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「見て、ソフィア」
馬車の窓辺に近寄ったエイミーは、溶けるようなガラス窓の向こうの景色に弾んだ声を上げた。ソフィアもそちらに視線を動かしてみれば、驚くような風景が広がっていた。
先ほどから入り込んだ林の木々の陰から、鏡のように澄み切って空を映す湖が輝いていた。入り江は湖の中ほどまで通路のように伸び、盛り上がった中島に繋がっている。そこにはさほど大きくないが、白く美しい城が佇んでいた。
今、ソフィア達の進んでいる道はやがてその湖上の城にたどり着くようだった。
「水中から直接立っているみたいね」
エイミーが感動したようなため息をつく。
「すごいわねえ、イヴリンは。素晴らしい場所の奥様ね」
エイミーこそ、素晴らしい屋敷の奥方となれる機会があったことなどすっかり忘れているような口ぶりだ。エイミーは手放したものに後悔などしていない。その潔さにソフィアは感心してしまう。
あの日、アーサーに死に掛けていたところを助けられてから、ソフィアの問題のいくつかはあっという間に解決した。
翌日にはアーサーは学校帰りに待ち構えていて、エイミーにソフィアの遠縁だと挨拶した。今までお互いの存在も知らなかったが、最近知り合うことができて、首都にいる間だけでも困窮している若い身内にできることがあれば協力したいと考えている、と彼は語った。
よどみなく嘘をつく様にソフィアは呆れるより先に感心する。さすがに三百年生きていると嘘も達者だ。
設定としては恐ろしく無理のある嘘を、その演技と説得力でエイミーに押し付ける。基本的に善意の人のエイミーは、当然それを信じた。
アーサーが二人を連れていったドレスの仕立て業者も、恥ずかしくない製品を作るが、王侯貴族が着るような目の玉が飛び出るようなたいそうな商品でもない絶妙の金額設定だった。遠縁の田舎貴族がめったに会えない若い娘の親族に財布の紐が緩くなっているという説得力がある程度に。
もちろんソフィアやエイミーには手の届かない価格だ。
エイミーも困惑と遠慮があったが、休日の奉仕活動を聞いて、なんとか受け取ることを承知した。エイミーもイヴリンを気にかけていたのだ。
ソフィアの暗い髪と、柔らかい瞳の色にとてもよく似合うはっきりとした青をアクセントにした花柄のドレス。
エイミーの薔薇色の頬に似合う、明るく淡い緑色の沢山レースのついたドレス。
今着ている訪問時の衣装を初めとして、晩餐会のドレスに翌日のガーデンパーティのドレス。帰宅時の普段着に近い可愛らしいもの。滞在時間が長くなればなるほど、一日たりとて同じものは着せないとばかりに買い上げていった。
一泊二日での滞在で済んでほっとしたくらいだ。
行き来の馬車の手配もさっさと済ませてしまった。しかも私と一緒では気を使うだろうと彼だけ別の馬車だ。
ともかくこうして披露宴に向かうことが出来た。
それはヘンリー・ギャラガーとライオネル、二人と対面する時間が迫っているということになるのだが、ソフィアはなるべくそれを恐れないようにしている。怖いのはエイミーが傷つくことだけだ。しかしそれはアーサーも注意してくれているだろう。
エイミーにヘンリーの残酷さを伝えるべきか、ソフィアは悩んでいた。エイミーに「イヴリンの旦那様はどんな方だったの?」と問われたからだ。とっさに口ごもってしまったソフィアを見てエイミーはなにかを察したようだった。
「……でも、ご主人はどうなのかしら」
今も、そう呟く。ヘンリー・ギャラガーに対して用心しているのは間違いない。
「エイミー、楽しい式になるといいとは思うけど、いろいろな人間が居るから気をつけましょうね」
「ええ」
ソフィアが遠まわしに告げた言葉もその裏を読んでいるようだ。
「イヴリンはどうして私なんて呼んだのかしら」
エイミーは不思議そうな口ぶりだった。
「私、彼女に何かしてあげられたわけじゃないのに……苦労していなければいいのだけど」
「どういう意味?」
「懐かしい人間を呼ぶのは、きっとその時代になにか自分の気持ちを置き忘れているからだと思うわ。今に満足していないからじゃないかしらとも。イヴリンが私達のことを怒っているわけじゃないといいのだけど」
その可能性は考えたが、それならば先日ソフィアを訪問したりはしないだろう。ましてや助けを求めるなんて。
あの一件はエイミーには伝えていない。しかしエイミーは自分に招待状が来るというそれだけで、イヴリンの不吉な影を感じ取っていた。勘の鋭さは凄まじいなと思う。
「私に何もできなかったことはとても悔しいけど、でもイヴリンが怒っているのならせめて和解をしたいわ……」
「大丈夫よ。イヴリンは別に怒っているわけじゃないと思う。手紙を信じていいんじゃないかしら。きっと本当に懐かしくて来てほしかっただけなのよ」
ソフィアとしては他にいい言葉もなかった。イヴリンが何かを求めてソフィアとエイミーを呼んだというところまでは感じ取れる。しかしその後がわからない。とりあえず今ソフィアにできることはこの着慣れないドレスでわけのわからない結婚披露パーティに乗り込むことだ。
入り江から更に延びた湖の城に向かう細い道は、ちょうど浅瀬になっている部分に低い木の橋が長く掛けられていた。水上を馬車で駆け抜けているような清々しい風景だった。まもなくたどり着いた城も、花がかしこに咲き乱れ白い壁を美しく飾り立てていた。
城の門からは跳ね橋が下りて、道を繋げていた。
馬車の扉を開けてくれたのは、アーサーだった。にっこり微笑んで、馬車を降りるエイミーに手を差し伸べた。エイミーからすればかなり年上だが、その洗練された紳士的な態度はエイミーをときめかせるに十分だった。
同様に手助けされて馬車を降りたソフィアにエイミーがにこにこしながらこっそり囁いた。
「アーサーって、素敵な小父様ね」
そうね、血で血を洗う戦争ののちに建国するくらいだもの。
とは、とても言えずソフィアは曖昧に笑う。それを同意と取ってくれたらしいエイミーは満足そうだ。
エイミーの来ている淡い色のドレスは白い城壁と光る水面にとても映えている。その後ろでは城の使用人がアーサーの馬車から次々にトランクを搬出し、城内に運び込んでいた。他にも到着した客達で城内はすでに庭園からにぎわっている。
「やあ、アーサー!」
軽薄な声音で声をかけてきた人間が居た。アーサーはにっこりと笑って手を上げる。
「やあチャールズ、今日は招いてくれてありがとう」
『建国王』でも謎めいた『アーサー』でもなく、彼はすっかり『アーサー・バロウズ子爵』になりきっている。そのアーサーの前にやってきたのは、ソフィアやエイミーとさほど年の変わらない若者だった。豊かな金髪を流行の形に整えて、着ている物も実に洗練されている。若干残念なのは、初対面から激しく感じ取れる彼の軽薄さだった。
「アーソニアからここまでは大変だっただろう」
「いや、美しい風景を堪能できたよ。しばらく世話になるがよろしく頼む」
アーサーはそれから二人に向き直った。
「君達は初対面かな。チャールズ・ギャラガーだ。このパーティの主催者であり花婿であるヘンリー・ギャラガーの弟だよ。私は実は彼の友人なんだ」
チャールズはにっこりと笑ってなんでもないように見るが、どうしたってその視線からは二人を女性として品定めするいやらしさがあった。人によっては好意を持ち始めているのだととらえて得意かもしれないが、ソフィアは居心地悪くなる。エイミーもうっすら感じ取っているようで、いつものくったくない笑顔は少し影を潜め、控えめなよそよそしさがあった。
「チャールズ、こちらはソフィア・ブレイクとエイミー・グリーン。ソフィアと私はちょっとした知り合いでね。道中も皆一緒のほうが楽しいだろうということで、ここまで一緒に来たんだ」
「へえ。アーサーは意外に若い子が好きなんだな」
「チャールズ、そういうんじゃないよ、彼女らは友人だ。花嫁の学友だったんだ」
そこでチャールズの目が見開かれた。能天気にひゅうと口笛を鳴らす。
「もしかして国立医科大学校の学生ってことか。すごいな、国家最上位の才媛じゃないか。よろしく、っていっても俺はそこまで賢くないからあなたがたの話相手にはなれないけどな。しかしイヴリンといい美人揃いなのに、字がいっぱいの本だの血まみれの身体だの小動物だのと向き合ってその美貌を潰すなんてもったいないなあ。あなたがたならそれなりにいい男捕まえられるだろうに。なんで美人なのに勉強なんてするんだ?疲れたら俺に言いたなよ、若いうちならいい男紹介してあげるから。年取ってからはやめてくれ、いくら美人でも嫁き後れじゃ価値はないからさ」
ははと笑って彼は手を差し出してきた。
この人。
すっごいバカ。
ソフィアは若干ひきつりながら彼と握手を交わす。エイミーも珍しく笑顔が凍りついていた。先日少しだけ関わったエイミーの元婚約者ポール・テイラーもソフィアを苛立たせる男であったが、チャールズ・ギャラガーもなかなかものものだ。違いがあるとすれば、チャールズは少なくとも敵意がないところだろう。そこだけは好ましく、心底嫌いになることはできない。だが。
アーサーの笑みが物語っている。
『悪い奴じゃないんだが、ちょっとアホなんだ。まあ堪えてくれ』
「美人だなんて、光栄です」
エイミーはそそくさと手を放した。
「エイミーは美人っていうより可愛いな。ちっちゃくって可愛い。それにぷにぷにつつきたくなるようなほっぺただ。健康な子供をたくさん産みそうだけど、付き合っている男とかいないの?」
言いたい放題だが、あっけらかんとしすぎて、どうも憎めなくなってくる。甘やかされたまま大人になって、しかもなまじ資産家で顔もいいから、女性にも好かれるのだろう。自分が理解できないものに対する敬意はさっぱりないが、他者に対する攻撃性も低い。女性への褒め言葉を惜しむこともなさそうで、このアホっぽいところが好きな女性もいそうだ。
「チャールズ!」
そう思い至ったところに、高い調子の声が重なって響き渡った。振り返ってみれば、今到着したらしい若い女性が三人ほど、チャールズに向かって手を振っていた。彼女達も裕福な育ちであろうことが感じ取れる。チャールズはあっという間にソフィアとエイミーから興味をなくし彼女らに手を降った。
「失礼、友人が来た。じゃあアーサー、披露宴は楽しんでくれよ。それに才媛のお嬢さん達も」
気障な仕草でぱちんとウインクまですると、チャールズは軽い足取りで知り合いの女性達のところに向かった。女性にチャールズチャールズと呼びかけられ、笑顔満載で囲まれているところを見ると優しい男なのだろう。
「万人に優しそうな方ね、女性相手だとさらに五割増ね」
エイミーのぼやきに、最初に吹き出したのはアーサーだった。
「エイミーはなかなか人の表現が的確だな、辛辣寸前だ。さすがソフィアの友人だけある」
「アーサー、あなた、わたしをどんな人物だと考えていらっしゃるんですか?」
「さあ、そろそろ屋敷内に入ろうか。お客もどんどん来るし」
ソフィアの質問をはぐらかしてアーサーは屋敷内に歩き出した。狼の持ち手飾りがついた杖を軽快について屋敷の中に入る。
そのとたん現れた、チャールズに腹を立てていたことすら忘れるほどの立派な屋敷内にソフィアはため息をついた。
屋敷の中まで白を基調としていた。柱は大理石で装飾され、壁紙は良く見ると微妙な陰影を見せる複雑な模様の新品だ。重厚な調度品の上には軽やかな白い花器が無数に置かれ、その全てに多種多様な白い花が差し込まれていた。壁に飾られた絵画や彫刻も、風景や神話の神々をモチーフにした明るいものだった。
「ギャラガー家が、古いこの屋敷を購入して、修繕したんだ」
「素敵ね……」
ソフィアは背筋を正す。貧乏学生が居ていい場所とは思えないが、せめて胸は張っておこうと考えた。湖の中に立っているとは思えないほど、広大な屋敷である。ソフィア達の荷物はすでに使用人達の手で宿泊の客室に運ばれている。ソフィアとエイミーが一緒であるようだがアーサーがどうなっているのかは知らない。
使用人に案内され、ソフィア達はすでに皆がお茶を出されている巨大な控えの間に通された。現在は午後の四時だ。これで一休みした後、晩餐会が始まる。
「ほぼ一日馬車に揺られて疲れたかな。それなら一度部屋に通してもらうかい?」
アーサーがソフィア達の顔を覗き込んで言った。
「でもまだイヴリンに会っていないわ」
ソフィアが気に掛けているのはそれだ。
「会うのは難しいだろう。今夜の晩餐会に合わせて、支度をしているから」
アーサーは声をかけてきた男性の使用人に、三人分の茶を頼む。二人をゆったりとしたソファに座らせると、申し訳なさそうに告げた。
「そうね、花嫁は多忙ですものね」
ソフィアはため息をついた。
「……ソフィア!?」
声をかけられたのはその時だ。声の主を察するより前にソフィアはアーサーが楽しげに薄く微笑むのを見た。
「……ジョン」
ソフィアは立ち上がった。
先に到着していたらしく、奥からこちらに向かってくるのは、ジョン・スミスだった。晩餐会に合わせて盛装などしていて、本当に腹が立つほどの美形具合である。中身を知っているソフィアですら一瞬息を飲む。周囲に座る若い女性の目がひきつけられているのをソフィアは痛いほどに感じ取っていた。




