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キスと弾丸  作者: 蒼治
3 伯爵令嬢婚礼事件
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16

 イヴリンは、床に伏し嘆き悲しむその男を、見下ろしていた。

「ああ、イヴリン、俺が悪かった。金に目が眩んで、お前をヘンリーに売り渡すような真似をしてしまった。本当に後悔している。お前を手放すなんて俺は血迷っていたんだ」


 イヴリンは知らずに首を傾げていた。男の言うことはまったく理解不能だった。今まで自分を陵辱し搾取し暴力を振るってきた彼、イヴリンの意思など一片も鑑みることのなかった男が、今、イヴリンを思って泣いている。

 男の脇には大きなボストンバッグがある。その中に入っているものの正体を聞いて、先ほどイヴリンは血の気が引いた。

 ギャラガー家から盗んできたという、大金。


 ……なんて愚かな男だろう。

 今まで、彼に対する恐怖心で、思うことすら出来なかったことをイヴリンははっきりと自覚した。


 ゴールドベリがそれでも伯爵家としての体裁を整えるためにはどうしたって、ギャラガー家の支援が必要だ。兄…アロンを、そして両親を救うために、イヴリンは青髭と名高い凶悪な男に嫁ごうとしている。自分が碌な死に方をしないだろうということをすでに予感していても、自分が犠牲になるしかないと思ったのだ。


 わたしは。

 わたしは、犠牲になる人生しか知らなかった。


 兄から性的な虐待を受けてきた。両親もその事実を知らないはずがないのに黙殺してきた。

 兄は無能な人間で、ギャラガー社のためにまったく力になることができなかった。彼が思いついたアイデアはすべて、相談されたイヴリンが提供したものだ。両親も資産を維持するということがまったく思い至らない人間だ。それなのに、長男と言うだけでアロンしか見えていない。イヴリンが兄より有能ということすら厭うていた。


 だからイヴリンは、試験の成績すら調整し、あくまでも凡庸な医学生であろうとしたのだ。医師として稼いでなんとかゴールドベリを守り、有能な男と結婚しようと思っていたというのに、舞い込んだヘンリーとの結婚話で消し飛んだ。


 でも。

 いつか、兄と両親がわたしを愛してくれるだろうと、感謝してくれるだろうと思っていたから。


 アロンがイヴリンに押し付けてきたものは身勝手な性欲と独占欲だ。彼自身だって、それは知っているはずだろうに。

「兄だの妹だの、そんなもの何も関係ない。イヴリン、愛しているんだ。俺にはお前しかいないんだ」

 愛ですって?

 イヴリンは笑い出しそうになった。


 これほどに、わたしの意思を無視しておいて、それなのに彼は愛だと言う。この男は自分がどれほどの無体を強いているかの自覚すらないのだ。愚かなだけでなく、自分を善人で運が悪かっただけだと、自分自身を哀れんでいるのか。

 イヴリンの心から、手のひらから砂が零れ落ちるように、家族への愛情が消えうせていくのがわかった。


 彼らはわたしを愛せなかったのではない。

 己以外の誰のことも愛していないのだ。


 両親が自己愛故に甘やかした結果である愚かな兄をイヴリンは見下ろす。それもまた気の毒な話なのかもしれないが、さらなる犠牲者であったイヴリンに彼を哀れむ気持ちは湧いてこなかった。アロンはイヴリンの足にすがりついた。

「イヴリン、この金で遠くに行こう。二人で逃げよう」


 どうしてわたしが、あなたを愛していると思っているのか。

 彼は今まで自分の玩具であった女が消えるのが嫌なだけなのだ。それをわたしが気が付いていないとどうして思えるのだろう。


 ここでイヴリンが拒否することすら想定しないのだ。


 兄よ、わたしも魂ある存在なのです。


 彼が哂ってイヴリンをヘンリー・ギャラガーに売り、その支援でゴールドベリが生きながらえ、アロンが後を継ぐのなら、まだよかった。アロンはイヴリンを最後まで道具扱いしただろうが、それでも人生に意味はあっただろう。

 アロンが彼自身を哀れんでいることが無性に気に障った。彼は自分が一番かわいそうで、なにも間違ったことをしていないとすら考えているのだ。自己憐憫により、罪悪感を抱えることすらない。


 こんな男に、そしてそれを作り出した両親に自分が今まで支配されていたことが、途方もなく馬鹿馬鹿しくなった。

 なぜこんな悪人のために自分が犠牲にならなければならないのだ。


 アロンも、両親も、ヘンリー・ギャラガーも、彼の暴虐を許してきた全ての存在も、イヴリンを助けることのなかった知人友人も……すべてに憎悪を覚える。


 このまま自分の人生が終わってたまるものか。


 けれど今のイヴリンにはさほど選択肢がない。

 この愚かな兄に従って逃げるか、残ってギャラガーの嫁ぐかのどちらかだ。

 けれど兄と一緒に逃げたところで先は知れている。どうせ贅沢を我慢できない人間だ。すぐに資金は付き、彼はイヴリンを殴るだろう。売春宿にイヴリンを売る日も遠くない。

 ギャラガーに嫁げば、兄を苦しめることはできるだろうが、イヴリンも長生きできまい。兄の苦しみも所詮は自己憐憫に過ぎない。『可哀想なイヴリン』の影に自己憐憫を隠して嘆くだけだ。


 今まで家族のためと思って伏せてきた全ての感情が溢れ、怒りとなっていた。空が落ちるほどの勢いでイヴリンの世界は塗り替えられる。


 もう犠牲になりたくない。

 けれど、わたしはこのままただ虐げられる存在で終わるのか。


 イヴリンはそっと視線を移した。イヴリンの部屋の大きな姿見に自分の姿が映っている。青ざめた、生気のない……けれど瞳だけは怒りで燃え上がった女の姿が。


 ああ、美しい。

 初めて自分のことをそう思った。そうだ、いままで得意になったことはないが、わたしは美しい女であった。だから兄も血迷い、ヘンリーもとりあえず満足している。

 ……それに知力もある。ないのは財力と腕力。


 否。


 イヴリンはボストンバッグに目を落とす。そう、当面の財力はここにある。


 わたくしの世界はもう崩れ落ちたけれど、だからこそ立ち向かえる機会を得た。わたくしにとって有益な世界を新たに作るべき時だ。


 ゆっくりとイヴリンは座り込み、嘆く兄の肩に触れた。期待に満ちた目で顔を上げられて、虫唾が走る。それを微笑で覆い隠して兄の額に口付けた。

「ああ、アロン、そんな風に嘆かないで」

「イヴリン……俺がふがいないばかりに」

「いいえ、あなたのせいじゃないわ。時代が悪いのよ」

 イヴリンはそっと両手で彼の頬を包む。

「イヴリン、俺と一緒に逃げてくれるのか」

「両親とギャラガー家はどうするの?」

「両親?あんな奴ら知るものか。あいつらがゴールドベリを食いつぶしたんだ」


 その恩恵に預かりながら、一体あなたは何を言っているのだとイヴリンは苛立ったが完璧に隠し通した。

 そう、戦うのだ。

 自分のために。


「アロン。そうしたいわ、わたしも。あんな男に嫁ぐなんてまっぴらだもの。でもだめよ、ヘンリーは執念深い。きっと捕まってしまう。だから少し待って。わたしがなんとかするから」

「なんとかするって……?」

 アロンはぽかんとしてイヴリンを見た。

「ギャラガーの財産があれば、ゴールドベリはなんだって出来るわ。彼の資産を少しわけてもらいましょう」

「その前に殺されて……」


 妹が殺されると分かっていても最初は財産に目が眩んでいたくせに。

 何度も湧き上がる怒りは隠すしかない。これこそがわたくしの生きる気力だけど、でもそれを知られてはならない。


「殺されないようにするの。ヘンリーを信用させてわたしを愛してもらう」

「だがあいつは筋金入りの女性不信だ」

「そうね、漫然と生活していてはだめだわ。でも何かが起きたためにヘンリーが人間不信になったのなら、また何かによって変えられるかもしれない」


 たとえば、彼を命がけで庇う女がいたら?

 その状況を作らなければ。わたしが殺される前に。


「アロン。あなたはもう、このままでは社会の表舞台には立てないわ。ヘンリーからお金を取ってしまったんですもの」

 それは兄にとっては恐ろしい事態のようだった。今更ながらに自分がしでかしたことを思い知っている。

「でもヘンリーが許せば大丈夫。ヘンリーがわたしを愛せば、あなたのことだって許してくれる。そのためにもどうか協力して」


 神様、わたしに一度の好機を与えてくださって感謝します。確実に、わたしはこの機会にわたしの人生を取り戻します。


「アロン、お願い、あなたを愛しているの。あなたが日陰者になるなんて嫌よ。わたしに力を貸して。別に人を傷つけたり殺したりなんてしないわ。ただヘンリーを怯えさせれば大丈夫」

 アロンは大金を盗んだが、ヘンリー・ギャラガーにしてみれば些少な金だ。逆にイヴリンを痛めつける理由になって喜んでいるだろう。だからイヴリンが逃げなければ、アロンのことは執拗に追い回したりしないはずだ。


「お願いよアロン」

 イヴリンは男を抱きしめた。

 嫌悪しかない。でも利用できるのならばいくらでもこれくらいのことはする。

「イヴリン……!」

 彼が抱き返してくる。


 早く死んで。


 心のうちでイヴリンは呟く。

 今までに犯された回数を、殴られた回数を数えるのはやめた。ただ世界に対する復讐心さえあればいい。

 わたしを愛してくれなかった世界など、必ず見返してみせる。

 人を殺すのさえ、ためらいはしない。


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