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キスと弾丸  作者: 蒼治
3 伯爵令嬢婚礼事件
48/53

13

「ソフィア、エイミー」

 ダイニングで、ソフィアにエイミー、そしてアーサーとジョンは同じテーブルに付き、紅茶を前にしていた。

 ソフィアもエイミーもそれには手を伸ばさず、節目がちだった。

「……大変だったね」

「……アーサーがいてくださってよかった」


 ソフィアの何気ない呟きにジョンが不満そうな顔をしたが、うつむいた彼女は気が付いていない。ソフィアは消耗していた。

 クラリッサの死体を発見したソフィアの元にエイミーが連れてきたのは、驚くべき人々だった。

 アーサーはわかる。エイミーが、こんなとんでもない事態を報告するとしたら彼しかいない。そしてアーサーは……ライオネルを通じてヘンリーに声をかけたようだった。ヘンリーはライオネルだけを伴って現場に駆けつけていた。


 アーサー・バロウズ子爵がヘンリー・ギャラガーにまで一目置かれていると知ってソフィアは驚く。だがヘンリーも驚いているようだった。

「アーサー!」

 親しげに、安堵の声を上げるソフィアを見て、あれだけ侮蔑し痛めつけたソフィアの向こうにいた人物がとんでもない相手だと気が付いたらしい。

 まさか、「建国王」だとは知らないだろうがヘンリーを怯ませるほどの権力を現代でもアーサーは保持しているのだ。


「ソフィア。大丈夫かね」

 アーサーはクラリッサの死体の目前に部屋の前に立ち尽くしているソフィアの肩に手を乗せた。ヘンリーはソフィアとアーサーの関係を聞きたくてたまらなそうな顔をしているが、それでも今はそんな場合ではないと気が付いたらしい。ヘンリーはずかずかと部屋に入り込みクラリッサの横に跪き顔を覗き込んだ。


 彼女の死を認めてヘンリーの顔に、一瞬、素の表情が浮かんだ。死を悼んでいる切なげな表情が。


 その間にライオネルが部屋の窓の雨戸を開け放ち、光を取り入れていた。入り込んだ朝の光に部屋の様子が浮かび上がる。

 クラリッサの靴が脱げ、脇に落ちていた。そしてコーヒーテーブルがその安定を失い床に倒れて転がっていた。円形のテーブルの端に血が少しついていた。部屋の脇に置いているのはこの見事な部屋には不釣合いな掃除道具だ。


「どうしてここに来たんだ?」

 ライオネルがいつかのように鋭い言葉を放った。ヘンリーがアーサーを恐れてか慌てて言葉を重ねる。

「私の婚礼に来てくれているお客様だ。無礼な口を利くな」

 ライオネルにとってもヘンリーのそれは突然の変容だったのだろう。少しだけ間があってから尋ねなおしてくる。


「どうしてこんな誰もいない場所に足を運ばれたのですか」

「イヴリンに会いに来たんです。昨日はここだったから。でもよく考えたら、ご主人と同じ部屋に決まっているということに気がついて。去り際に扉が開いていることに気が付きました。あとは申し訳ありません、好奇心です。覗き込んでみたら、クラリッサが」

 倒れていて、とソフィアは彼女の死に視線を向ける。


「ソフィア、君はどう思う?」

 アーサーにいきなり問われてソフィアは目をしばたかせた。何を聞かれているのかわからない。

「エイミーでもいい。君達は医者の卵なんだから、死に対して思うこともあるだろう」

「で、でもわたしはまだ卵だし、そもそも相手にするものは生きている人間の病気で」


 それでも、とアーサーに視線で問われた。

 確かに、とふと理解する。生の先にあるものは間違いなく死だ。

 それをまったく考えずに、治療と言うものは完璧であれるのだろうか?


 アーサーの問うものと、ソフィアの漠然とした理解。それが一致しているのかはわからない。けれど、ソフィアがその時考えたのはそんなことだった。

 いつか人体に精通した人間が、不可解な死の原因を突き止める専門の仕事をする時代が来るのかもしれない。今は医師の数も少なくて生きている人間だけで手一杯だけど。


「……解剖してみなければ当然分かりませんけど」

 前置きしてソフィアは目の前にあるクラリッサの死体を見つめた。

「……この頭部の傷が、致命傷なんじゃないかと思います」

 血を一筋垂らす後頭部の傷を示す。髪の毛はぐちゃぐちゃと血で湿っていて傷の激しさを示している。頭蓋骨骨折もしているように思えた。


「それとこのコーヒーテーブルの血痕ですけど。素直に考えれば、ここを掃除に来て足を滑らせたクラリッサがこの角に頭をぶつけたとなります」

 ソフィアの言葉をヘンリーもライオネルも静かに聞いている。当然それはアーサーの人間関係があるからで、もしそれがなければソフィアやエイミーなどさっさとここからつまみ出されていただろう。それならまだしも、犯人扱いされかねない。クラリッサには悪いが、あまり係わり合いになりたくない。


「事故、とか」

 その言葉を最後にこの部屋から立ち去りたかった。

「なるほど」

 それを邪魔したのは何度も聞いたことのある声だった。今はありがたいような……嫌な予感がするような。

 部屋の扉に前にジョンが立っていた。


「いつまで待ってもソフィアもエイミーも来ないし、なぜかアーサーまで行方不明だ。探したらこんなところで死体を前に一体何をやっているんだ」

 きちんと身なりを整えて、実に立派な御曹司みたいに見えるわ、ジョン。もしかしたら実際に御曹司だったかもしれないけど。

 そんな言葉が出てしまいそうなくらいきちんとしていた。


「おはよう、ジョン・スミス。昨日は突然の部屋の変更だったが良く眠れたかね」

「ああ、同室者は朝までカードゲームに興じていたようだったが」

 アーサーはにこやかに微笑み返す。

「私の不在のおかげでよく眠れただろう?」

 ヘンリーは、すぐさま算段したようだった。彼もまたソフィアとエイミーの友人であると。ギャラガー工業はジャス製薬とうまく付き合っていきたいらしい。


「あまりこの不幸は広めたくないんだが」

 礼儀を失わずヘンリーは言う。ただ口調は鋭く、若輩者のジョンを見下していた。

「僕で終わる。婚礼の席に確かにこれは不釣合いだ。仮に欺瞞に満ちた婚礼であってもね」

 ジョンの言葉にはちくりと刺す針が宿る。


「欺瞞とは酷いな。我々はきちんと」

「不満がある人間もいるんじゃないか?跳ね橋のロープが切られるなどまったく理解不可能な出来事だ」

 ジョンも朝方の事態を知っているらしい。

「それに」

 ゆっくりとジョンは横たわるクラリッサの手を指し示した。

「そのハンカチとかね」


 その場の全員が、クラリッサの手が掴んでいるものに気が付いた。クラリッサの手は薄く白い記事のハンカチーフを掴んでいた。アーサーがそれを拾い上げ両手で広げた。ふわりと染み込んだ香水の残り香が漂い、刺繍されているイニシアルがわかる。

 A・G。

「……なんでこんなものを?」

 G。

 ギャラガー。

 あるいはゴールドベリ?

 広げたハンカチーフを見て、恐怖に満ちた短い悲鳴を上げたのはヘンリーだった。

「な、な、なんでそんなものが!あいつの……ゴールドベリのハンカチが!」

 ソフィアはそれをまじまじと見る。


 ロゴを組み合わせた美しいハンカチだとしか思えない。だけどゴールドベリのハンカチだとしたら、少なくともイヴリンの物と言う可能性だって。

 そこまで思い出してソフィアも気が付く。ハンカチではなくこれは男性が背広の胸元にいれる婚礼用のハンカチーフだ。おそらくイヴリンの物ではない。


 では誰が。

 イヴリンの両親の物ならばヘンリーがここまで恐れることはないようにソフィアには思える。イヴリンの話や昨夜の様子を見るに、イヴリンの両親は彼女がギャラガーに嫁いでゴールドベリが潤うことを歓迎しているようだからだ。

「……アロン・ゴールドベリ」

 アーサーがその名を出した時、ヘンリーの肩がびくっと大きく震えた。しかしそれをごまかすように、慌てて無表情を取り繕い胸を張った。


「バロウズ子爵、申し訳ないがこれは家庭の事情です。これ以上は首を突っ込まないで頂きたい」

「なるほど、イヴリン・ギャラガーの兄か。商品に対するアロンの発想を無報酬で取り上げたとかで、確か一時期ギャラガー社ではもめていましたね」

 うあああ、と思わず内心で唸ってしまうような爆弾発言をかましてきたのは当然ジョンである。その情報はソフィアの知らぬことであり、新しい話は気になるが、いま!ここで!ギャラガー社の社長を前に言うことであろうかとソフィアは慌てる。

 慌てたが。


 ……でもよく考えたら、別にどうでもよかったわ。


 ヘンリー・ギャラガーともライオネルとも、ソフィアは仲良くしたくない。ジョンが酷い目に合わされるのではないかということだけ不安だが、ジョンも一応大企業の関係者だ。ソフィアの様に権力に押しつぶされることも無いだろう。

 あえて言うとすれば「敵は作らないに限るわよ」だが、これは以前の大事件の際、ソフィアがアーサーに言われたことそのままである。口にすればアーサーが失笑しそうだった。


「……事故ではないかもしれないということか。警察はどうするつもりかね」

 存在こそ非常識だが、ジョンよりは常識的な対応ができるアーサーに問われてヘンリーはしぶしぶ状況を話す。

「跳ね橋のロープの件もあり、湖畔に船を出したんだ。ロープは修理人がやってくるのが明日になる。どうしても帰りたい人間は、船で湖畔に送ることも出来るが、城内に荷物も馬車もあり、希望者はほとんどいない。湖の城にも湖畔の屋敷にも食料はたっぷりあるし昼にはまた食料が届く手はずになっている。それぞれであと二日くらいは十分宴会が出来る。招待客は有閑階級が多いから、特にこの状況を問題視していないんだろう。クラリッサのことが明らかになれば動揺するかもしれないから伏せておきたい」


 アーサーはそれには特に反論せず静かに頷いた。

「クラリッサの件は、皆が帰宅してから警察に届ける。まあ事故だとすれば届ける必要も感じないが。クラリッサはうちの使用人の娘だった。もう使用人は死んで、孤児なので雇っていたが、連絡するような親族はいない。女にしては信用できる子だったが……」


 ヘンリーのその言葉に相変わらずの女性に対する侮蔑は感じ取ったものの、クラリッサに対する優しさも少しだけ表面ににじみ出ていた。そもそも女性を疎み、使用人ですら男性に限っている中で唯一近くに寄せていたのが彼女だとすればそれは特別だったのかもしれない。年齢的には妹のような気持ちだったのだろうか。

 昨日少しだけ話した彼女のことを思う。控えめだが、確かに人を思いやることのできる優しい女性だった。


「事故ではなかったら?」

 ジョンが口を挟んできた。

「アロンがクラリッサを害した、あるいは関わっているという可能性があるのでは?」

「アロンは呼んでいない!」

 世間的にはアロンがギャラガーの金を持ち逃げしたと噂になっているが、その原因としてヘンリーがアロンの才能を横取りしていたという事実もありそうだった。だとすればアロンがヘンリーを恨んでここに紛れ込んでいてもおかしくない。


「……湖畔の屋敷に最後の客を送り出して跳ね橋があがったのは昨日の午前一時だ」

 ヘンリーは昨晩のあの大宴会を思い出して言う。そこには微量ながら恐れがあった。

「クラリッサは、午前二時にイヴリンの眠る仕度を手伝っているんだ。そしてさっきライオネルが確認したが、小船の数は変わっていない」

 その言葉の意味することに気が付いて、ソフィアはぎょっとする。

 もしもアロンがクラリッサの死に関わっていたとしたら、まだ彼は湖の城内にいる可能性が高いということになる。

 全員がそれを察し、アーサーも言葉を発しない。


「こんなところでぼんやりしている暇があるのなら」

 案の定、というわけではないがジョンが口を開くのが一番最初だった。ただ、ライオネルに向けられた視線はいつになく明確な冷ややかさを持っていた。

「城内にいるかもしれないアロンを探しに行ったほうがよいのでは?」

 ジョンの言葉に我に返ったように、ヘンリーがライオネルに向かって怒鳴り散らす。

「早く、探せ!この間抜けが!」


 ライオネルは眉をわずかに潜めたようにソフィアには見えた。彼もヘンリーの全てを唯々諾々と受け入れているわけではないらしいと知る。ライオネルはうやうやしく……いっそ慇懃無礼なほどに丁重に頭を下げて、その場を立ち去って行く。彼の足音が螺旋階段の下に消えてからソフィアはヘンリーを見つめた。

「……もしも」

 ソフィアの言葉が自分に向けられたものだと知って、そして暴虐を振るった女がまっすぐに自分を見つめていることを知って、ヘンリーの瞳に確かに動揺は走った。まるで怯えのようにも見える。


「もしも、クラリッサをどこかに運ぶのなら、わたしがお手伝いしますけど」

 ヘンリーがなんと答えるかはわからなかった。余計なことをするなとか、現場を荒らすなとか、ソフィアの意見に反する理由はいくらでもあった。

 ヘンリーは、ソフィア達と、室内の伏したクラリッサを何度か視線を移動させた。ヘンリー以外の誰も、決定権は持っていない。しかしヘンリーが答えるまでは随分間があった。

「……本来、警察が来るまでは、ここは荒らすべきではないのだろうが……。今、布を持ってこさせる。それをかけるくらいはいいだろう」


 ……哀悼。

 そういった感情をヘンリーが持っていることにソフィアは驚かなかった。クラリッサに対してはヘンリーはあの攻撃性を薄めていたのだろう。だからクラリッサはヘンリーを信じていたし、ヘンリーもクラリッサを身近に置いていた。

 愛情を与えれば相手も返してくれる可能性があるということを、彼も知らぬわけではないのだろう。ただ一つの致命的な裏切りは、これほどに人を変えてしまうのか。


 もし、クラリッサとヘンリーが使用人と主人でなければ?

 この上流階級気取りの男が、女性としてみる地位にクラリッサがその優しさを失わずに存在していたなら……たとえばクラリッサが伯爵令嬢なんかだったら。

 ヘンリーはクラリッサの優しさに気が付いて、他者への信頼を取り戻せたのではないだろうか。

 考えても仕方ないことだということは、ソフィアにも分かっていた。


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