9
アンソニー・クインは研究棟を歩いていた。外で食事を済ませてきたところだった。休日だったがたまたま図書室に勉強に来ていた男子学生につかまって、夕食を集られたが、それも悪くない気分だった。
男子学生はサマルード地方出身だ。全体的に貧しい地域だが、最近経済活動も活発になってきていて見通しは悪くなさそうだ。そんな話を聞いた。
彼はおそらく卒業後は故郷に戻ってその地域の医療を支えるだろう。使命感すら帯びているようだった。そういった若者の話というのは胸を打つ。いつか壁に当たるとしても、それすら乗り越えるのではないかという熱意だ。
そういえばエイミーとソフィアは無事、婚礼の宴席についただろうかと思いつく。
学生なのにはしゃいで、と思う気持ちも、若い娘なんだから華やかな席があってもいいだろうという気持ちもある。
自分も丸くなったのかもしれない。
と、教授や講師の集まるサロンに人が多く集まり、ざわついているのが見えた。そういったものにあまり興味がないので無言で通り過ぎようとしたが、比較的親しくしている薬学の教授に見つかってしまった。
「クイン教授、いい酒と話題がありますよ」
小太りの、人の良い男で、あまり優秀ではないが、その人徳と愛嬌であまりそっけなく出来ない相手だ。
しかたなく寄ってみると、誰が持ってきたらしい悪くない蒸留酒があった。一杯相伴に預かっていると、テーブルの上に広げられている紙があって、それを囲んで皆が噂話に興じていることに気が付く。それは入学試験直後の成績表と先日行われた試験の成績表だった。
相変わらずソフィア・ブレイクは優等生だし、エイミー・グリーンもなかなかのものだ。自分のゼミの学生が軒並み上位にいるのを見て、俗物だと自分を罵りつつも鼻が高い。
ソフィア・ブレイクを自分のゼミか授業に欲しいとか、女生徒を希望するなんておかしいとか、意見は様々だ。しかし成績表と言うのは数値ではっきりしていて気持ちがいい。
なんとなく覗き込んでたアンソニーは、ふと先日やめた女学生のことを思い出した、今はいないが、彼女の成績はどうだっただろう。
ざっと紙面を眺めて入学式直後の記録にしかないイヴリン・ゴールドベリの名を探す。
見つけた彼女の立ち居地は見事に中庸、平均点だった。
馬鹿でないが、それほど目立つところもないな、と今は顔を思い出せなかった彼女を忘れようとしたときだった。
なぜかぞっとした。
もう一度、よく眺めて……しばらく考えてようやく気が付く。
彼女は本当に、見事に中庸だったのだ。見事すぎるほどに。
全ての科目の得点が、平均点に十点足した数字であった。誤差はせいぜいプラス三点だ。
……まさかな。
こんなこと、やろうと思ってできるわけがないと思う。全てに解答できる自信があって、点数を調整しながら回答しなければありえないことだ。しかも他の人間がどれほど理解できているか知っていて、平均点を予測できなければ。
だが、人には得意不得意と言うものが必ずある。科目ごとの点差が開かないのは優秀な生徒だけだ。ソフィアやそのほか上位十人くらいなら、可能かもしれないが、それにしたって他の人間に理解度まで予測できるわけがない。
偶然だ。
アンソニーは肩をすくめた。
偶然じゃなかったら、魔物だ。
「そういえば」
薬学の教師が小声で話す。
「先日発覚した事件がありまして。講師が一人減給になったんです」
「なにがあったんですか?」
「薬剤のひとつが、管理量が合わないんです」
「……それは大問題では」
「まあ本当にわずかな量なんですけどね。それにそれ自体は別に毒性物質ではないんです。別の毒物の中和剤なんですよ」
「毒物じゃなくて良かったですね」
「毒物自体は、結構簡単に手に入っちゃうんですよ。ただ管理の規定がその事件で大きく変わりそうですよ。管理が厳重になります」
「それはいい機会じゃないですか」
仮にも国立医科大学校がそんなだらしのない状況では困る。
「まあそうですね。それよりクイン教授、これから皆で飲みに行くんのですが一緒にいかがですか?」
まさか誘われるとは思っておらず、ふいうちにアンソニーはぎょっとする。そういうのは苦手だ。
「い、いや私は」
もごもごと断りの文句を述べると、慌ててサロンを逃げ出したのだった。
「二人とも、浮かない顔だね」
アーサーが二人の心理を察したようにその話題を振ってきたのは、晩餐会も後半に差し掛かり、魚料理が終わった後だった。
晩餐会は素晴らしい料理の連続であった。ソフィアとエイミーにとってははたして一生かかってもお目にかかることがあるだろうかと言うくらいのものであった。
前菜は白身魚と海老をすりつぶしてふんわりと蒸したムース。海老の殻を炒って漉したソースがかけられていた。スープは澄み切って薫り高い琥珀色のコンソメ。野菜のゼリー寄せには、希少な魚卵が添えられている。魚料理は旬の魚のパイ包み、切れば生地はパリパリと音を立てた。
晩餐会の出席者は五十人近い。この人数に時間を会わせて提供できるということは王侯貴族にも劣らない厨房が備え付けてるということだ。しかも雇っている人間の腕もよくその人数も充実しているはず。たとえ数日間だとしてもその支払いは高額になる。
ギャラガーの経済力に背筋が寒くなる。
確かに司法にも警察にも、横流しする金に不自由はしないだろう。
イヴリンを助け出すことは出来ないだろうという漠然とした諦めがソフィアとエイミーの表情を暗くしていた。
アーサーとエイミー、それに感じの良い老夫婦がこのテーブルの招待客だった。
「誰も花嫁を見ていなくて」
エイミーはぽつりと呟いた。
そう、招待客は「またか」といわんばかりの様子だった。青髭とあだ名されるヘンリー・ギャラガーがまた新しいおもちゃを手にしているのだ、そして自分たちはその始末には何の責任もない、ただこの宴席だけは楽しませてもらう。
そんな厭世観とも無責任さとも付かない曖昧な享楽があった。
イヴリンは主賓のテーブルで、おそらくヘンリーの友人、あるいはもっとも大事な取引相手であろうと思われる人々と一緒だった。
「美しいお嬢さんなのに、気の毒に」
ぽつりと呟いたのは同じテーブルの老紳士だった。
「本当に、イヴリンの両親ときたら」
夫人のほうが切なげに首を横に振る。
「あなた方は?」
アーサーも負けず劣らない感じのよさで彼らに話しかけた。
「私はオーエンといいます。こちらは家内です。イヴリンの大学に入る前の教師です。とはいえ司祭もかねておりまして、教会に来る子どもたちに出来る範囲で教えていたというのが正しい実態ですね」
「私はイヴリンにピアノを教えていたんですよ」
オーエン夫人は残念そうだった。
「イヴリンはピアノの覚えもよく、それ以上に夫の教える学問も水のように吸収していました」
「正直、私は彼女ほど賢い子供は見たことがありません」
大学校ではぱっとしなかったイヴリンの成績からすると不思議な評価だったが、少なくとも女性で大学校に入れたということ自体稀有な才能だ。
「それなのにねえ。こんなことになって、イヴリンは可哀相に」
「失礼ですが、花嫁の実家ゴールドベリは伯爵家でしょう。どうして教会に。貴族ならば、家庭教師の一人くらい娘につけるのでは」
アーサーはやんわりと話を引き出す。ソフィアとエイミーは息を殺してその会話の行方を聞いていた。
「信じられないくらい、ゴールドベリには借金があるんですよ。もちろんイヴリンのせいじゃありません。あの子の両親と兄のせいです。時代が変わりつつあるのに、身の丈にあわない生活をして」
オーエン夫人はそっと奥のテーブルを指し示した。
そこで機嫌よく大声に笑っている夫婦らしい初老の二人がいた。それがイヴリンの両親なのだろう。外見から内面を想像できないが、でも娘が結婚相手に殴られているというのに、心底楽しそうに笑っている二人には嫌悪感しか抱けない。
二人は豪華な衣装だった。イヴリンが富豪に嫁いだことでもう何も見えなくなっているのだろうかと思う。
「もともとあの夫婦は、兄のアロンにしか興味がなかったけどね」
「イヴリンのお兄様ってどんな方なんですか?」
エイミーは先ほどの会話を気にしているのか、珍しく噂話に乗ってくる。
「両親に良く似ているよ。イヴリンを犠牲にしてまったく恥じない男だね。そういえば今日は姿を見ないな」
彼がギャラガーの財産を盗んで逃げていることは老夫婦も知らないことのようだ。あえて言うこともないかとソフィアはそれを言わないことにした。そんなことを言ったら善良そうなこの二人はなおさら激怒しそうだ。老人があまり激昂すると命に関わりそうで怖い。
「またどこかをうろついているのね。でもそれでよかったのかも。彼はイヴリンをいつもいじめていたから」
「ギャラガーの噂はどこで?」
「アロンが我々ににやにやしながら教えてくれたんです。自分は会社の実力者に気に入られたって」
「ヘンリー・ギャラガーのことですか」
「そう。まあ彼がイヴリンの良き夫になってくれるのならそれはそれでいいと思ったのですが、噂を探ってみれば本当に酷い男で。とても残酷だと聞きました」
それについてはソフィアは答えられなかった。知らないとかためらったのではなく、それを答えたら認めるようで、認めたらイヴリンの実に残酷な何かが起こってしまうようで言えなかった。
「そんな男と結婚することになるイヴリンがかわいそう。せめてこの宴席には出ようと思いましたが、不安になるばかりです」
オーエン夫人も静かに首を横に振る。
この晩餐会で、イヴリンのことを考えている客人など一体何人いるのだろうかと思い、ソフィアは寂しくなる。
そういえばと考えて、辺りを見回してみる。ジョンはソフィアとは随分離れたテーブルについていた。にこやかに隣の紳士と話している。しかし紳士のほうは表情がこわばっていた。
ああ、また何か無礼なことを言ったのだろう。大丈夫かジャス製薬!
ジョンは確かに天才なのかもしれない。しかしそれは研究開発においてだけで、人格は破綻しているといっていいだろう。そういう人間が企業の代表というのは少々問題なのではないだろうか。今は彼の父親がいるから大丈夫だが、次代が実に心配である。
食事が終わると老夫婦はもうくたびれたので、と言って宿泊場所である湖畔の屋敷へ戻っていった。徒歩で向かうにはかなりの距離があるので、戻りたくなった客用に時々馬車を出しているらしい。
あれほどに妻や女性に対して残酷な人間でも、取引先など自分にとって重要な人物に対しては金銭を惜しまず必要最低限以上の心配りをする。女性に対して悪意は隠しきれないが、大抵の重要人物は男性であり、妻にはさすがに手を出さない。
ソフィアを痛めつけたのはソフィアには後ろ盾もないと知っていたからだ。狡猾と言うべきなのだろうか。でも人間は、無力な人間に対してこそ、残酷という側面はある。
対人関係の構築技術が壊滅的なジョンだが、それでも本当はまともで優しいところもあるとソフィアは知っている。
でもきっと、おおよその人間にとって、ヘンリー・ギャラガーのほうがまともなんだろう。
老夫婦を見送って城内に戻ってみれば、大広間でダンスが始まっていた。二階の専用の席で楽団が演奏をし、音楽が降ってくる中、広間の中央では人々がダンスを楽しんでいる。女性の美しいドレスが満開の花のようだった。
「ソフィア」
エイミーはその華やかな世界にも興味がなさそうだ。
「私はもう部屋に戻るわ。ドレス姿も疲れたし、おなかがいっぱいでとても眠いの」
エイミーも慣れない場所にとても疲れている。
「アーサーは?」
ふと気が付けば、ここに来るまでにアーサーを見失っていた。
「知り合いと話しているわ。私はイヴリンと話したかったんだけど、人が沢山いて近づけないの」
エイミーの視線を辿ってみれば、大広間の一角で花嫁花婿を囲む一団があった。それは何重にもなっていてヘンリー・ギャラガーの社交性と地位の重要性を思い知るものであったが、エイミーがイヴリンに近づけないのは別の理由もあるだろう。
一団の端にいるのはライオネルだった。同じように、その重要人物たちの一角には同じようの正体客とは少し雰囲気が異なる男性が他に二人ほどいる。ソフィアはエイミー、もしかするとあの老夫婦など、ヘンリーがイヴリンに近づけたくない人間をやんわりと退けているように思える。
イヴリン側の招待客が一人も居ないのはさすがに奇妙だし、イヴリンが精一杯強く主張したがゆえに、本当に彼女が呼びたい客も居たのだろうが、ヘンリーは快く思っていないというのがありありとわかった。
人に囲まれてイヴリンの顔は良く見えない。
「……そうね、部屋に戻りましょうか」
途方もなく寂しくなって、ソフィアもエイミーと一緒に戻ろうかと思ったが。
「でもジョンに会ってくるわ。アーサーにも一言声をかけて帰るから。エイミーは戻っていていいわ」
すでに時間は夜十時を回っている。日が変わってもこれは続くだろうが、さすがに最後まで待つつもりはない。エイミーは一足先に戻っていった。
ソフィアは給仕が配り歩いている飲み物を見たが酒類しかなかったので諦め、ジョンの姿を探した。しかしジョンの姿はない。
……よく考えたら、ジョンがこういった場を好きなわけがない。
ソフィアはそれに思い至って、また大広間に背を向けた。建物を出て、あの小さいながらも整えられた庭園にでる。幾人か、同じように大広間から逃げ出している客人の姿を見つけた。その幾人かは、密着している男女だと気が付いて、ソフィアは顔を赤くするとうつむき加減で足を進める。
夕刻居た場所と同じベンチにジョンは座っていた。
見事な礼服など来て、庭の篝火に照らされ、城内という背景もあり、まったく夢の王子様のような佇まいである。
「ジョン」
ソフィアが声をかけると、ジョンは顔を向けて苦々しく言った。
「まったく馬鹿みたいな集まりだな」
社交性!と怒鳴って頭を平手で打ちたいような発言だ。……普通なら。
ソフィアは近付いて、彼の横に座った。




