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ジョン・スミスの宿泊しているホテルには息を飲んだ。
途中で拾った流しの馬車に、ジョンは街の中心に向かうように告げた。はてあのあたりに手ごろな価格のホテルなんてあったかしらと考えていたソフィアが連れてこられたのは、この都の最も中心通りの一等地に大きく構えている一流ホテルであるホテルグレイシアだった。
ホテルの入り口の前で馬車を降りて、ソフィアは目をむく。恭しく頭を下げてドアマンが鈍く輝く真鍮とガラスで出来た扉を開いた。
「ソフィア」
ホテルグレイシアなど、名前しか知らなかったソフィアが見慣れぬ豪華な光景に唖然と佇んでいると、ポーターがやってきて、彼女のぎっしりつまったトランクを預かる。彼が受け取った時に重さの見込み違いでよろけたのは彼の不手際では無く、ソフィアがそれを軽がると持っていたためであろう。
フロントでお帰りなさいと呼びかけられて、ジョンは慣れた様子でそちらに向かった。もう一部屋の交渉をしているのだろう。やがて、彼はソフィアのほうに戻ってきた。
「もう一部屋は今準備させている。とりあえず、こっちだ」
赤い絨毯が敷かれた階段を上り、五階までたどり着く。奥まった静かな部屋をつや消しの金色の鍵で開けると、彼は扉を開けた。
これこそ一流ホテルのスイートの理想、とでも言うべき優美な室内だった。すでに明りは十分に灯されている。床には異国風の分厚い毛織物がひかれ、猫脚が滑らかな曲線を描く長椅子が置かれている。壁紙は意匠化された花柄で色使いには独特の品があった。壁には絵画まで飾られまるきりどこかの貴族の応接室だった。寝室は奥の扉を開けた向こうだろう。
ホテルの室内にジョンが持ち込んで好きに誂えている物もあるのだろう。妙な場所に沢山植木鉢がある。壁にかけられた一枚の老婦人の絵画は、この部屋にもともとあったものではなさそうだった。ホテルマンの対応もそうだが、彼がこのホテルに長く逗留していることがわかる。
なによりも、部屋がとんでもなく散らかっている。
「ジョン……言いづらいことなんだけど、この部屋散らかってるわね……」
ホテルのせいでは無いだろう。散らかっているものは主に紙類だった。何かの書類に開きっぱなしの本、書き損じたらしく丸めて散らばっているメモ。その間にジョンの衣類が投げ出してある。
「ああ、あまり部屋の物の場所を変えないように言ってある。家の使用人にも僕の部屋は手出しさせてない。まあここは借りている場所だからあまりわがままも言えない。ちりを取るくらいは許すしかないだろう」
「……ジョン」
ソフィアは眉を寄せて尋ねた。
「あなた何者?」
あの馬鹿げたドレスもむやみやたらと豪華な様子だったことを思えば、この質問はもっと早くにするべきだったのかもしれない。シャンデリアの蝋燭がゆらめく室内でジョンは肩をすくめた。
「学者の卵」
しれっとジョンは答えた。
「それだけじゃ、こんな暮らしはできないわ」
「今のところはそれが真実だよ。ところで扉を開け放していると寒いんだ。早く締めたまえ」
ソフィアは一瞬躊躇したが、踏み込んだ。フカフカの絨毯に足が埋まりそうだ。
ソフィアはぼんやり今日を振り返る。ついてないと最初に思ったあの朝のかさかさのパンが懐かしかった。なんで今自分はこんな場所にいるのだろう。
「ねえ、ジョン」
「なんだい?」
「あなた、警戒したほうが良いと思うわよ?」
ジョンは上着を脱ぎながら、意味がわからないという顔をしている。
「わたしが悪いシナバー患者だったら、あなたを襲って金目のものを奪うわ」
「……なるほど。しかし金目ものですむならまあいいさ。本当に大事なものはここにしかないからね」
ジョンは自分の頭をつついた。今度はソフィアが首を傾げる番だった。しかし彼は特に説明もしない。そういえばヒューゴが彼は頭がよくて飛び級で大学院に至っているといっていた。
得体の知れない青年だと改めて思った。
結果として成り行き上、彼の護衛をすることになってしまったことには困惑している。どうしよう、何か武器でも手に入れたほうがいいのかな。でもシナバー患者が武器を携帯するには政府の許可が確か必要だったような。
ソフィアはつらつらと今後に思いを巡らせていた。
と、扉がノックされた。ジョンがどうぞ、と声をかけると扉が開いて、ホテルマンがソフィアの部屋が準備できたことを伝えた。
「今日は疲れたよ。また明日、今後のことについて作戦を練ろうじゃないか」
「わかったわ」
そんな短い会話でとりあえずソフィアはジョンと別れて部屋を出た。案内された部屋は同じ階の少し離れた場所だった。しかし扉を開けてみれば似たような豪華な部屋である。
その部屋の真ん中にぽつんと置かれた粗末なトランク二つを見て、ソフィアは妙に非現実的に今を感じる。
とりあえず、濡れた本を乾かさなければと、ソフィアは夢のような部屋にはあまり惹かれずそんな実務的なことを思いついたのだった。
トランクを開けて湿っているものといないものを分ける。赤々と燃えている暖炉の前に湿った書物を並べ始めた。そうか、ボヤ騒ぎで今大変なことになっているんだということが、じんわりと実感を伴い始めた。暖炉の前で座り込んで炎を見ながらソフィアは自分が寂しいのかどうかを考える。
家族はもういない。
父親はソフィアが物心つく前には亡くなっていたし、母親は華やかな都会に憧れて出て行って最後まで戻ってこなかった。祖父母も亡くなった今、自分には頼りになる身内というものはいない。親切な親戚は田舎にいるが、あくまでも親切であって、寄りかかれるものではない。
だから自分はなんとか一人で食べていけるようにならなければならない。そのために医師を目指すことにしたのだ。祖父の遺産で学費はなんとか足りそうだ。
多少風当たりはきついが、吹き飛ばされるほどでもないだろう。
シナバーの患者は今の国内ではそれなりに尊重されている。そうでもなければ配給血など与えてもらえないだろう。もちろんそれは権利と義務の背中合わせだ。有事の際にはシナバー患者には成さねばならないことがある。
……そのことを考えると憂鬱になってしまうソフィアは、考えるのをやめた。くよくよしても仕方ない。とにかく今は医師になるという目標に向かって頑張らなければ。心がぐらぐらしては自分を保てない。
ヒューゴにかつて、ため息交じりに言われたことがある。
『ソフィアは自立心が旺盛すぎやしないかい?』
もしかしたらそうかもしれないが、悪いことではないはずだ、とその時は少しヒューゴに反発しそうになった。
だって結局頼りになるのは自分だけじゃない?
祖父は自分の医師という仕事には誇りを持っていた。でも孫娘がその道に進むといったら許さないという雰囲気はあった。女性は男性を支えて、家庭の中で堅実な人生を歩んでもらいたい。そんな祖父だった。……そんな誰か頼みの人生は嫌だ。
ソフィアが意志を明確にする前に祖父は死んでしまったので、彼が実際どんな反応を示したかはもうわからない。祖父が死んでしまった事は悲しいが、争わずに済んだ事は救いであるように思える。
それに彼の娘であるソフィアの母親は、予想もしないような破天荒な人生を歩んでしまった。
今のソフィアと同じくらいの年に、祖父に反対された相手と結婚してソフィアを産んでしまったのだ。その夫の死亡後、実家に戻ってきて祖父と大喧嘩してソフィアを置いて自分は都会にでてしまった。それきり亡くなるまで帰ってこなかった。
母親も祖父も皆悪い人間ではない。皆少しずつ自分を譲れなかっただけだ。でもその少しが、縁を断ち切ってしまうこともある。
身内の縁が薄い自分を自覚しているからこそ、ソフィアの自立心は強い。
ジョン・スミス。
唐突に彼のことが頭に浮かんだ。
そして、自分のぐじゃぐじゃした悩みが、彼のことを考えた時吹き飛んだ。呆れる事しか出来ないのだが、彼の個性にはなんとなく憧れた。
翌日、ソフィアは少しまだ湿気でふわふわしている教科書を詰め込んで、国立医科大学校に向かった。朝、ジョンのところに顔を出そうかと考えたのだが、昨日の疲れのせいか少し寝坊してしまって時間がなかった。なにより朝っぱらからジョンと相対して脱力しないでいられる自信がない。今日は多忙である。役所に向かわなければならないのだ。配給血を貰わなければ。
授業が終わり、校内を急ぎ足で歩いていたソフィアは、中庭の隅で気になるものを見つけた。
女子生徒を三人の男子生徒が足止めしているようだった。一人の手には、教科書らしきものがあった。
「返してください」
女子生徒は……エイミー・グリーンだ。
もともと少ない女子生徒だ。あまり会話したことはなくても全員の名前を互いに把握している。
エイミーは遠目からでもわかる明るい金髪をしていた。小柄で女性らしくふっくらしている。それが人に対してなぜか安心感を与えるようで、ソフィアも悪い印象は持っていなかった。女子生徒の中ではソフィアの次に成績がいい。全体としてもかなり上位に位置する。その穏やかな見た目と人柄からは彼女が才女だとは思いつかないほどだ。
……それなのに少しだけ彼女を苦手なのはソフィア自身の問題だった。
その集団に剣呑な気配を感じ取ってソフィアはこっそり近づいた。エイミーがソフィアに気がついた瞬間には、ソフィアは男子生徒の高く掲げた手からエイミーのものと思しき教科書を奪い取っていた。
「あっ、こいつ」
小柄なエイミーには難しくても、長身のソフィアなら出来る芸当だ。
「なにやってんのよ、子どもじゃあるまいし」
エイミーが教科書を奪われて困っているというのは一目瞭然だった。それなのに関わりたくないとばかりに無視して通っていった他の生徒にもいらいらしながらソフィアはその集団に割り込んだ。
「お前には関係ないだろう」
「それなら子供じみた嫌がらせをわたしの目と耳にいれないで」
「お前達がここにいなければそもそもこんな場面はなかっただろうよ」
「ここ、とはこの大学校のことで、それは女性だからということ?馬鹿馬鹿しい。それは少なくともわたしより優秀な成績をとってから言いなさいよ」
ソフィアは怖気づく事無く連中を見回す。ソフィアの鋭い視線に彼らは一瞬怯んだ。
ソフィアは自分がシナバーであることを別に嫌ってはいない。特にこうして男の腕力を嵩にきて威張る相手には使い勝手がいい。
「行くわよ、エイミー・グリーン。こんな連中に関わるのは時間の無駄」
「ソフィア……」
ソフィアが差し出した手をエイミーは嬉しそうに取った。
「吸血鬼のソフィア・ブレイクか」
嘲るような声が響いた。男子生徒の一人が腹いせのように怒鳴ったのだ。
「……なるほど?」
ソフィアは足を止めた。そして三人を見回す。鋭い目に彼らは射抜かれたように竦んだ。
「二点。百点満点でよ?罵りの言葉としてはセンスもなくて最悪。つまんない。もうちょっと気の利いた言葉を選んでよ」
ソフィアはかがんで地面にあった石を二つ拾った。
「吸血鬼、なんてただの古くさい死語だわ。使うほうが恥ずかしいわよ?」
ソフィアはその言葉と共に、二つの小石を拳の中で握り互いを合わせて砕いた。ごりっと言う音が響く。
「ね?」
それをぱらりと地面に落としてソフィアはにっこり微笑んだ。
「もっと言葉を選んで。でもそんな時間があるなら、勉強すれば?少なくともエイミーはあなた達より優秀でわたしより親切よ。頼めば教えてくれるんじゃない?」
ソフィアは言い放つと、エイミーの手を引いて今度こそ彼らに背を向けた。
「あ、あの」
一歩遅れて歩くエイミーが声をかけてくる。
「ありがとう。とても助かった」
「あなたもなにか言い返せば良いのに」
「でも怒らせて本を破かれたりすると困るから」
エイミーは苦笑した。
「そんなことより、ソフィアと話が出来て嬉しいわ」
あんなことがあったばかりだというのに、あまり苦にする事無くエイミーは笑った。彼女は彼女で強いのかもとソフィアは気がつく。なにがあっても大きく反発せずにやり過ごすことにしているのかもしれない。それはそれでうらやましい性格だった。
「ソフィアは美人で頭も良くて、いいなあって思っていたけど、なかなか話しかけられなくて」
美人……まあ同じ女性の評価はあてにならないから……と皮肉っぽいことを考えていたソフィアだが、エイミーは相変わらず優しい表情で笑顔を浮かべている。
今の三人の男子生徒のように、悪意をぶつけてくるものもいるが、エイミーは好かれているほうだ。その穏やかな物腰と誰にでも優しい態度に憧れている同級生も多い。
ああ、とソフィアは思い当たる。もしかしたら今の三人も誰かがエイミーを好きなのかもしれない。でも自分より優秀で、しかも苦難の道を歩んでいる彼女にどうしようもない苛立ちを感じてしまうのだろう。対応としては子どもっぽすぎるので同情する気にはなれないが。
「ねえ、これからお茶に行かない?」
エイミーの誘いにソフィアはゆっくりと手を放した。
「ごめんなさい、今日はちょっと忙しくて」
「そう……残念だわ。また誘ってもいい?」
ソフィアはためらいがちに小さく頷いた。そして鞄を抱えなおすと急ぎ足で歩き出す。
入学した直後に、エイミーが親しい男子生徒に話しているのをたまたま聞いてしまったことがある。
『私は人の力になりたい。だから医師を目指したの』
エイミー・グリーンは貧しい村の出身で幼い頃病弱だったのだという。しかも家族を病で亡くしていた。自分を助けてくれた医師の養女となってこの学校に来たのだが、まだまだ医療の手が十分でない地域があることをよく知っている。どうしてもその地域の力になりたいのだと、穏やかな表情と静かな声、そして決意に満ちた目で語っていた。
だからソフィアはエイミーがまぶしい。
ソフィアにとって医師になるという理由は、他人のためではない。自立していたいという願いからだ。
すべてがそうではないにしても、ソフィア自身にとって、医師になるということは一人になってもなんとかなるようにという相変わらずの自立心の一つにすぎないのか。
それを思うとソフィアはとたんに自分が恥ずかしくなる。人の役に立ちたいという心がなくて医師を目指す自分は間違っているのでは無いだろうか。そういった高い志のある人間はエイミーだけでなく学内に大勢いて、彼らの情熱に当てられて自己嫌悪を感じてしまう。
本音で語り合える相手を求めているけど、その本音すら自分が他人と違ったらどうしたらいいのかわからない。
エイミーはソフィアに助けてくれてありがとうと言って、気に入ってくれたけど、本当はすごく自分勝手なソフィアを知ったら、嫌われてしまうかもしれない。
だから今もエイミーと語り合う機会を恐れたのだ。
……一人はとても寂しいとわかっているのだけど。
ほとんど走っているような状態で、ソフィアは役所に向かう。
相変わらずの混雑っぷりだ。
しかたなくソフィアは整理券を取って、おとなしく座って待つことにした。ざわざわとしたざわめきの中座っていると、横の席に誰かの忘れ物らしい今日の新聞があった。ぼんやりとみつめたその見出しにソフィアは息を飲んだ。慌ててそれを手にして新聞を広げる。
インクの匂いがふわりと漂う中、ソフィアは目に飛び込んできた字に見入る。
『連続首切り事件、ついに四件目!』




