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キスと弾丸  作者: 蒼治
3 伯爵令嬢婚礼事件
52/53

17

 その記事が新聞に載ったのは、ギャラガー家とゴールドベリ家の湖での婚礼から、半年後だった。

 湖に水死により大きく膨らんだ、醜悪な死体が上がったという。


 その身なりから、伯爵ゴールドベリ家の長男、アロンだということは判明した。しかしあまりにも日がたちすぎていたが故に、具体的な死亡日時の測定は不可能だった。婚礼の際に起こったいくつかの事件の犯人と見られ、ギャラガー家使用人クラリッサを殺してしまった故の自死だと結論付けられていた。


 同日、大アルビオン連合王国公爵家の婚礼にて、花婿が駆け落ちという大事件があったがために、そのニュースは極めて小さく扱われていた。






 ジョン・スミスは、落ち着いたいつもどおりの足取りで、高級ホテルグレイシアのラウンジに向かっていた。くるりと回る回転ドアを潜り抜け、巨大なシャンデリアの下がるフロントを横切り、ラウンジで目的の相手を探す。相手はすぐ見つかった。

 ジョンの向かった先に座っている女は艶やかに微笑んだ。


 着ているものは黒い喪服であり、薄い紗が顔にかかる上品な小さな帽子をかぶっていた。しかしその微笑にはかけらも喪中の意は感じられなかった。ラウンジの一番端の席で、二人は白いテーブルクロスを間に挟んで向かい合った。

 犯罪者とはいえ兄への弔意を示すことにジョンは特に興味が無い。


「こんにちは、ジョン・スミス」

「ご足労頂き恐縮だ。ギャラガー夫人」

 どうしてわたくしを呼び出したの?という質問を待つ気はジョンには無い。

 喪服の女、イヴリン・ギャラガーの言葉にジョンはただ端的に要点だけを返す。ジョンは呼びつけた立場であり相手の質問を待つ気はさらさらない。


「僕が知りたいのはただ一つだ。どうしてクラリッサを殺した?」


 ぶしつけ極まりない質問に、イヴリンは怒りも見せずただ淡い微笑を浮かべて彼の目をまっすぐに見ていた。

「謎はそれだけだ」

「どうしてそう思うの?」

 イヴリンは質問に質問を返す。ジョンも彼女が素直に何か答えるとは考えていない。

「そう、思うだけだ。僕が勝手に考えて、予想しているだけだ。物的な証拠など何もない。そんな僕の妄想を聞くかい?」

「興味深いわ、ぜひ聞かせて」


 ジョンとイヴリンのテーブルに、白磁に金と青で花模様が描かれたティーセットがおかれた。銀のシュガーポットがイヴリンの顔を歪めて写していた。イヴリンはかつて学生だった頃には想像も出来ないような華やかな女になっていた。身に着けているものがまるで違うというのは大きいが、彼女の内面の何かが大きく花開いたのは間違いなかった。青みがかかった灰色の目はかつての印象の弱さから脱却し、魅力的な輝きでジョンを見つめる。


 給仕がポットから注いだ紅茶を二人の前にそれぞれ置いた。イヴリンは落ち着いた動作で細い指で持ち上げたカップを口元に運んだ。

「……妄想だから、名前を言うのは憚られる。まあとある伯爵令嬢の話として聞いてくれたまえ」

「貧乏な伯爵令嬢ね」

 イヴリンの返答は囁く程度にひそかなものだったが、答えた後、声に出して笑った。


「そう、とある貧乏な伯爵令嬢の物語だ。物語は、彼女のろくでもない兄が、恩人の金を盗んで帰ってきたところから始まるんじゃないかと思う。そして」

 ジョンは一度だけ肩をすくめた。

「彼は主犯ではない」

「まあ斬新。その後に続く様々な事件の犯人のはずなのに」


「何も罪が無いとは言わない。彼は自らの過去を贖って死んだ。自殺か事故か、そうだな殺人かもしれない。でもそれは事件が終わったときの話。物語の最初では貧乏な伯爵令嬢には、愚劣な兄と大金、その状況を知らないろくでなしの両親、残忍な婚約者だけがある」

「大金以外は本当に要らないものばかりね」


「その時彼女が何を考えていたのかは、さすがに僕もわからないが、大金を目の前にして、今まで虐げられるばかりだった彼女の何かが変わったということは予想できる」

 イヴリンは少しだけ目を細めた。柔らかく弧を描いたままだった口元は楽しそうに開かれた。


「ではそこはわたくしが考えましょう。聡明なジョン・スミス氏も女心にはうといでしょうから。でもその前に、兄の心理もすこし説明する必要がありますね。いわゆる恋愛小説ですから、これもわたくしが」

 イヴリンはゆったりとした話し方で焦りも困惑も何も無い。


「伯爵令嬢は毎夜自分を殴り虐げる兄を恐れていました。愛しているといいながら、どうしてその相手の意にそぐわぬことを無理強いするのか理解できないまま、ただ虐げられていました。でも兄は違ったようで、いざ妹が結婚すると決まれば、一体何を狂ったのか、お金を盗んで駆け落ちしようと言ってきたのです」

「確かに僕には何一つ理解できないことばかりだ。伯爵令嬢もその兄も」

 同意を示すように口を閉じたイヴリンの顔からふと微笑が消えた。


「……今までの暴虐などなかったかのように、自分の前に跪く彼を見て、彼女は思ったの。あれほどに恐れていた存在もいとも容易く変わってしまう。恐れとは、なんて無根拠なのだろうと」

「恐れるより、怒ることにしたのか」

「富豪との結婚は避けられない。けれど自分が彼に殺されるかどうかはまだ決まった未来ではないと考えたの」

 そしてイヴリンはまた感情の読み取れない笑みを浮かべた。


「……兄を行方不明のままにしたのは、伯爵令嬢の計画だろう。彼女は授業時の理解と試験の点数が一致しない不思議な生徒だということを僕も調べたよ。彼女は聡明で、その手には今まで得ることが出来なかった金がある。それで逃げることも出来ただろうが、伯爵令嬢は逃げなかった」

「素敵ね、戦うことにしたのね」


「けれど孤立無援は変わらない。彼女には味方が必要だ。僕なら、もう実家は見切りをつけて結婚先に味方になってくれそうな人間がいないか調べるな。そのための投資でなら兄が盗んだ金を使ってもいい。そこで浮かんできたのは結婚先のシナバーだ。彼がまともな人間であることは見ていれば分かる。おそらく弱みがあって、嫌々残酷な仕事をさせられているんだろう。ではその弱みとは?僕が調べたところによると……いや、想像したことによると、彼には病弱な弟がいるな。入院を繰り返して金もかかるのだろう」


「そうね、彼はきっと優しい人だわ。この先富豪に殺されるか大怪我させられるであろう伯爵令嬢に同情していたくらいだから。あなたの弟も必ず助けるから、と協力をお願いしたら断れないくらいには……人相が悪くって、とても優しい人には見えないけど」

 人の見た目は大切ね、とイヴリンは呟く。

 かつての貧相な娘が、悲劇の伯爵令嬢となり、今は権力を手にした貴婦人に変容したように。


「……僕の知人が富豪に酷く痛めつけられた。その時に簡単だが手当てしてくれた人間がいる。それは状況的には彼しか考えられない」

 ライオネル、と名指しはしなかった。ジョンも彼女から犯罪の自白を得ようとは考えていないのだ。

「残念。思わぬところから、計画は綻ぶものね。優しいということは、詰めが甘いともいえるわね。ジョン・スミスさん、あなたが違和感を覚えたのはそれがきっかけね」


 ジョンはそれには返事をしなかった。

「さて、ともかくこれで『犯人役』『協力者』の駒は揃った。でも十分じゃない」

「そうね。無垢な『証言者』が必要ね」

 伯爵令嬢が、いかに非力で悪意無く、そして夫を純真に愛しているかを主張してくれる存在が。


「だから元学友が必要だったんだろう。また二人とも、おあえつらむきに、明晰な頭脳だが、一人は極めつけのお人よしで、一人は性善説を信じているような間抜けな二人だ」

「まあジョン・スミスさんたら辛辣」

 イヴリンはベールの向こうで目を細めて楽しそうに笑っていた。


「でも役割にあった性格であることはとても望ましいわ。しかも一人はシナバーで頑丈。彼女には身を持って富豪の残酷さを思い知ってもらったの。富豪のシナバーが残忍な性格で、花嫁の危機を感じ取ってくださった。罪悪感を抱いて、伯爵令嬢の味方であろうと決意してくださったようよ」

 ジョンはほぼ無表情で話を聞いていた。ただ、一瞬イヴリンからそらされた視線が彼の苛立ちを示していた。


「あとは公的な記録と同じ。命を狙われた富豪を花嫁が身を持って守り、富豪は改心したの。ただ違うのは、犯人は兄ではなく、協力者、もしくは花嫁」

「兄は富豪のシナバーが、始末したと考えているが?」

「……盗まれたお金はきっと見つからないわ。残念ね」

 冷めた紅茶をジョンは飲んだ。お互いの沈黙は一瞬の休息となる。


「……伯爵令嬢は、兄を許さなかったんだな」

 ジョンの呟きに、イヴリンの瞳に強い感情が走った。ほんの一瞬、でも和らぐことの無い憤りだった。 

「彼は思わなかったのね。自分があまりにも暴力と権力で他者を虐げ続けてきたから。それが自分だけの絶対のものだと思っていたんだわ。同じものを持てば、他人だってそうできるということに思いも寄らなかったのも。しかも女ごときがね」


 イヴリンの瞳は恐ろしく冷たい光を宿していた。ソフィアには見えず、ジョンは興味が無かったが、おそらくこの光は随分前から灯っていたはずだ。

「そして今、富豪も令嬢に許されて、愛されていると思っているの。滑稽ね」

 それは終わった話ではなかった。

 これからの、彼女の計画だ。


「どうして彼らは酷い行為をした相手に、許しを請いさえすればそれが当然のように受け入れられると思うのかしら。謝れば許されると考えることすらわたくしには理解不能だわ。許されたと思う富豪が、資産の名義を伯爵令嬢に書き換えるのがとても不思議だった。許される、と願うことすらありえないようなことをしておいて。彼の傲慢はあまりにも滑稽ね」


「資産の多くをもらったから、もう彼は用無しか」

「まだ彼は死ねないでしょう。だって後継者がいなくちゃ」

 ジョンはチャールズ・ギャラガーのことを考える。ギャラガー工業を引っ張っていく才能は無いあの青年。

 ヘンリーが死んだら、実権はイヴリンは握るだろうか?あるいはチャールズが名目ぐらいは代表になるだろうか?


 イヴリンはギャラガー工業をまとめる才覚があるだろう。

 どちらにせよ、チャールズは自分が苦労さえしなければ、どちらでもいいのだろう。イヴリンはきっとうまく丸め込む。チャールズはその愚かさと、在る意味の無欲さで生き延びるだろうとジョンには予想できた。

 ただ、親戚はイヴリンがでしゃばるのを面白く思わないはずだ。だから今、イヴリンには次の駒が必要になっている。

『後継者』。

 別の名として、ヘンリーとの子供、という次の駒を。


「富豪の弟と結婚するというのも手段だな」

 遊んでいてよく、浮気も大丈夫だとすれば、チャールズはその気楽な立場を喜んで受け入れるだろう。出世欲は無い男だ。

「……富豪の弟には、幸せな結婚をして欲しいと思うわ」

 イヴリンはとぼける。

 それからしばらく沈黙があった。


 イヴリンが背後で何人もの男を操っていると気が付いたのは、あの湖上の城での事件も終盤だ。それがジョンには後悔だった。

 罪悪感に、イヴリンの思うまま動いてしまったという真実をソフィアは知らない。イヴリンはヘンリーと和解して幸せな結婚生活をしていると思っている。

 いくらかの違和感は覚えていたようだが。


「君の目的は、ヘンリーとの和解だったのだな」

「ええそうよ。大切な夫ですもの」

 イヴリンは自身の話となった瞬間に、そんな心無い返事を返してくる。


 和解と言っても、表面的に知られている美談ではない。『妻に裏切られた男が、新しい妻によって優しさと愛情をとりもどした』そんな失笑モノの話ではないのだ。

『男の愛情を糧に、妻は莫大な権力を手にしようとしている』

 それが深い場所にある真実。


「どうしてクラリッサを殺した?」

 最初の問いをジョンは繰り返した。

「クラリッサがどうして亡くなったはわたくしは知らないわ。そうね、伯爵令嬢と富豪のシナバーの悪巧みを聞いてしまったのかもしれないわね」

 それが本当と確信することは出来ないが、それくらいしか思い浮かばない。


「ただ、思うことあるわ。あの人は真実の愛を持っていたの」

「……なんだそれは」

 唐突に出てきた抽象概念にジョンは言葉を失った。

「彼女だけが、富豪が本当は優しい人間だと信じていた。彼の権力ではなく彼のために仕えていたのよ」

 イヴリンは可愛らしく首をかしげた。

「そういう女が二人もいては困るわね、一人でいい」


 イヴリンのヘンリーに対する献身、クラリッサが居なくなった頃から彼女は仕上げの様にそれを模倣し始めた。だが確かにオリジナルがそばにあっては、模倣はやがて化けの皮がはがれる。

「……なるほど」

 イヴリンは多くを語ったようで何も語っていない。


 あくまで物語として話は進む。クラリッサとアロンを殺したとは、物語としても言っていない。そもそもジョンが彼女を告発する意志がないことを見抜いていてもこの用心だ。

 物証も無い状況では、彼女を告発するのは手間だ。しかもジャス製薬もギャラガー工業も大企業だ。争ってもお互いに利点など無い。

 ジョンの言葉を最後に二人はしばらく押し黙った。


「ありがとう。時間を頂いてすまなかった。僕としてはじつに腑に落ちた」

「わたくしの想像癖もお役に立って嬉しいわ。じゃあこれはもう燃やしてしまうわね」

 イヴリンはテーブルの上に先ほどからそっと置いてあった折り畳んだ小さな紙を広げた。

『ソフィアへのプレゼントについて相談したい。たとえば薄紫の小瓶などどうだろう』

 よく手入れされた爪の先を見せ付けるように、細かく小さく裂いていく。


「毒をあおる直前に、解毒剤を飲んでいたんだろう?」

 ジョンにしてみれば、イヴリンが怪しいと思った時から、すべてその視点に立って考えることになる。毒を準備して仕込んだのは彼女自身であろうが、死ぬつもりがなければ、なんらかの対応をとっているはずだ。

 解毒剤を保管していることを、以前学生だった彼女なら知っている。

 調べたジョンは、医科大学校から解毒剤が盗まれ、それが薄紫の小瓶であったと知っている。


 イヴリンはそれには答えなかった。ただ、無言でマッチを擦り、紙を投げ入れた灰皿に捨てる。

「もう連絡はしないで。夫に心配されたくないの」

 イヴリンは強請られる恐れを持ってきて、内密にここに来たのだろう。だが、ジョンと話す中でその心配はないと察したようだった。


 ジョンはあくまでも、自分の疑問を解消したいだけだ。ジョンは他人の様子からその立場と思考を推し量る。

 イヴリンは超人的な直感力で、他人の心情を、その弱点を読んで動く。今まで虐げられていた彼女がその代償として得たものだろう。


 互いに何を考えているかは、分かっていた。

「恐ろしい犯罪物語だった。ああ、本当に恐ろしい物語だ」

 善良な市民がそんなことでよろしいの?というからかいがイヴリンの微笑みにはあった。

「そうね、物語ね」


 だがジョンはふいに、まっすぐにイヴリンを見た。

「ヘンリー・ギャラガーがどうなろうと知ったことではない。というか、僕はそもそもいつか彼に復讐してやる気だった。死んでくれれば手間が省ける。僕は別に善良でもなんでもない。たまたま世の道徳と今のところ一致しているだけで、本来は自己中心だと知っている」

 イヴリンが口を開きかけたとき、ジョンは畳み掛けた。

「だから君も嫌いだ」


 イヴリンは虚をつかれた様に目を丸くした。なぜかそこは想定外だったようだ。

「……あなたまさか……ソフィアが傷つけられたことを怒っていらっしゃるの?」

「率直に言うが、君はソフィアを嫌いだろう。ヘンリー・ギャラガーはソフィアを貧乏学生だと思って死んでもいいと考えていた。たまたまライオネルにソフィアを手当てして見逃す優しさがあって、彼女は逃げおおせたが、シナバーということをさておいても死んでおかしくない怪我だった。それを見越さない君じゃない。『証言者』はエイミーがいれば事足りる。君もまた、ソフィアが死んでもいいと考えてたと僕は判断する」

 そこでジョンは首を横に振った。


「君はソフィアを憎んでいる」

 イヴリンの笑顔は揺るがない。だが視線はさ迷った。

「……どうしてわたくしがソフィアを憎んでいると?」

「知らないし興味は無い。だがソフィアに今後何かするようであれば、僕は君を許さない」

 イヴリンはしばらく黙っていた。ジョンの言葉を否定しない沈黙。


「存じ上げなかったわ。あなたがソフィアを好きだなんて」

 するりと彼女は話題をそらした。ジョンはそれを予想していたように答える。

「そうだな、君よりはずっとソフィアのほうが好きだ。根本的に道徳心がない僕も、彼女や彼女の周辺にいる人間と一緒にいると、善良な存在でいられるような気がする」

「……欺瞞ね」

「だろうな」

 イヴリンは飄々としたジョンの返事に、ついに一瞬不快感を表した。


「わたくしは、欺瞞は嫌い。ああいう自分が善良だと考えている人間達と一緒にいると、その傲慢さにいらいらする」

「君の気持ちも分かる。だがソフィアを傷つけた時点で君とは相容れない」

「わたくしは、結構あなたを好きよ。だから今日来て良かったわ」

 イヴリンは自分の感情を押さえつける。

「あなたとは、ジャス製薬とはうまくやっていきたかったから」

 それもあるだろうが、イヴリンはジョンがどこまでイヴリンの計画を察し、それをどう扱うのか心配だったために呼びつけたのだと分かる。


「わたくしは結構あなたが好きよ。あなた、『好きな女の子』には意外と優しいのね。だからきっと」

 イヴリンはすっと指先を伸ばした。テーブルの上に置かれていたジョンの手の先に触れる。

「あなたはソフィアに今の話はできないわ。だって聞いたらソフィアは自分の愚かさに傷付くでしょうから。ソフィアを傷つけたくないんでしょう、ジョン・スミス」


「やめたまえ!」

 ジョンはとっさに椅子から立ち上がった。不気味な虫に触れてしまったような顔をしていた。

 目を見開いてイヴリンを見下ろす。そしてイヴリンの視線が自分の背後にあることに気が付いた。

「あらソフィア」

 ジョンが振り返るのとイヴリンの呼びかけは同時だった。


 ソフィアは目を見開いて二人を凝視していた。今の光景を見られてしまったことは明らかで、ジョンは息を飲んだ。ソフィアは逡巡した後、くるっと二人に背を向けた。そのまますたすたと店を出て行く。

「……ソフィアを呼んだのか」

「ええ、あなたのお名前で。学校に伝言を」

 ジョンはイヴリンをにらみ付けた。この女は手ごわいと思う。自分と同じように、しかしまったく違う手段で、他者を翻弄する。


「これで失礼する」

「そうね、早く追いかけないとソフィアがどこかに行ってしまうわ。お支払いはわたくしに任せてくださって結構よ」

 イヴリンは微笑んだ。次の言葉を発する前にジョンは席を立った。振り返る価値もないとその背は語っていた。





ジョンが急ぎ足で店を出て行くのを見送ったあと、イヴリンに近付いてきたのはライオネルだった。遠くの席から二人を見ていたらしい。

「用事はお済みですか、奥様」

「ええ」

 ライオネルは座らずに席の横に立ったままだ。


「あまり男性と二人きりで会うのはお控えください。知られましたら旦那様が驚きます。本日は帽子店への外出と伝えてあります」

「ええもちろん。彼とは二度と会わないわ」

 イヴリンは無視してゆっくりと紅茶を飲む。

「言うことを聞くわ。あなたしか頼れないから」


 ライオネルは知っているだろう。

 彼女が同じ言葉を、アロンに言い、今もヘンリーに、チャールズに、そして自分に言っていることを。

 けれどそれがわかってなお、今の彼女にライオネルが歯向かう事はない。最初は哀れな娘だと同情的だった。そこに漬け込んで、好意を引き出し、彼の病弱な弟のことを守ると宣言した。


 ライオネルにもチャールズにもキス一つ与えていない。それでも彼らが言って欲しい言葉は分かるから、その言葉だけで彼らを支配することは可能だ。

 でもヘンリーが居なくなったら、不要なライオネルはどうやって始末しようかしら。

 イヴリンは自分の過去を一番知り尽くしている男の数年後を考えていた。いくら信奉者と言っても、弱みを握るものをそのままにして置いては不合理だ。


 彼が真実に気が付かないとも限らないし。

 クラリッサを殺したのはアロンだと言ってある。でも本当は、イヴリンだ。アロンだと言わなければ、ライオネルはイヴリンのアリバイ作りに協力しなかっただろう。城の外壁を飛び移って、人に見られることなくイヴリンの部屋まで返してくれた。その人殺しに怒ってくれたからこそ、アロンを始末してもくれたのだ。


 優しいクラリッサを殺してしまったのが自分だと分かったら、ライオネルはイヴリンを巻き込んで警察に自首しかねない。本当は優しい男と言うのも始末に困る。

 シナバーだから強いし、薬も利かないし、まったく困ったものね。

 ライオネルに椅子を引かれ、イヴリンは立ち上がった。ジョンの手紙はすでにかさかさに乾いた灰だった。

「ありがとう、ライオネル」

 彼の始末についてはゆっくり考えることにして、イヴリンは彼に微笑みかけた。

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