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「そうね、馬鹿みたい」
「珍しくソフィアから同意を頂いたな」
ジョンの声音がソフィアを案じるものになった。
「でも理由は違うかも。どうして馬鹿みたいだって思うの?」
「……父から名代として来る事を頼まれた。基本的には僕はこういった場には出たくない。不向きだと知っているから、通常は父か母が出席する。まあ今回は特別だ。だいたい結婚式に僕が出てどうする。恋愛感情と言う不確定なものを確定して心の安定を得たいという奇妙な制度だ。そういう疑念を持っている僕が出ても他の人間が不愉快になるだけだ」
「本当に、あなた自己分析だけはそれなり……」
「まあそれでも、誰かが幸せであるという光景は悪くない。それに僕も最近は恋愛感情というものについて、不可解ではあるが存在については受け入れるを止むを得ないものである、と理解しつつある」
「大人になったのね、ジョンも」
ソフィアはちらりとあの喫茶店の美しい女性を思い出した。何か言ってやりたいが、自分が口に出すのも変だと思って言葉を飲み込んだ。しかしジョンもジョンでソフィアに言いたいことがあるような目でじっと見ている。ソフィアが見返すと彼は慌てて目をそらした。
「……この婚礼が馬鹿みたいなのはそれだ。どうして恋愛感情のない婚礼に出なければならない?」
ジョンはヘンリーとイヴリンの関係を言い当てた。
「……そう見えるのね」
「見えない奴は馬鹿だ……違うな、皆わかっている。そして興味がないだけだ」
ソフィアはあまりにも痛烈なジョンの言葉にため息を付いた。
「そうね、そのとおり」
「昼に会った時、君はこれが政略結婚とは断定しなかったな。もっと詳しいことを知っているのか?」
その問いに、ソフィアはゆっくりと話し始めた。
実はイヴリンの実家は借金まみれなこと、しかもその兄はこともあろうにギャラガーの財産を持ち逃げしたこと、青髭と呼ばれるヘンリーの残忍さ、結局のところ政略結婚で、しかもイヴリンは生贄でしかないと考えていることを。
話す中で、少しだけさきほどまであったどうしようもない息苦しさが和らいだような気がした。
自分はジョンのこの話を聞いて欲しかったのだと気が付く。
「なるほど」
ジョンはソフィアが話し終わるまで何も言わずに聞いていた。それから短い相槌のような返事をする。
「さっき、事情を知っているイヴリンの知り合いから聞いたの。ヘンリー・ギャラガーの今までの奥様も、最初の奥様以外、皆貧しい娘だったそうよ。一人が亡くなって、二人は大怪我して実家に戻っているの。そのうち一人ものちに怪我の後遺症で亡くなったらしいわ。馬から落ちたとか階段から落ちたとか。嘘よ、でもわかっている人間には訴えるだけの力がなくて、訴えるだけの力がある人間は無関心か無関係よ」
それがイヴリンの未来かと思うと悲しくなってくる。
「でもイヴリンは、これで仕方ないって思っているみたい」
ジョンは長い話を聞き終わって、しばらく黙っていた。やがてソフィアに問いかける。
「もしも、君が、本当に彼女を救い出したいと願うなら」
ソフィアは顔を上げて彼の横顔を見る。ジョンは前を見たまま独り言のように語っているが、間違いなくソフィアに何かを促すものだった。
「手段がないわけじゃないだろう。イヴリンがなんと言おうと攫って当面の費用を工面して地方にでも逃がしてしまえばいい。一応伯爵家だ、もっとまともな男と結婚できるようにだって取り計らうことが出来る」
「さらっというけど、それはわたしやエイミーにはとてもできないことよ?」
「僕なら可能だし、アーサーなら容易なことだとすら言えるだろう」
言われたくないことを言われてしまった。
「……そんなことをお願いできる関係じゃないわ」
「ぐずぐず悩んでいることが僕には理解できない。どうしてもそうしたいのならば、僕だったら断られるとしても頼んでみるが。自分として全力を尽くしたという慰めくらいにはなるだろう?」
ジョンの発言にソフィアは言葉を失う。暴言ではあってもそれが正論だからだ。
もしかしたら解決できるだけの権力を持っている人間にすがらないのは何故だ、と彼は問う。そんなずうずうしい事は出来ないというのがソフィアの回答だ。ずうずうしい人間だと思われたくないという見栄かもしれない。
ジョンにはそこまでの意図はないのだろうが、お前にとってイヴリンはそれだけの存在なのだろうと言われているも同然だ。自分の見栄とイヴリンの将来を天秤にかけているとも言える。
イヴリンが助力を断ったというのも、そこまでするべき友人なのだろうかという状況も、いいわけにすぎないのかもしれない。
結局自分は、そこまで自分の問題として関わりたくないということなのだ。
ソフィアはそこに行き着いて、言葉をなくす。自分と言う人間のなんという利己的で浅慮なことか。他の人間を罵る権利などない。
じゃあ、今からでも遅くない、ジョンに頼めばいい……そうとは思えない頑固な自分がいる。
彼の力は彼の力だ。一度でも助けてもらったら次を願わない自分とは信じられない。
イヴリンがソフィアの下宿に駆け込んできた時のことも、深い考え無しにギャラガー屋敷に乗り込んで酷い目にあった時も、それも自己満足なのか。
何をすべきなのか、よくわからなかった。
「ソフィア?なんだか顔が白いぞ」
ソフィアの返事を、もしかしたら助力を願う言葉を待っていたかもしれないジョンが不思議そうに声をかけてきた。
「……疲れかしら」
ソフィアは微笑んだ。
「朝早かったし、慣れない服だし。エイミーはもう部屋に戻ったわ。わたしもそうするの。戻る前に声をかけようと思っただけよ。ごめんなさい、面倒な話をして」
「……まて、それはおかしい、面倒な話を最初に口にしたのは僕だ」
「どちらでもいいわ。結局わたしの問題だから。もう寝ることにする」
ソフィアは立ち上がった。その手首を強く掴んでベンチに引き戻すという、およそ彼らしくないことをしてジョンはソフィアを逃がさなかった。
「なんだかおかしい」
いつもの君らしくないとか、様子が変だとか漠然とした言葉が次に続くのだったら、ソフィアにも対応のしようはあった。けれどジョンはジョンらしく、彼の言いたいことまくしたててきた。
「まずおかしいのは、君の人間判断だ。君は人を判断するのに、噂などに左右されない。それなのにヘンリー・ギャラガーに関しては、かなり敵対的だ。君は僕に言わなかったが、彼に直接会っているんだな?貧乏学生と新富裕階級の彼とでは普通にしていて出会う機会などないだろう。ならばこのイヴリンの問題絡みに違いない。君の先ほどの話にはヘンリー・ギャラガーと直接相対した話は出てこなかった。いつ会ったんだ、そして何が起きた?それにどうして今日はアーサーと一緒だった?この場に来ること事態はまあ偶然もあるだろう。イヴリンは君の友人だし、アーサーは有力者だ。でも君達が偶然イヴリンの結婚式に行くことを知る機会があったことは理解できない」
短い説明でも、感じた疑問をジョンがつじつまが合わないとばかりに問い詰めてくる。ソフィアはなるべく思い出さないようにしていたライオネルとヘンリーのあの言動を思い出しつつあった。指先から血の気が引いていくのが自分でも分かる。
マデリーンやパトリックと戦った時は、命がけで切り抜けるのに精一杯だったが、それはまたお互い様だったのだ。
あんなふうに絶対的強者に嬲られるという経験はソフィアの心に深く影を落としていた。
うまく受け流すことも適当な理由をでっち上げることも出来ず、ソフィアの中で言葉が固まる。
ただ、怖かった。
「ソフィア、どうして僕に何かを黙っているんだ?」
ジョンはソフィアの手を握り締めていた。もちろん本気を出せばソフィアにはいつだって振り払えるものだが、それができない。震えているのが分かっているのに。
「ヘンリー・ギャラガーが」
押さえきれず最初の言葉を発した瞬間、止めようもなく、涙が溢れていた。怖かった記憶で泣き出すなど、初めての経験だった。あの事件から随分たっている。自分の中で終わった話だと思っていたくらいだ。澱の様にたまっていたそれはソフィアを深く蝕んでいた。
それにどういった意味があるのかはわからないが、ソフィアの手をつかむジョンの手にすこしだけ力がこめられた。
ソフィアは背を丸め、空いている片手で顔を覆う。けれど涙はその手のひらを越えて顎につたい、膝に落ちた。
説明をするどころではない。泣き声はあげなかったが引きつるように喉が鳴る。
泣くと言う事にソフィアはまったく有意性を見つけられない。しかも人前だ、まるでジョンに哀れんで欲しいようだと思う自分にも愛想がつく。
けれど不思議だった。年も離れ、尊敬しているアーサーの前では泣くことなどけしてできない。とても大事なエイミーには説明することも出来ない。
ジョンだからこうも感情が溢れるのだということは、納得は出来ないまでも認めざるを得なかった。
次の説明など出来ないまま、ソフィアはひたすら涙を落とす。いつもあれほどに多弁なジョンだが何一つ言葉を発しない。ただソフィアの片手を握り締めてじっと泣き終わるのを待っているだけだ。
ジョンはこんな感情的な自分を見てどう思うのだろうか、そんな不安に満ちたことを考えたが感情の流出は泊まらない
本当に怖かったのだ。
でも自分で選んだ結果だから、誰かに相談することも愚痴ることも道理ではないように思えた。自分で選べる自由を得るために今一生懸命生きている。でもそれは選んだことによる結果を受け入れるということだ。泣き言は筋違いだろうと考えている。
考えているのに。
自分はどうしてこれほどに、覚悟がないのだろう。それもまた情けなく涙の量を増やす。それでもいつかは終わるもので喉からひきつるような変な声を出してソフィアはやがて泣き止んだ。まだ視界はにじみ、鼻の奥が痛いがとりあえず涙は止まる。
肩を震わせて、ソフィアは深呼吸した。
「……みっともないところを見せてごめんなさい」
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのかよくわからないが、ジョンなりにソフィアを慰めているのだろう。
「むしろ光栄だ」
ソフィアが黙っているとますますわけのわからないことを言う。
「それで、ヘンリー。ギャラガーになにをされた?」
ジョンは掴んだ手のひらに、撃たれた銃創がまだ残っていて全てを理解しているかのような力強さで尋ねる。
ソフィアはゆっくりと前回省略した部分も含めて今までの経緯を話は始めた。突然やってきたイヴリン、追ってきたライオネルの暴力。落ちていた指輪、返却のために向かった先で起きたヘンリーによる虐待。
ソフィアは目を閉じる。
あの血まみれの左手。想像すれば痛みは蘇るような気すらした。そういえば、あの傷を包んだ包帯代わりのハンカチはなんだったのだろう。
ソフィアはそれも説明したがジョンはあまり興味を持たないようだった。
「……ソフィア」
それはつらかっただろうとか、ヘンリーに対する罵倒とか、いくらでも言葉はあるだろうにジョンは何も言わない。ただソフィアの手を握っているだけだ。
彼にしては言葉を選びに選んでいたのだろうと思われる長い沈黙の後、小さな声で告げた。
「生きて君とここで会えて本当に良かった」
確かにソフィアの行動は無謀で、一つ間違えば死んでいた。ジョンはそれをわかっている。けれど彼はそれを責めなかった。ただ物事の良い面だけを語る。
「でも僕は、君にとってなにかを語るに事足りない人物なのだろうか」
「いいえ」
ソフィアは首を横に降った。
こうして怖かったことを吐き出せる相手と言うのは少ない。
「あなたとはたまたま連絡をとれなかっただけ。そうじゃなかったらこんなところで大泣きなんてしないから」
「でも頼ったのはアーサーなんだろう。いや、その選択は正しい。彼は僕よりも権力者でしかもそれをうまく使える。でも僕も君の苦痛をもっと早く知りたかった」
ジョンの言葉はとらえどころが無い。
「誰だって、痛いのは嫌でしょうに」
などというお粗末な答えしか導き出せない。
「ともかく。イヴリンは今、大変な目にあっていて、君は待たしてもあのおせっかいで短絡的な思考により巻き込まれようとしているということだな」
「おせっかいってなに?」
「そうじゃないとはとてもいえないと思う」
ジョンとソフィアはようやくいつもの調子を取り戻し始めていた。
「それで君はどうしたい。イヴリンをどうにかして助けたいのか」
「……無理だってわかっているわ」
「無理じゃないかもしれないじゃないか」
「でもジョンを頼るのは」
「君とエイミーは僕の友人だ、その友人が友達のことで悩んでいる。それに対して何かしてあげたい。その感情は僕のものだ、君は関係ない」
言い切ったジョンはにやっと笑った。
「僕も、僕の好きなようにしたい」
あなたが自分勝手じゃないことなんてあるのかしらという疑問をソフィアは飲み込んだ。
「だから、一番大事なのはイヴリンの意志だろう。彼女がどうしたいのかと言うことは大きい。結局彼女に戦う意志や逃げる意志がなければ何も出来ない」
「そうなのよね」
ソフィアは星空を見上げた。イヴリンが静かにこれでいいといったのは、ほんの数時間前の話だ。理不尽を諦めている彼女を助けるにはどうしたらいいのだろう。
「せめてもう一度、わたしとエイミーとイヴリンで話せたらいいんだけど」
だがライオネルの監視は厳しい。しかもソフィア達は近寄らせてはいけないという筆頭のようなものだ。
と、ふいに周囲がにぎやかになってきた。中空の庭園から下を見下ろしてみれば、城内からぞろぞろと多数の人間が出てきて、馬車に乗り込んでいた。




