢だかわからないわ」
ジョンはソフィアを見下ろしていた。それからふっと笑う。悪夢を見た人間が、目覚めて横に愛しい人がいることを知った瞬間のようだった。
あまり表情に変化のないジョンが見せる柔らかい笑みにソフィアは驚いて思わず凝視してしまった。
「とりあえず歩こうか」
ジョンは、イヴリンからソフィアを一刻も早く離したいとばかりに、背を押すようにして歩き始めた。店の周囲は高価な品々ばかりを揃えた名店が並んでいる。ソフィアはやはり若干の居心地悪さを感じていた。
違う。
それはこれから口にすることのせいだ。
ジョンが何を考えているのかはわからない。でもわかりたいと思ってしまったのだ。彼はやたらと饒舌な時もあるが、自分自身について本心を語ることは少ないように思う。ジョンはその突拍子もない思考回路で物事の真理をつき、時に途方もない勘違いをしている。それを知るためには、尋ねなければならないのだ。
もうすぐ夏になろうとしているが、アーソニアの乾いた空気はまだ時間によっては涼しさを十分残している。もうすぐに首都アーソニアに来て二年になるのだと思いながら、ソフィアはその町の華やかな一角を進む。
ソフィアはジョンと並んで歩く。日曜日の昼下がり、歩道は混んでいて、人とぶつかりそうになる。向かいから来た相手の肩に触れ合って、少し足元がふらついた時、ジョンがソフィアの手を握った。
「人が多い、はぐれる」
まるで大アルビオンの言語に詳しくない人間のような片言で、ジョンがいい訳めいたことを言う。手は放さない。
ジョンの手の厚みは確かにソフィアのものとは違った。指一本でジョンを卒倒させることができるソフィア自身の指先も、彼に比べれば本当に華奢なものだった。
「そうね」
ソフィアはうまく握り返すことも出来ないが、振り払いもせずにそのまま歩き続ける。
調子がくるってしまいそうだ。もっとさらっと聞きたいことがあったのに。
「……本当は、尋ねたいことはもう一つあるの」
「教えてくれたまえ」
ソフィアは少しだけ勇気を振り絞った。なんでも言える気がしていたけど、いつのまにかこんなに彼に踏み込むことが怖かったのだろう。
怖かったのは返事。でもどんな返事が怖いか考えることをためらう。今も。
「イヴリンの結婚話を聞いた頃、あなたに相談したかったの。相談……じゃないわね、ただ話をしたかっただけね。ヒューゴから教えてもらって、あなたがよくいく喫茶店を教えてもらったの。その店まで行った時、本当にあなたを見つけたのよ」
「『湖の貴婦人』か」
ジョンが唸る。
「……それでね、その時に、あなたはとても育ちが良さそうな美しい女性と一緒だったの。なんだか邪魔するのが申し訳なくて、そのまま話しかけないで帰ってしまったわ。それが今も気になっているの」
ソフィアは横のジョンを見上げて、なるべく明るく軽く見えるようににこりと笑う。こんなこと、思いつめた調子で聞かれても困るだろうと思うのだ。
急に、怖気づいてきた自分に気が付く。富裕層の家庭でしかもいい年齢の青年のジョンだ。たしかに中身にはたいそうな問題があるが、婚約者の一人や二人いたっておかしくない。どうも恋人、というのが想像できないのは自分がジョンを理解しているからだろうか……?
「それはいつ頃だろう」
ジョンが唸るように尋ね返してきた。
「半年くらい前ね」
「……なるほど」
ジョンはふむふむと頷く。
「確かに心当たりがある。あの店のチョコレートケーキは確かに絶品だ。近日中に一緒に行こう」
チョコレートケーキの話はしてない!とちょっと苛立つソフィアだったが、ジョンの次の言葉にうっかり足を止めてしまった。
「それで、その女性の件だが……それはさておき、ソフィア、君を我が家に招待したい」
……さておき?!
……我が家?
唐突な言葉に、目の前の道路舗装に視線を固定してしまう。それから恐々ジョンを見た。
「我が家って……スミスさんのご自宅……?」
「そう」
「ご両親と一緒に暮らしていらっしゃるのよね」
「僕の数少ない友人である君を今まで招きもせずに大変申し訳なかったと思う」
どうしてあの女性のことを尋ねたら、そうなるの……?
唖然とするソフィアをジョンは見つめる。
「君の都合のつく日をぜひ教えて欲しい」
そう、どうってことない話。
友人の家族に会うなんて、別に特別なことでもなんでもない。
自分の勉強との兼ね合いでこちらのいい日を言えばいいことじゃない。
……。
そうわかっているのに、ソフィアの口から出たのは全然別の言葉だった。言葉は恐れから来るものだったのだが。
……だって『そんな立場』じゃないし、そして『そんな立場』であろうあの美しい金髪の女性と会うのは嫌だわ。
……どうして?
どうしてそう思うのかわかってしまえば、ソフィアは狼狽するしかなかった。
ジョンを好きなのだ。
いきなり、こんな往来で、当の本人を目の前にして気が付いてしまったことに、ソフィアは次に何を言ったらいいのかわからない。しかし次の言葉を保留にするわけにも行かない。
『ソフィア、君は僕を好きだろう?』なんて。いつもの超人的かつ無配慮の洞察力でジョンが気が付いて、しかも指摘されてしまったら。
恥ずかしくて死ねる。
ソフィアは混乱した。でも、早く何か言わなければ。
「う、うかがわせて頂くわ」
そして付け足す。
「試験の週が終わって、そのうち、おちついたら」
いつか。
そのいつかを想像することはあまりにもどきどきして今はできなかった。
キスと弾丸 第三章 終




