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一度、口元に馴染みのある甘い香りのするものを差し出され、夢中で飲み下したことは覚えている。けれどそこからも記憶は飛んだ。
ソフィアは眠りを鋭い刃物で断ち切られたかのように急激に、そして明瞭に覚醒した。
目の前の室内は明るかった。窓の外からは鳥の軽やかな鳴き声がする。晴天の朝だった。ソフィアがいつもどおりの朝のように身を起こす。いつもと違うのは部屋が下宿でなく、また自分以外の人が居たことだ。
「まあ」
ソフィアを見て穏やかに微笑んだのは、細身の老女だった。黒く長いワンピースに真っ白なエプロンをつけている。綺麗に纏め上げたほとんど白髪だけのつやつやした髪が素敵だった。
「目が覚めたんですね」
「……アーサー」
その言葉にはっと記憶を取り戻した。ここは一体どこだろう。
大きく光を取り入れられるように窓が取られた部屋だ。レースのカーテンが風にゆれ、朝の空気を室内に引き入れていた。その部屋の調度品は品よく高級そうで、一瞬ギャラガーの屋敷かと思ったが、雰囲気はあの屋敷ではありえないほどに優しかった。
「ここは、あの……」
身を起こしたソフィアは自分は今は一つも濡れていないことに気がつく。髪は乾き梳かされている。拭われたのか清潔な身には柔らかい綿の白い寝巻きが当てられていた。おそるおそる掛け布団から取り出した手の甲は、うっすらと新しい桃色の皮膚が丸く残っていた。ほぼ治癒しているが、確かに怪我はあったのだ。
夢ではないと知る。
けれどヘンリー・ギャラガーが存在しているということ事態、悪夢のようだった。
老女はここがどこかはすぐにわかりますよ、といって出て行った。
ギネヴィアにたどり着いてからの記憶があやふやだ。女主人にすがりつくようにして、それでも立っていられなくてへたり込んでしまった。あんな血まみれの手で触ってしまって本当に申し訳ないことをした。あと、下世話な話、彼女の衣類の弁償まですることになったらどうしようと不安になる。一ヶ月に使っていい金額はもうとっくに越えている。
恐怖に情けなさ、不安に思わず泣いてしまいそうだった。たぶん自分の限界は超えているのだ。でも、イヴリンのあんな男のところに嫁がせたままにしているのも間違っている。たぶん、彼女も遠からず殺されてしまうだろう。
ヘンリー・ギャラガーはイヴリンやソフィアを憎むというよりは女性全てを憎んでいるようだった。そういえば、屋敷内で女性の姿を一人も見なかった。でも自分は彼女の何の力になれるだろう。
さほど時間も経ずに扉は再び開いた。入ってきたのはアーサーだった。
一瞬、なんでだろうと考えたが、自分自身がギネヴィアで彼の名を出したのだと思い出す。あの女主人は最初から最後まで親切だった。間違いなくアーサーを呼んでくれたに違いない。アーサーはゆっくりと部屋を横切ってくるとベッドの横の椅子に腰掛けた。
白髪は明るい茶褐色に染められている。それだけで異質な雰囲気は激減し、壮年のすばらしく男前の貴族に見えた。アーサーは無表情のまましばらく何も言わずソフィアを見ていた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
沈黙に耐えかねたのはソフィアが先だ。ソフィアがそう言うと、アーサーは指を自分の眉間に伸ばして頭痛を和らげるように揉んだ。
「……事情くらい、私は聞かせてもらえるのだろうか?」
アーサーはなにかをもう諦めた様子だった。
「私は君を見取る責任はない」
「そうですよね。本当にご迷惑を掛けて申し訳ありません」
「『生き死に沙汰になる前』、に声をかけて欲しいと言う事だ」
アーサーの言葉にようやく感情がこもってくる。ソフィアに対する苛立ちとか思いやりとかそういった様々な彼の気持ちがないまぜになっていた。
「それで何があったんだね」
ここまで来て黙っているのは逆に失礼だということはソフィアにもわかった。ソフィアのなかでの葛藤は、どこから話したらいいのだろうというそれだけだった。
「友人の、イヴリンが」
けれど口火を切った瞬間に、ぐっと強く胸を押されたような気がした。心臓をわしづかみされて言葉がでない。
それが恐怖の残り火だということに気が付いてソフィアは呆然とした。
「イヴリンが、ヘンリー・ギャラガーと結婚して。それで。あの」
掛け布団の上にそっと置いた指先が、震えているのがわかった。
耳元で、男の声が囁く。楽しげに「鼠退治」だと。
ソフィアは震える両手で口元を覆った。何かあればすぐに号泣してしまいそうだった。どうして涙が出るのかわからないままに。けれど建国王の前でそんなみっともない姿を見せるわけには行かない。しかし恐怖はソフィアの影をずっと踏んでいる。
今まで二回ほど死に掛けた。
それでも今ほどに怖いことはなかった。
ヘンリー・ギャラガーの深くて密度の濃い悪意がソフィアには恐ろしい。恐怖はソフィアの胸を息苦しいほどに圧迫する。
「……シナバーはどこまでやったら死ぬのだろうって」
くぐもった声でソフィアが告げると、アーサーが優しい声で遮った。
「もう結構」
アーサーは、口元に当てられたソフィアの両手をそっとはがす。中の様子がわかったわけでもないだろうに、ちょうど室内に、紅茶を持ってきたのは先ほどの老女だった。
何も語らずサイドテーブルにティーセットを置いて出て行く。少しだけソフィアと目が合い、かろうじてそうだと判断できる下手なウインクをして出て行った。おそらくシナバーの老女だが、可愛らしいと思う。ギネヴィアの女主人といいアーサーの周りには魅力的な女性が多い。
アーサーは自ら紅茶を入れ始めた。金があしらわれた繊細なカップをソーサーごと渡してくれる。
口元に持っていってみればそれだけで、心が少しほぐれるようないい香りだった。
「ソフィア」
アーサーはいつもの調子を崩さないで言う。
「私はね、現代のごたごたにはなるべく首をつっこまないようにしようとしている。国家や人類の危機、あるいはシナバーの存続に関わるような話は別だけど。だからヘンリー・ギャラガーがどれほど女性に対して嗜虐癖のある人間だとわかっていても、介入するつもりないんだ。君が思うよりずっと、私には財力も権力もある。私は身勝手に自己都合で現代の人間の問題に関わることは避けたい」
「ええ、わかっています」
アーサーの日が落ちる瞬間の淡い紫の瞳を見ていたら、少しだけ気持ちの落ち着いたソフィアは頷いた。わかってくれて良かった、そんな顔でアーサーは優しく言葉を続けた。
「でもね、ソフィア。私の数少ない友人である君がそうしてくれというのなら、ヘンリー・ギャラガーを拷問してから殺してもいいよ?」
「なにとんでもないこと言ってるんですか!」
建国王、現代ですよ。とソフィアは気が遠くなる。だがこうやってソフィアをからかうアーサーに元気付けられたような気がした。
「人道にはずれることをやっちゃってくださいとか言えませんよ」
「もう私は人間じゃないからねえ……人道とか面倒なことは配慮しなくてもいいのではないだろうか」
「それを免罪符にしちゃだめですって!………………でもありがとうございます」
アーサーは疑問を示し片眉を上げた。
「そうやって普通に冗談を言ってくれると励まされます」
「そうか。ソフィアが冗談にして欲しいというのなら、そうしておこう。さてソフィア、マドレーヌもあるが?」
先ほどから気になっていた甘い焼き菓子の香りの正体が分かった。ソフィアはカップをアーサーに返すとベッドから足を下ろす。カップの代わりにマドレーヌを受け取ってソフィアは先ほどのアーサーの怖い発言をなかったことにした。
「……甘えついでにお願いがあります」
お菓子を齧る前にとソフィアはアーサーを正面から見つめた。
「なんだろう」
「わたしはヘンリー・ギャラガーとイヴリン・ゴールドベリの結婚披露宴に呼ばれています。わたしの力ではそこにいくことは財政的に難しい。でもどうしても行きたいのです。どうか仕度を整えるのに協力をしてください」
「……ヘンリー・ギャラガーに酷い目に合わされたのでは?」
「だからこそ、行かないと。友達のイヴリンは、わたしに助けを求めたことがあります。その時はなにもできませんでした。でも何かしたいんです」
「君の嫌いな借りを作ることになるが?」
「わたしに出来ることはありませんか?お力になります」
アーサーはソフィアの目を逆に覗き込んできた。その心理を測るように。
「……君の友達ということはエイミーの友達でもあるのだろう。エイミーは招待されていないのか?」
「されてますけど……」
でもエイミーも出席できる余裕はない。
「いいだろう。条件はまず一つ目。エイミーも君に同伴すること。恋人でも身内でもない私は君にべったり張り付いて護衛できない。か弱き女性でも一人より二人だ。エイミーの分も面倒は見る。そして二つ目の条件。借りは返していただく」
「何をしましょう?」
「そうだな……アーソニア外れの孤児院に行ってもらおうか。半年ほど休みの日は張り切って孤児に読み書きを無料で教えてやってくれ。シスターイザベラの修道院は知っているね?」
「……でもそれではアーサーは何一つ得をしませんよ?」
「いいんだよ。与えられた親切を、与えた人間ではなく他の困っている人間に返したって」
アーサーはさらっとソフィアに返せるたぐいのものを提示する。その判断の速さはすごいと思わざるを得ない。
「三つ目は、ドレスは私に選ばせること。エイミーの物もだ。君とエイミーにファッションに係る有能さがあるとはとても思えないのでね」




