表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キスと弾丸  作者: 蒼治
3 伯爵令嬢婚礼事件
43/53

8

「ソフィア、どうしてここ……アーサーー!!」

 珍しくジョンが叫んだ。アーサーは落ち着いたものでやあ、などと手を上げている。しかしその口元が爆笑をこらえて震えているのをソフィアもジョンも見逃さない。


「まあジョン。久しぶりね、ジョンも招かれたの?」

 エイミーの優しい声が緊張した空気を読まないで問う。

「ジャスの……父親の名代としてきたんだ。父は今自宅を離れられないから。どうして二人が……ってああそうか、イヴリン・ゴールドベリは医科大学校にいたな!?でもどうして君達まで……?それに君達のその姿は」

 ぶつぶつ呟いて、それからアーサーを見てジョンはソフィア達の豪華なドレス姿に合点がいったらしい。


「アーサー……」

「アーサー、あなたジョンが来ること知っていたのね」

「知らないと思う方がどうかしているだろう?」

 とすると想定外の場所で出会ってソフィアとジョンが驚くことを予想していたのだろう。言わないでそれを楽しみにしていたに違いない。

「どうだいジョン。ソフィアもエイミーも美しいだろう?たまにはこういった非日常も大切だよ」


 アーサーが何が言いたいのかよくわからないソフィアも、とりあえず彼が人をからかっていることは分かる。でもソフィアとすればアーサーのおかげでここに来ることが出来たのだから文句はない。何か物申したそうなのはジョンだ。

「……アーサー、ソフィアとちょっと話をしたい」

「どうぞごゆっくり!」

 アーサーのみならずエイミーまでいい笑顔だ。ソフィアはジョンと連れ立って、控えの間を出た。

 

 敷地の関係上、たしかに広大とは言いがたいが、花咲き乱れる見事な庭園に客は散らばっている。今の季節の花が全て集まっているのではないかと思えるほどに花の香りで満ちた庭園の隅までやってきた。


「ここに来るなんて聞いていない……」

「二週間前に急に決まったの。ジョンとは確かにここ二ヶ月くらい会っていなかったわね」

「ちょっと忙しくて……」

「そういえば、先月から配給血が瓶から缶になったわ。壊れなくてとても安心よ。対応してくれてありがとう」

「まあその件もあったのだが……」


 ソフィアはそこで、自分の胸にひっかかる事項を省みた。結局のところ、あの一件である。

ジョンが妙齢の女性と一緒にいた風景。ふーん、忙しいでしょうねえ、とか思い浮かぶ。

 しかしそれを文句をいうのは了見違いだ。ジョンだって年頃なんだからそういったこともあるだろう。


「それに、わたしあなたの住所も知らないわ。お手紙を書くこともできなかったの」

「そうだった……言ってなかった……」

 痛恨の極み、のような顔をしている。

「それで、どうしてここに?」

「どうしてって……イヴリンは友達よ」

 ソフィアの答えに、ジョンの鮮やかな青い瞳が細められる。


「それだけでは君はここに来ない。ここは君達貧乏学生が来るには難易度が高い場所だ。交通費もかかるし、衣装だって普段着では無理だ。エイミーもそうだが君のその衣装はアーサーの支援によるものだろう。他者からの施しを嫌う君がそれを受け入れたということは、なにかどうしてもここにこなければならない問題があったからだ。しかもエイミーも巻き込んでいる。一体どうしたっていうんだ」

 ……相変わらずの悪魔めいた洞察力である。


 ソフィアは一瞬ためらったが、ジョンには素直に話すことにした。爵位とか階級とか、そういったものにジョンは惑わされないだろうと思えたからだ。

 ある日突然やってきたイヴリン。ソフィアにも理由はわからない招待状。青髭の異名をもつ結婚相手。

 なによりもイヴリンにつきまとう暴力の影。


 けれどライオネルとヘンリーから与えられた悪意と暴力については語る勇気をソフィアは持ち合わせていなかった。言葉にするのがまだ怖い。

 そしてジョンはわたしの問題と関係ないのだと、思う。思い込む。


 一部を削除されていると気が付かないまま聞き終わって、ジョンはふむ、と短く頷いた。

「確かにわたしの心配事にアーサーを巻き込んで申し訳ないとは思っているわ。でもちゃんとお礼はするつもり」

「お礼ってなにを!?」

 急にジョンの声が大きくなった。形のいい眉がつりあがる。

「大声出さないで。この件が終わったらアーサーから頼まれて孤児院の児童に読み書きを教えるのよ」

 ふーとジョンはため息をついた。それは安堵のようでも不満のようでもあった。


「……どうして僕に声をかけなかった?」

「連絡先を知らないから」

 一瞬声が震えたのに気がつかれなかっただろうか。


 実はあなたを探しに、よく訪れるという喫茶店まで行ったの。でも綺麗な女性と二人きりだったから、声をかけずに帰ったのよ。


 そんなことくらいさらっと言ってしまえばいいのだ。けれどうまく言葉に出来ない。何かを恐れているのだろうか、わたしは。

 ソフィアの逡巡を見破ろうとするかのようにジョンはソフィアの瞳を覗き込んでくる。彼の青い瞳に写る自分の表情を見るのが怖くてソフィアはすいと目をそらす。

「……」

 ソフィアの奇妙な沈黙に、ジョンが違和感を覚えていることは確かだった。あの恐ろしいまでの推察で、つじつまの合わない場所をつつかれたら黙っていられる自信はないとソフィアは不安に思う。


 ソフィアの逡巡をどう捕らえたのは不明だが、ジョンは唐突にさらっと住所を告げた。急に言われたそれにソフィアは目を丸くしていると、彼はさらに言葉を補った。

「あとでちゃんと紙に書いて渡す。でも君は僕の自宅になどどうせ来ないだろう。だから別の方法を考えていたんだ」

「そうなの?」

「また説明する」


 それからジョンは今度はソフィアを頭の先からドレスの裾……ちょっと出ているつま先まで眺めた。

「……アーサーは服の趣味だけは秀逸だな」

 ソフィアはその言葉の意味を思案した。妙な沈黙が生まれてしまう。焦れたのかジョンははっきりと言葉を足した。


「君は美しいと言っている」

「ありがとう。言われる前に言うけど、わたしの資産に乏しい胸部も素敵に見せてくれるドレスよ。なんと詰め物がものすごくたくさん入るの」

「君の胸部は平野であっても美しいのに!欺瞞だ!許せない!」

 相変わらず意味不明で腹が立つ男だと、ソフィアはどこかでほっとする。ひとしきり悪態をついてからジョンはぽつりと言った。


「……僕が君のドレスを選びたかった……」

 本当に、詰め物をしてもしなくても面倒な男だな、とソフィアは内心で呆れる。


「君はアーサーなら申し出を受けるのだな」

「だから交換条件もあったのよ」

「じゃあ僕もなにか考える」

「そういう問題じゃないわ。もういいじゃない。せっかく久しぶりに会ったんだし、お金の問題はともかくとして、楽しく話がしたいのよ」

「……君は僕と話をして楽しいと思うのか?」

 根源的なことをいきなり問われてソフィアは目をしばたかせた。しかしジョンは大真面目な顔だ。


 ジョンは、ソフィアにどんな印象を抱かれるのかと言うことを気にしているのだと気が付く。普通の人間なら当たり前のことだが、ジョンがそんなことを考えるということにソフィアは驚きを隠せない。


「あ、え……それはそうよ。そうじゃなきゃ友達なんてやっていないわ。でもあなたはもうちょっと発言に気をつけるべきだと思うけどね」

 ジョンはソフィアの答えに曖昧なため息のような返事を返した。それから目と話をそらす。彼は湖の岸辺を指差した。そこにはこの湖内の屋敷と似た雰囲気の屋敷があった。


「君はあちらの宿泊か?」

「え?」

「湖上の城は広いとはいえ招待客全てを泊めることは出来ない。あちらの湖畔の屋敷に泊まるものがほとんどだ。僕はあちら側になる」

「まあ、そうなの……イヴリンは本当にわたし達に気を使ってくれたのね……わたしとエイミーとアーサーはここ湖上の城よ。アーサーは『アーサー・バロウズ子爵』なのよ。その辺はうまく合わせてあげてね」

「最近よく名を聞く投資家の『バロウズ子爵』は彼のことだったのか」

 ジョンは合点が行ったような顔で頷く。


 その時だった。エイミーが辺りを見回しながらやってくるのが見えた。ソフィアが彼女の名を呼ぶと、エイミーは駆け寄ってくる。

「ああ、よかったわ、ソフィア。探していたの。イヴリンが私達を探しているんですって。晩餐会の前に話がしたいようなの」

 まさかと思うような出来事だった。ソフィアはここに来た意味と目的を思い出す。


「そうなの!?ええ、じゃあジョンちょっとわたし、行って来るわ。そうね、ええと、アーサーと話でもしていて」

「別にここに来ている知り合いは彼だけじゃない……」


 面倒くさいという雰囲気を隠しもしないジョンを置いて、ソフィアはエイミーと一緒に城の中に戻った。入り口近くで待っていた若い男性の使用人が二人を案内する。屋敷の片隅に隠れるようにして上り口がある螺旋階段を高く登った先の尖塔の中だった。


 まるで。

 まるで、城の中に監禁されているみたいだわ。

 ソフィアは良く磨かれた石の階段を登りながら、小さな窓からしか入ってこない光を見上げてそう思う。

「……なんだか囚われの姫君がいそうな塔ね……」

 エイミーがこっそり囁く。登りきった先に佇む人間を見て、ソフィアは思わず足を止めてしまった。


 階段の先にある小さな扉、その前で門番の様に立っていたのはライオネルだった。髪を後ろに撫で付けて、あの蛇を思わせる冷たい視線で二人を見下ろしていた。彼と初めて会うエイミーはその親しみの無さに目を見開いている。

「では失礼します」

 ここまで案内してきた使用人も、彼を苦手としているのか、あるいはこの塔の雰囲気に嫌気が指しているのか、そそくさと立ち去ってしまう。彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ソフィアは最後の階段を登りきった。


「先日はどうも」

 ソフィアはそれでもライオネルをまっすぐに見る。自分に暴力を振るった相手と相対することが、これほど怖いことだとは思わなかった。それでもここで目をそらしたら本当に負けだと思ってソフィアは彼を睨む。


「こちらこそ」

 まるで何も起きていないようにそっけなく返してから、彼は扉をノックした。富豪の花嫁を守るためにここに彼が立っているとは思えない。イヴリンを閉じ込めるためにここで彼が監視にあたっているとしか思えなかった。

 どうぞ、と静かに返事が戻り、ソフィアとエイミーはその部屋に通された。なぜかライオネルまでその場に居ようとするのを止めたのはイヴリンの強い口調だった。


「ライオネル、あなたまでここにいる気?」

 部屋は、他にいくらでも豪華で広い部屋があろうに、と、首をかしげたくなってしまうような小さな部屋だった。大輪の薔薇の花が花瓶に活けられ、壁には華やかな絵画、床の絨毯も毛足の長い見事なもので部屋中が装飾されていたが、寒々とした雰囲気は拭いきれなかった。そのかなで、イヴリンは座っていた椅子から立ち上がった。


 イヴリンもライオネルを恐れているのであろう、拳を握り締め顔は青ざめているが、鋭く拒絶する。

「ソフィアがシナバーだからって、ここから私を連れ出せるわけでもないわ。私と友人だけにして」

 イヴリンが追われてソフィアの家に飛び込んできた件を知らないエイミーがその緊迫感に息を飲むのがソフィアには感じ取れた。ライオネルは一度三人を眺めたが、彼の中で納得が行ったらしく特に反論せずに部屋を出て行った。


「イ、イヴリン」

 エイミーは動揺を隠せないまま彼女の名を呼ぶ。イヴリンは微笑んで両手を広げた。

 イヴリンはほとんど白に見えるシャンパンゴールドの首の詰ったドレスを着ていた。あの鮮烈な赤毛は美しく頭上に結い上げられている。学生時代が嘘のように洗練されていた。豪華な衣装にも資金を注がれた三日間にわたる披露宴。


 けれど幸せそうには見えない。


「来てくれて本当にありがとう」

 事情を知らないエイミーも不穏な空気は察知している。ソフィアもイヴリンになにか悪いことが起きていることを知っている。

 女学生とそうだった娘はそうっと労わるように互いを抱きしめた。あまりにも聞きたいことが多すぎてしばらく言葉が出ない。

 やがて身を離すと、イヴリンの目に薄く涙の膜が張っていた。数回瞬きしてそれを目の奥に押しとどめるとイヴリンは二人に椅子を勧めた。それにしたがって腰掛けたところでイヴリンは口を開いた。


「来てくれてありがとう」

「イヴリン、あの手紙はあなたの本心?」

 執拗なまでに幸福を訴えていた手紙をソフィアは信じることが出来ない。イヴリンは口紅で艶やかに染まった唇を震えさせる。

「……いいえ」

「嫌なのに、結婚するの?」

 エイミーはすでに泣きそうな声だった。自分も似たような経験をしただけに、そしてそもそも優しい娘である彼女はイヴリンの境遇を我がことのように感じているのだろう。


「他に選択肢が無いから」

 どうしようもなさと言うのはその一言で伝わってきた。

「ゴールドベリは貴族なのよ、しかも伯爵。先祖は確かに広大な領地もあって裕福だったみたい。でももう時代は変わりつつあって貴族と言うだけで資産家ではいられないわ。でもうちの両親はそれをよく分かっていない。豪華な生活を変えられなくて借金まみれなの。このままじゃダメだと思って手に職をつけようと思ったけど……」

 そもそもの予定ではイヴリンの学費くらいはある予定だったのだろう。それが頓挫したのにも理由があるはずだ。


「兄が、大変なことをしでかしてしまって」

 兄がいるということも二人には初耳だった。息を詰めて二人は話の続きを待つ。

「兄はギャラガーの持ち会社の一つに勤めていたわ。昔の縁故を辿ってとてもいい条件で雇ってもらえていたの」

 その冷ややかな口調に、ソフィアはふと違和感を覚える。彼女の兄に対する感情には身内の親愛だけではない、何かよそよそしいものを感じた。


「本当に……ちょっと会社に顔をだせばいいくらいの仕事だったのに。兄はけして有能な人間ではないわ。昔のコネがなければあの会社に勤めることだって出来なかった。それなのに、自分はもっと出来る、相応しい扱いをさせるべきだってもめて……。それでお金を横領して逃げたの」

 エイミーがひっと息を飲んだ。


「ギャラガーはうちの借金返済に協力すらしてくれていたのに……。兄の行方はわからないまま。でもヘンリー・ギャラガーが私を気に入ってくれて、兄の横領金と借金をなんとかしたかったら自分に嫁げと。両親はその条件に大喜びよ」

 話しぶりから、イヴリンの立ち居地が感じ取れる。どちらかといえば両親は兄を贔屓していたのだろう。イヴリンが医師になっていたらそれはそれで全力で彼女の収入を巻き上げていたのでなかろうかと想像する。


「ヘンリー・ギャラガーのことはどう思っているの」

「……爵位しか売りが無い私を娶ってくれるなんていい人だと思うわ」

 イヴリンの声は耳を塞ぎたくなるほどの平坦だった。

「あだ名のことは」

 ソフィアの言葉にエイミーが首をかしげる。イヴリンはすっと表情を固くした。

「……仕方ないから」


「今もすでに彼に殴られているんじゃないの?」

 ソフィアの追求にイヴリンはうつむいた。それは肯定だった。

「あだ名って何?」

 それを知らないエイミーの疑問に、低い声でイヴリンは『青髭』の名を呟く。エイミーは一瞬で不吉なものを感じ取ったようだった。

「ヘンリー・ギャラガーは妻に暴力を振るう人間よ。それですでに三人と離縁している」

「一人目は事故で亡くなられたのよ」

「あなたが暴力で殺されるってことだってありうるじゃない……!」


 どうしてそんな相手と、と思うが、それしかないという状況も分かった。

 首まで高い襟、長袖というほとんど肌を出さないそのドレス。衣装の下がどうなっているかは予想できた。ヘンリー・ギャラガーは社会的地位もあり、十分な資産もある。妻をうかつに逃がすようなことは無いだろう。イヴリンはまさに童話のように囚われの身なのだ。


「でも優しい人だということも聞いているわ。最初の奥様の事故死でおかしくなられたって聞いているの。嫌だけと思うのは最初だけで、もっと長く年単位で付き合ってみればいい人かもしれない」

「いい人は……いいえ、普通の人間は女性に暴力は振るわないのに」

 そんなことイヴリンは承知だろう。長く、年単位で付き合えるかどうかも怪しいということは。


 仕方ない。

 その言葉で彼女は自分の人生は愚か、生命まで売り渡してしまったかのようだった。


 その時、部屋の扉がノックされた。

「どうぞ」

 イヴリンが答えるとゆっくりと扉は開かれた。

「失礼いたします……」

 消え入りそうな声で呼びかけると入ってきたのは、二十代半ばくらいの女性だった。地味で目立たない女だ。イヴリンの近くに行くとイヴリンの器量の良さが際立った。

「ああ、クラリッサ」


 イヴリンが安堵したように呟いた。クラリッサが手にしたトレイには美しく小さくカットされたサンドイッチが乗っていた。テーブルにトレイを置くとポットから彼女は紅茶を三人分注ぐ。

「こちらはイヴリン様に」

 そういって彼女はサンドイッチを差し出したのだった。

「花嫁様は宴席の最中はお客様からのお祝いの言葉をうけるのに忙しくて、なかなか食事もとれませんでしょうから」

 クラリッサは控えめに微笑んだ。けして美しい容姿ではないが、気遣いと思いやりのある女性のようだ。イヴリンもありがとうと笑顔を返す。


「クラリッサは、私の世話をしてくれるの」

「……あっ」

 ソフィアは息を飲んだ。ずっと感じていた違和感がようやく理解できた。首都のギャラガー屋敷でも感じていたことだ。

 首都のギャラガー屋敷でもここでも、女性の使用人を一人も見なかったのだ。今、初めてクラリッサを見た。


「……ここ、女中はもしかしてクラリッサさんだけ……?」

「クラリッサとおよび下さい。湖中の城には私だけです。湖畔の屋敷にはおりますが。女性のお客様がこれほどにいらしてはさすがに私一人では手が回りません」

「……どうして?」

 その問いにクラリッサは気まずそうに黙り込んだ。イヴリンの声は静かに告げた。


「……私の夫は女性が少し苦手なの」

 あの憎悪。

 思い出してソフィアはぎゅっと手を握り締めた。


「これで失礼いたします、御用がありましたらなんなりとおよび下さい」

 クラリッサは静かに用事だけすませると立ち去る。扉が閉まる直前ライオネルがちらりと見えて、その監視の瞳の鋭さにソフィアはぞっとした。

「クラリッサは……まさかあなたをいじめたりしないわよね?」

 ソフィアは思わずそんなことを聞いてしまう。

「ええ、クラリッサは親切よ……彼女を信頼できないのは、私の問題」

 イヴリンはサンドイッチに手をつけようとしなかった。じっと見てから短く答える。


「彼女、ヘンリーの乳母の娘で長く一緒に育ってきたんですって。だからうかつなことを彼女の前で言うのは怖いわ」

 全て回りじゅう敵だらけ、そんな環境に置かれているようだった。

「イヴリン、逃げられないの?」

 迷いに迷って、それでも自分の望む道と思えるものを選んだばかりのエイミーは、その状況が違うことはわかっていてもイヴリンに聞いてしまう。彼女が逃げたいというのなら、何か出来ることはないかと必死に考えているようだ。

「もういいの。ソフィア、エイミーありがとう」

 イヴリンはなにもかもを諦めたように、遠くを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ