14
一人の死などなかったかのように、昼からの宴席は和やかに始まった。昨晩のディナーに比べれば随分気軽な雰囲気で、宴席が二箇所に別れてしまったことさえ、楽しんでいるようだった。城と屋敷の双方から花火があがっている。
もちろん急な変更も多々あったわけで、それを帳尻会わせた使用人の苦労は想像に余りあるが。
昼の宴席が終われば、もう夕刻が近い。昨晩の夜更かしもあって、ソフィアとエイミーはさすがに部屋に戻ろうかと話をしていた。本来は今日帰るはずだったのだが、吊り橋のロープが切れたためにもう一泊となってしまった。アーサーは元気に社交をこなしているが、二人はもうぐったりだ。
ジョンもジョンで、表情に活気がない。
三人で客間でだらだらと話をしていたがジョンは気もそぞろのようだ。
「どうしたの?」
その様子にソフィアが尋ねると、ジョンは低く唸るように答える。
「気になっていることが。研究を保留にして来てしまったから。大丈夫だろうかと心配している。新薬に関わる大事な実験だ。助手がちゃんとやってくれているだろうか」
「忙しかったのね。よく来る気になったわね」
ジョンは肩をすくめた。アーサーがやれば実に様になるが、ジョンはその美貌を持ってしても『肩をすくめた』としか言いようがない。
「生きていれば、この僕であっても仕方のないことはある」
「一応傍若無人に生きているという自覚はあったの?」
ソフィアは呆れてしまう。しかしジョンの変わらなさはありがたい。特にこんな状況では。
「ジョンも、クラリッサのことは気になる?」
ソフィアが尋ねると、ソファに深く座ったままのジョンは、無表情に首を横に振った。
「あれは死だ。終わった話だ」
「まあ冷たいわ、ジョン」
エイミーが眉をひそめる。ジョンは淡々とつけたした。
「もちろん不可解な点はあるが。クラリッサが身体が弱かったとか不自由だったという話は聞かない。昨日も健康そのものだった。それなのに、自分でコーヒーテーブルに頭を打ち付けるような転倒など起こりえるのだろうか。そもそも、あの香水たっぷりのハンカチはなんだ。まるで、『殺人です、容疑者がいます』と宣伝しているみたいだ」
殺人という発言にエイミーが息を飲んだ。病死や事故死は想定の範囲であっても、殺人と言う死因は、二人に馴染んだものではない。
ジョンは目の前のコーヒーに手をつけた。
「だから不可解だ」
ジョンの口数の少なさに、ソフィアはぎょっとした。
「……いろいろ突き詰めることが出来る。でもそれで裏を引いている誰かを知っても不愉快なだけだろうなと思うんだ」
その時、突然男の悲鳴が響き渡った。ソフィアはジョンと目を合わせると椅子から立ち上がった。
「エイミーはここにいて」
言い放って二人で駆け出した。悲鳴の元は二階の廊下の様に思えた。階段を駆け上がり、広い廊下を駆けていく。
「君もエイミと一緒に居たまえ」
ジョンが後ろからソフィアの手を掴んでいった。少しだけ駆け足の早さをゆるめ、ジョンに合わせながらソフィアは答える。
「だってジョンは行くでしょう?」
「僕が行くからいいじゃないか」
「ジョンが行くならわたしも行くわ」
「……本当に君はなにもわかっていないな」
短い会話でジョンが機嫌悪くなる様を見て、ソフィアは続けた。
「だって、一緒にいないとあなたを守れないじゃない」
エイミーが聞いたら、「ソフィア、それは男性に言ってはいけない言葉だと思うわ」とあとで柱の影あたりで忠告しただろう。残念なことにエイミーは付いてきておらず聞いていなかったので、ソフィアの認識が改まることはない。
ともかくジョンの機嫌が少し斜めに傾き、ソフィアが自分達は今手を繋いでいると理解する頃に、その現場に着いた。
そこは二階と三階を繋ぐ階段の真下だった。慌てて足を止めた二人の前に、ヘンリーが伏していた。青白い顔をして、へたり込んでいた。階段から転げ落ちたのだろうということは、先ほどの悲鳴で想像が付いた。
「大丈夫か、ヘンリー・ギャラガー」
ジョンが愛想のない声で尋ねる。一応怪我を心配している言葉を発しているが、実のところそんな気持ちがないことは、ソフィアにもはっきり分かる。
「大丈夫なわけがあるか!階段から落ちたんだぞ!」
しかしヘンリーも激昂していてジョンの気のなさには気が付いていないようだ。その言葉に重なるようにして足音が近寄ってきた。顔を上げてみればライオネルだった。
「どうなさいました、ヘンリー様」
「お前はどこに行っていたんだ、俺の警護なのに!」
「先ほど命じられたとおり、城内にアロンがいないかどうか確認していました」
その言葉にはっとして、ソフィアはジョンと顔を見合わせた。あの時は気のない顔をして隠していたが、ヘンリーはアロンを恐れているのだ。
「この無能が!」
立ち上がったヘンリーは持っていた杖でライオネルのわき腹を思い切り殴りつけた。シナバーである彼はびくともしないが痛みは感じているはずだ。抗議しようと足を踏み出したソフィアの手を掴んで制したのはジョンだ。
「お前がいない間に俺を階段から突き落としたのはアロンだ!」
その言葉に廊下は一瞬静まり返った。
発言を待っていたかのように、ソフィアは周辺に漂う良い香りに気がつく。
あのクラリッサが握り締めていたハンカチを開いた時に漂った香り、それと同じであることにソフィアは気が付く。
「顔を見たのか?」
ジョンが周囲を見回しながら訪ねた。
「背後から急に突き飛ばされたんだ、顔は見ていない。だがこの屋敷で俺を傷つけようとするやつはあいつだけだ。あいつは逆恨みとはいえ俺を恨んでいるからな。あいつは自分のアイデアをろくに理解していなかった。それを把握して、商品にこぎつけるところまでやったのは俺の力だ。俺に感謝こそすれ、恨むなんてまったく筋違いだ」
「でもライオネルによれば、ここにアロンはいないんでしょう?」
ソフィアはライオネルを見た。
ふと彼に対する恐怖感が薄れていることに気が付いた。怖いことは怖いが、でも足は震えないし、まっすぐ彼の目を見ることもできる。それはなんのおかげなのだろうか。ソフィアがそれを思案する前にライオネルは答えた。
「いないと思います。しかし城は広く影は多い」
まだ、探しきっていないということを渋りながらライオネルも白状する。
「それにこの香り」
ライオネルは、漂う香水の元を辿って、ヘンリーを見つめる。まるで、付き落とされたとき、ヘンリーに付いたのだろうといわんばかりだった。
「それはアロン様がいつもつけておられました」
「よく探せ!城が広いといっても必ず隙間はあるはずなんだ!」
ヘンリーはわめき散らす。その声を聞いていぶかしんだのか、廊下を歩いてくる足音が多く聞こえ始めた。
「行こう」
人が集まってくれば、見栄っ張りなヘンリーは今の一件をごまかすだろう。そうなれば状況は聞けなくなる。
同じように察したジョンがソフィアを促した。とりあえず、ソフィアも歩き始める。美しい湖の風景が良く見えるベランダのエイミーの元に戻ることにした。
「もういいの?」
「少なくともヘンリーからはそれしか聞けないだろう」
ジョンはそして黙り込んだ。何か不可解なことを思案しているようだった。彼が時おりそういった思考の沼に入り込むことは知っているソフィアは、やれやれと呆れただけだ。
ジョンにではなくヘンリーに。
ヘンリーは尊大で、残酷だと思った。その心はどれほどの強いのだろうかとも。しかし自分自身が危機にさらされてみれば、ただの騒ぎたてる卑小な男だ。
軽蔑、という感情を学びそうになってソフィアは慌てた。誰に対してもそんなふうに思うなんて許されないと思ったのだ。
それでもその小さな男に虐げられるイヴリンを思うと、まったく彼には同情できない。こころのどこかでイヴリンを助ける方法を探しているソフィアは、ヘンリーが大怪我すればいいんじゃないかしら、とふと思い、慌ててその考えを振り払う。
人の不幸を望むなんて、酷いことだ。それではヘンリーと変わらない。
「ソフィア」
ジョンが声をかけてくる。
「アロンの目的はなんだろうな?」
「ヘンリーを痛めつけたいんでしょう?」
ジョンは首を横に振った。
「痛めつけたいならもっといい方法があるはずだ。こんな狭い空間で」
「でも首都ではヘンリーは十分な警護をされた屋敷にいるわ。逃げ道だって沢山ある。この閉鎖された場所だからこそ狙いやすいんじゃないかしら?」
「……それで狙ってどうするんだ?……まるでヘンリーを怖がらせるのが目的みたいで、傷はまったくついていないじゃないか」
確かに、跳ね橋のロープが切れても、階段を付き落とされても、致命的な怪我にはなっていない。ヘンリーを狙っているようで、実際命を落としたのはクラリッサだ。
「なんだろう。なにか意図があるはずなんだ」
ジョンは首を傾げていた。
エイミーは、使用人が蝋燭を燈して回っているのを追いかけるように、廊下を歩いていた。昼の宴席の後、アーサーは名士達に誘われてどこかに行ってしまった。きっと酒か葉巻でも楽しんでいるのだろう。
先ほどまでソフィアとジョンと一緒に空中庭園で話していた。一時、聞こえた悲鳴に二人は姿を消したがまもなく帰って来た。ヘンリーが階段から落ちたのだと教えてくれた。本当に小声で『誰かに突き落とされたらしいのよ』とソフィアが辺りを気にしながら付け加えた。
湖上は湖上で、湖畔は湖畔で宴席が設けられているらしい。客は一箇所に揃わず、湖畔の屋敷にいたっては花嫁花婿もいないが客達はそれなりに楽しんでいるらしい。そこに無関心を知って、エイミーは珍しくいらいらしていた。
しかも人が一人亡くなっているのに!
それでもソフィアとジョンと話をするのは楽しかったので、先ほどまでは一緒にいたのだ。
ジョンと言う人間は、なんて好男子なのかと今まで思っていたが、今日と昨日でその印象ががっつり覆った。
ジョンとアーサー、時にソフィアは辛辣な言葉の応酬である。今まで知らなかったのは、エイミーに対してジョンがそれなりに気を使っていたということ以外の何ものでもない。しかしこのわずか二日間で、一気に化けの皮がはがれた。
でもそんなに嫌な気分にはならないわね。
エイミーは一人そっと微笑む。
ジョンがエイミーに気を使っていたのは、ソフィアのためだろう。
気を使わなくなったのは、エイミーにある程度気を許したということもあるはず。
だからどっちでも別に頭にこない。
でもソフィアはそういうジョンの思案なんて思いつきもしないのだ。ジョンが気を使うのも使わないのも、彼女の影響が大きいのに。
まあそのうち自分もとんでもないことを言われるかもしれないが。
今一人で廊下を歩いているのは、なんとなくそんなジョンに気を使ってみた結果である。まあ昼の宴席から続くお茶会までで本当におなかが一杯と言うこともあるが、部屋で休むといって二人から離れたのだ。
廊下を歩いていると、階段の途中で座り込んでいる人を見つめた。まさかまた死体かとぎょっとしてみたが、それは酔った瞳でぼんやり踊り場の絵画を見ているチャールズだった。
「そんなところでどうなさったの?」
エイミーが声をかけると、チャールズは上階のエイミーを見て微笑んだ。まるで捨てられた犬のような目になんとなく放置できなくてエイミーは階段を下り、彼の横に座った。
「お水など、頼んできましょうか?」
「いいや結構だよ。でも気を使ってもらって嬉しいよ。若い女性の多くは湖畔の屋敷にいるから、この城内で僕は一人ぼっちだったからね。エイミーがいることを早く思い出していればよかった」
名前を覚えられていた事実に仰天する。本当にまめな男性ね、と感嘆に近い感情を覚えた。
「それなら船で湖畔の屋敷に行けばよかったのね」
別に彼はここに監禁されているわけではない。
「そんなことできるわけがないだろう。囚われの姫君がいるのに」
チャールズは相変わらずのふざけた口調だ。しかしそこに今までにないほどの真実があることにエイミーは気が付く。
「……イヴリンのこと?」
チャールズは肯定に値する動作は何もなかった。それでもチャールズの視線にイヴリンに対する好意ははっきりと見えた。
「本当に可哀想な女性だ。僕にできるものなら助けてあげたい」
イヴリンが気の毒だと彼は言う。彼女が気の毒な状態にあることをわかっているのだ。分かっているになにもしない彼に少なからず腹が立つ。
「どうして助けられないの?あなたはヘンリーの弟さんでしょう。お兄さんに残酷な扱いをやめるように伝えてあげればいいのに」
それができるのは彼だけだろう。発言は恐ろしく無礼だとわかっていたが、エイミーも口に出さずにはいられなかった。チャールズは泥酔でどろっと濁った目を向けた。
「僕じゃどうにもできないんだ。だって僕は、兄に資産を握られているからね。僕には会社運営の知識も商品開発の技量も無い。全部ヘンリーのものなんだ。ヘンリーに愛想を付かされたら僕は生きることもままならない」
生きる事。
エイミーは、その表現に比べて、彼の欲望の多さを知る。彼の生きるとは、飲食に贅沢を尽くし、女性にもてるくらいの気前の良さと己の衣類の充実を図れる『程度』ということなのだ。
そういうふうにしか生きてこなかったから。
貧乏も耐えられると夢見る富裕層よりはマシだが、それでも腹は立つ。
「そんな状況になってしまったら結局イヴリンを救う事だってできない。結局僕には何も出来ないんだ。僕のことは愚かで非力な無能者と罵ってくれていい」
打ちひしがれた様子は悲劇の主人公のようだった。
ああ、この人は。
エイミーはまた悲しみに胸が痛む。こんな人間しか周囲にいないイヴリンにだ。
チャールズは至極まともな上流階級なのだろう。それが失われることなど人生の想定外とするほどに。嘆きも自らの人生を彩る一場面でしかない。少し思いやりが足りないが、優しく女性に親切な色男。
それを維持することが自らの人生。
空虚だと罵ることはエイミーにはできなかった。エイミーのもともとの優しさもあるが、彼が『チャールズ・ギャラガー』を無意識に演じている限り、自らの魂の脆弱さを知ることは無いだろう。分からぬことをくどくど説くほどエイミーは暇でもない。
「イヴリンは優しく賢い女性だよ」
チャールズは誰に向かってか何度も頷く。
「こんな僕にも『あなたはこのままでいいのよ。あなたの優しさは変えがたいもの』と言ってくれた。ああ、いざとなれば、僕は兄を傷つけるのためらわないが、でも僕には力が無い」
力が無い、と言い訳をして、イヴリンの言葉を免罪符にするのか。
エイミーには痛いほどに分かる。自分も自分の勇気の無さで、結局土壇場で婚約者を傷つけた経験があるからだ。
でも。
言い訳を正当化するのはおかしい。
そんなエイミーの葛藤も知らず、チャールズは顔を近づけて言った。
「ああ、エイミー、優しい人。慰めておくれ」
あ、すごーく腹が立ってきたわ。
エイミーは、微笑んだ。ふっくらした頬と唇に優しげと評される弧が描かれる。
「だめよ、チャールズ・ギャラガーさん」
エイミーは白くふっくらした指を大きく広げて、チャールズの両頬を掴んだ。残念ながら爪は短く切りそろえられているが、長ければ爪も立てたいところだった。
「あなた酔いすぎよ。早くお部屋で休まれたほうがいいわ」
そしてエイミーは立ち上がった。見上げてくる彼に最後、心無い微笑を投げつけて、言う。
「イヴリンを助けたいと願うなら、あなたは私達には想像もできなくらいの力があるでしょうに」
ソフィアは幾度も「エイミーは優しいから」と言う。ソフィアは自分自身は辛辣で冷酷で皮肉屋だと考えているようだ。
でも、この人はダメな人だと思っても、救おうとする器量の大きさはソフィアの方が上だとエイミーは知っている。
私は、この人はダメだ、の基準はソフィアよりもゆるいけど、ダメだと思った人に注ぐ優しさは無いのだ。
ふと、ああ、この人は困った人ね、といつも思っているが、それでもダメだとは思わず、どうしてもかまってしまう男性を思い出した。全てを失って、絶望の波打ち際に寄せては返す死の誘惑のような波の音を、いつも聞いている彼を。
無数の無意味に埋め尽くされた浜で、彼はかがみこんでそれでも光る何かを探しているようだった。神の繰り返される罰を受ける者を髣髴をさせる。
私は彼の罰を少しでも支えられるかしら。自分が無力と言い訳しないで。
エイミーは階段の途中に彼を置いて、もう振り返ることもしなかった。




