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何人も妻を娶り、その全てを残酷にも殺した童話の悪役『青髭』。
それになぞらえたあだ名は確かにひっかかる。
ヒューゴは「ただ、私もここしばらくは本当に社交界とは縁がないから」と控えめに補足をした。それでもそのあだ名とヒューゴの印象から、不安は拭えない。
ヒューゴの診療所を辞した時にはすでに日は落ちていた。まっすぐ家に帰ろうかどうしようか悩んでから、ソフィアはヒューゴからもらったメモを広げた。ジョンが居ることが多いという喫茶店。いや、喫茶店と言うにはあまりにも高級そうなのが不安だが、日が落ちてからは酒類を出すところも多い。まだ店も空いていて、ジョンが居るかもしれないと考えたソフィアはそこに向かうことにした。
そもそも今日は、午前中は住居の扉を直していたのだ。もともと勉強できるような気分の日ではない。それなら予習復習をサボりついでに行ってみた方が気分もすっきりするかもしれない。ソフィアは重い鞄を肩にかけたまま、歩いて向かった。もちろん馬車に乗れれば言うことないが、今月の家計が苦しくなりそうだという不安があったのだ。
喫茶店の名前は『湖の貴婦人』。その名の通り、首都アーソニア中心にある大きな公園の池の脇にある。入り口は道路側にあるがその大通りに背を向け、大きなガラス張りの店内の客席は池を向いている。池の周囲の小道まで行けば、店内をこっそり見渡せそうだった。
三十分ほど歩いてたどり着いたソフィアはもう人の気配もない公園に入り込んだ。店内には豪勢に明かりが燈され、外から見ていればガラス張りの店内そのものが輝いているような美しさだった。こんな時間でも静寂の公園を見つめながら語り合う客で店内はいっぱいだ。
とても店内に入る勇気はなかったソフィアは、公園の小道から店を見上げながら歩き始めた。店内にジョンが居れば、気さくに……いささか気さく過ぎるくらいにあっさりと「やあソフィア、ひさしぶりだね、仕事が忙しくて」とか声をかけてきそうに思えたが、とにかく店の構えが高級そうでとても立ち寄れる雰囲気ではなかった。
外からは光輝く店内はよく見えるが、店内からはもうすっかり暗い公園の中は見えないだろう。
やはり池を見渡せる席と言うのは人気のようで、並んで座って外を見ることができる窓際の席には多くの客が居た。
そしてその中に意外と簡単にジョンの姿を見つけることが出来たのだった。
きちんと髪を梳って、整髪料で整え、流行の服を着たジョンが居た。それだけで、階級の違いと言うものを思い知らされるような華やかな姿だった。そういえば無駄に壮絶な美形だったと思い出す。
そして彼の横に座っているのは、若い女性だった。
ソフィアよりは年上で、ジョンと年齢は近そうだった。艶やかな明るい茶色の髪を結い上げ、光を反射する多数の宝石が付いた髪飾りで止めている。これから首都で評判の一流レストランで食事の予定、と言っても問題ないドレス姿だった。きりっと塗られた赤い口紅がやけに鮮明だった。
美しさもさることながら、何か議論をしても一歩も引かなさそうな意志の強さがはっきりと分かる。ジョンの苦手な「普通の淑女」ではなさそうだ。
彼女は何がおかしいのか妙齢の女性にはあるまじきほどに大きな口を開けて楽しそうに笑った。それから愛しそうに目を細めて、ジョンの髪に触れる。
そこまで見て、ソフィアはくるっと店に背を向けた。そのまま来たときの倍くらいの、ほとんど走っているとも言えそうな速度で歩き始めた。もちろんここから立ち去るためだ。
公園を出て、大通りに出る。だいぶ人の気配がなくなった公園だがその入り口近くで、馬車から降りてきた男性とすれ違った。品のいい壮年男性だったが、勢いよく出てきたソフィアはその勢いで彼をふっとばしそうになる。
「おっと」
目を丸くしてかろうじて避けた男性に、ソフィアは慌てて頭を下げた。感じの良い彼は苦笑いで快く許してくれたが、ソフィアはそれに対して十分感謝する余裕もない。お詫びもまともに言えたか分からないまま、駆け足で公園から逃げる。
動揺してる。
ソフィアは素直に自分の内心を認める。
この間の爆破事件で思ったことは、それを表に出すかどうかは別として、自分の感情だけは見極めようということだった。あの時ソフィアは恐怖と怒りでなかば混乱状態だったのだ。それを認めないで進むことはできない。恐怖は用心につながり、怒りは情熱に結びつくかもしれないが、ただ自分の感情も知らずパニックになっているだけではなにも果たせない。
だから今もこの行動の意味を考える。
そうだ、今、自分はものすごく心臓がどきどきしている。それはジョンの思わぬ姿を見てしまったからだ。
金髪の美女と談笑するジョンなんて。
しかも二人きりで。
あんな親しげに!
とか。
公園から随分離れてからソフィアはようやく歩く速さを緩めた。とたんに足取りが力ないものに変わる。
とか……じゃなくて。
ジョンの思わぬ姿でどうしてこれほどに動揺するのだろう。そこは分からない。いや一般的には、わたしがジョンを好きだった場合に発生しうる現象では?
ソフィアが真剣に気持ちと向き合った結果、そんな空恐ろしいことを思いつく。
まさか恋愛感情……なんて考えた瞬間、ソフィアはすくみあがった。
「それは困るわ」
思わず声に出してしまう。
なんといってもジョンはあの性格だし、ソフィアは学生だ。おまけに階層も違えば金銭感覚もまったく違う。そもそもジョンを好きになる理由がいまひとつ腑に落ちない。あんな独特のわが道を行く人に恋に落ちるのだろうか、自分が?
ええーまさか!?
では恋愛感情ではないという視点から検証すると?
いや、それでも嫉妬なのかもしれない。あんな変わり者のジョンと付き合えるのは自分とヒューゴくらいだろうという自負があった。それをそうではないのだと示されて、少しがっかりしたのかもしれない。
……これならば説明が付く。意外と自分が器の小さい人間だとわかってしまったことは少し残念だが、彼と友人になって親しくやれるのは自分だけという思い上がりを早めに矯正できたことはよかったのかもしれない。
そうであろうと推測した自分の感情についてはしっくりくるように思えた。なんといっても二回も命がけの事件に関わったのだ。特別な友人だと自分が思い込んでしまっても無理はない。でもジョンにはジョンの世界があるのだ。
納得できる気持ちを引き出して、ソフィアは頷いた。
本当にジョンも特別な友人だとソフィアを考えていてくれるなら、先ほどの女性をそのうち紹介してくれるだろう。あの素っ頓狂な男でも恋人がいて結婚も出来るのだとすれば、世の中と言うのはソフィアが考えるよりも明るく能天気だと言える。
了見の狭い自分を恥じてからソフィアは自分の心情に理解を示した。それは本心とはすこしばかり齟齬があったわけだが、その時のソフィアは気が付かなかった。
……それか、無視したか、だった。
さて、ソフィアは、少しばかり権力を有している自分の友人二人を頼ったが『青髭』ヘンリー・ギャラガーのことはさっぱりわからなかった。困るのは、とにかく預かっている……というか忘れ物の、大きな宝石の指輪である。
そういったものに造詣がないソフィアでも恐ろしい金額であろうことは察することが出来る。下宿に置いておけないので小袋に入れて首から下げ、服の下にしまっているが落としてしまうんじゃないかと落ち着かないことこの上ない。
イヴリンのことは心配だが、それに加えてこの指輪が重荷だ。とにかくギャラガーの屋敷の場所だけでも知りたいと思うが、貧乏学生のソフィアにはなかなかその手段がない。
最後の手段、が頭をちらつく。
この国の謎の権力者様のことである。
王立美術館の受付で呼び出すことが出来れば、彼にとってギャラガー家の住まいの問題はあっさり片付く代物だろう。しかしジョンと違って一応遠慮と言う言葉を知っているソフィアにとっては、個人的な問題で建国王を呼びだすのは『非常識』である。
そんなわけで五日間ほどソフィアは悩んでいたのだが、それは突然動き出し始めた。
思わぬ事件に困惑していたソフィアだが、大学校の授業はもちろんきちんと受けている。課題が終わらず図書室で勉強してから帰宅してみれば、大家のルイス夫人が久しぶりに窓から呼んで来た。下宿の隣に住んでいるルイス夫人はソフィアに用事があるときには帰宅時間を見はからって道路に面した窓辺の前に座ってまちかまえている。
久しぶりにジョンが来たのだろうかと思うソフィアの予想は違った。
「ソフィア、手紙が来たわ」
窓越しにルイス夫人はそれを差し出してくる。手紙を書いてくるような相手はあまりいないソフィアは首を傾げながら差出人を見た。
封筒はぱりっと白く固い美しい紙だった。朱色の封蝋が施され、押された印璽はGというアルファベットを豪華に装飾したように見える。
「今日の夕方に、ギャラガー家の使いと言う方が持ってきたのよ」
ルイス夫人のその言葉と同じタイミングで、ソフィアは差出人の名前を封筒に見つけていた。
「イヴリン!」
「ねえ、ソフィア、ちょっとお茶でも飲んでいかない?」
ルイス夫人も好奇心で目を光らせてそんなことを言い出す。ルイス夫人のお茶に招かれれば高確率で美味しいお菓子もいただける。
「すみません、明日なら大丈夫です!」
心配していた相手からの手紙だ。さすがにまだルイス夫人との世間話には出来ない。ソフィアはルイス夫人に頭を下げると、下宿の建物に入って、階段を二段飛ばしに駆け上がる。まだ真新しい鍵を差し込んで部屋に飛び込むと、まずはペーパーナイフを探し出した。差し入れると良い紙らしくさっと気持ちよく封を開けることが出来た。
中には、花の透かしが入りいい香りのする便箋と、二つ折りの厚紙が入っていた。便箋を取り出して開くと、そこには一度ノートの貸し借りをしたときに見たことがあるイヴリンの字が並んでいた。
こんにちはソフィア
女性らしい優しい文字はそんな言葉を最初につづっていた。
この間は騒がせてしまってごめんなさい。結婚して慣れない生活だったから少し動揺してあんな風に押しかけてしまったの。今はとても幸せよ。なにも心配することはないわ。私の夫は結婚が初めてではなかったから、立派な結婚式は行わなかったのだけど、ちゃんと大事にしてもらっているの。
執拗なまでに己の幸福を語るイヴリンにソフィアは逆に不安を覚えた。本当にこれは彼女の意志で書かれたものなのだろうか。
それで、結婚披露のパーティを行うの。首都からは少し離れているけど、美しい山間の湖にある素敵な別荘よ。ソフィアにはぜひとも出席して欲しくて招待状を添えて出させてもらったわ。お願い、出席してね。エイミーにも同じ手紙を送っているわ。
二人で来てね。
絶対ね。
ソフィアは息を止めて、その部分を五回読み得返した。
本当に、彼女は大学校時代の友人との再会を心待ちにしているのだろうか?
じんわりと困惑が湧き上がる。
イヴリンとはエイミーほどは仲良くなれなかった。力になってあげられたことも少ない。
でも彼女は旧友との再会を楽しみにしているのだろうか。それならば確かに力になってあげたいとは思う。
しかし。
「実際問題として……とても厳しいわ……」
ソフィアはひとりごちた。
数ヶ月前、銀朱原罪論者の犯罪に関わってしまった時、服を二つもダメにしてしまったのだ。それも買いなおさなければならなかったし、ここにきて扉を直したりと出費が続いている。同じような経済環境の相手なら結婚式にも出られるが相手は資産家のギャラガー家だ。みすぼらしい姿で行ったら逆にイヴリンに恥をかかせてしまうかもしれない。
何か売るものはないだろうかと部屋を見回したが、必要最低限以下しかない部屋に余計なものは何もなかった。
ソフィアは自分は質素な暮らしが別に苦にならない。勉強できるだけのお金はある。だからお金が本当に無いということの気苦労を分かっていなかったと思う。金銭のことを考えるのは品がないとすら考えていた。祖父がそういう風にソフィアに教育したともいえる。
でもお金が無ければ助けてあげたい人に手を差し伸べることも出来ないのだ。
ソフィアの脳裏に友人である『とあるお金持ち』の存在が浮かんだが、彼に何かを頼むことの是非がわからなかった。彼はソフィアに対して非常識であるがなぜか好意的だ。でもそれを当然と思うのは誤りである。
ソフィアは深くため息をついた。




