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キスと弾丸  作者: 蒼治
3 伯爵令嬢婚礼事件
38/53

3

 ソフィアは結局翌日、大学校に午前中行くことは出来なかった。壊された扉と鍵の修理を依頼することになったからだ。修理人が来るまで家を出られなかった。ライオネルの置いていった封筒には、扉を十個直してもお釣りがくるほどの大金が入っていたがそれにはソフィアは手をつけなかった。

 得体の知れない金銭に触れるのは嫌だったのだ。


 今まで無遅刻無欠席だったのに、といらだちながら授業を受ける。それが終了したら大慌てでヒューゴの元に向かったのだった。学校を去り際、いつにないソフィアの落ち着かない様子にエイミーは疑問顔だった。

「どうしたの」

「昨日ちょっといろいろあって。少し事態が落ち着いたら話すわ」

「ソフィア、無茶はしないでね」


 エイミーは不安そうにソフィアを気遣う。以前、エイミーがしばらくのあいだ、ポール・テイラーに関する彼女の問題を語ってくれなかったが、その心情が少し分かった。自分でも混乱していることを他人に語るのはとても難しい。


 足早にヒューゴの診療所にたどり着くと、ヒューゴは残り三人、患者を待たせていた。ソフィアはおとなしくその最後に並んで待つ。空は青く風は涼しく、やがて来る夕闇の紺もまだ淡い。

 まるで、昨日の騒ぎが嘘みたいだわ。

 ソフィアはぼんやりと空を見上げて思う。


 いきなり振るわれた暴力も、施しのように投げつけられた大金も、そして攫われた友人も、まるで現実とは思えない。

 イヴリンはどうしてわたしに頼りに来たのか、最初彼女を見たときにそう思った。でも少なくとも暴力だけだって、イヴリンでは対応できないだろう。イヴリンが毎日どんな恐怖と戦っているのかと思うと、胸が痛む。


 イヴリンは儚げで美しかった。ほっそりとした顎と鼻梁、華奢な手足、頬に影を落とす長いまつげ……痩せたことでなおさらその優美さが際立ってきたように思う。けれどその病的に可憐な美しさはソフィアの不安を誘う。


「やあ、お待たせソフィア」

 診療を終えたヒューゴが声をかけてくれた時には、すでに日はすでに落ちきっていた。診療所内に招いたソフィアにヒューゴはお茶を出す。

「ありがとう。急に押しかけてごめんなさい」

「いいんだよ。最近ジョンも来なくって、少し友人と話をしたくなっていた」

 その言葉はソフィアを意気消沈させた。今日の目的はそれだったのだ。

「そうなの……最近ヒューゴもジョンには会っていないのね」

「ジョンに会いたいのかい?」


 ヒューゴは好奇心をむき出しにして尋ね返してきた。ヒューゴの柔らかい瞳の色が、いつになくきらきらしているのをみてソフィアは慌てて否定した。

「ヒューゴが面白がるようなことはないにもないわ。違うのよ、ジョンにちょっと尋ねたいことがあって」

「ジョンに会いに行けばいいじゃないか」

 こともなげにヒューゴは言う。

 その言葉を聴いて、ソフィアは自分がショックを受けているとこに気が付いた。


 わたし、ジョンの住まいを知らない。


 その語りようだとヒューゴはジョンの住まいを知っているようだ。以前ジョンは、ソフィアと連絡を取れる方法を考えると言っていた。それは放置されたままだ。いまだにソフィアはその住所さえ教えてもらっていない。

 なんとなく自分が聞きそびれていたというのもあるが。

 知らないということにショックを受けている自分にもまた驚かされる。どうして切ないような苛立つような、腹立たしい気分なのだろう。それほどに自分にとってジョンの住まいを知らないというのは傷つくべきことなのだろうか。


「……わたし、ジョンの家を知らないから」

「えっ!?」

 ヒューゴのほうがソフィアよりもはっきりと驚いている。

「家の場所、知らないのか」

 ソフィアはヒューゴの驚きように気が引けて、思わず微笑んでしまった。それでヒューゴが何か心配したりするのは本意ではない。

「で、でも、よく考えたら知っていても訪問なんてしないもの。だってジョンは大会社の御曹司でしょう。間違いなく高級住宅街の豪勢なお宅に住んでいるわ。そんなところを訪問するなんて、考えただけでも気疲れしちゃう」

「でも……用事が、今回みたいな至急の用事があったら困るだろう」


 ソフィアは小袋に入れて首から提げているものを考える。

 あの巨大な宝石が付いている指輪だ。


 無くしたら怖い、しかし下宿に置いておくのも怖いということで、こうやって持ち歩いているのだ。ジョンを探していたのもこのためである。

 イヴリンの夫であるヘンリー・ギャラガー。それがいったいどういう人物でどこに住んでいるのかを知りたかったのだ。

 上流階級であるジョンなら知っているのではないだろうかという考えだった。屋敷がわかれば出かけ、指輪と大金を返し、イヴリンと話をさせてもらう。そのつもりだったのだ。


 あと一人、何でも答えてくれそうな人が居るが、その男性を呼び出すのはジョンの数万倍気が引ける。しかしジョンと連絡が取れなければ彼に聞くしかない……。


「私が一緒にジョンの家に行こうか?」

 ……一人よりはいい。だが気が引けることにはかわりない。ジョンの家族がいたら一体どんな顔をしたらいいのかわからないからだ。

「いいのよ、ヒューゴ、自分でなんとかするから」

 もしかしたら学生課か、あるいは意外なところでアンソニー・クイン教授が知っているかもしれない。

「ジョンは以前、君と連絡が取れる方法を用意すると言っていたけどね」

 ヒューゴはしばらく思案してから、デスクに向き直った。小さなメモ用紙を取り出して、短い走り書きをする。


「……もし本当にジョンに用事があるのなら、とりあえずこの喫茶店に言ってみるといい。結構頻繁にここには通っているようだ」

「……また高級そうな喫茶店ね……」

 扉の修理費にこの喫茶店のお茶代。最近異常に支出が多い。このままじゃ破産しちゃうわ、とソフィアは不安になりつつも大事なメモ用紙をしまいこんだ。

「たぶん、ジョンはうっかりしているだけなんだと思うよ。前に会ったときは、これから忙しくなりそうだって言っていたし」


 ヒューゴのその言葉が本物なのか慰めなのかわからない。ソフィアは気がつかれないようにそっと息を吐き出してから、ヒューゴに微笑みかける。

「そんなふうに気を使わなくっていいのよ、ヒューゴ。もともとジョンとはあの連続首切事件の時に出会っただけなんですもの。あの事件は解決したのだから、会う理由もないんだもの」


「だって君達は」

 その後にヒューゴは一瞬言葉をつまらせた。彼が何を言いかけたのかわからない。しかし、ヒューゴの言葉はためらいを捨てて続いた。

「……ちゃんと友達だろう?」

「そうですね」


 そうだけど。


 答えた言葉にソフィアは内心で反論する。そうだけどそうじゃない。自分は貧乏学生で、ジョンは確かに相当な社会不適合者だけど、裕福な生まれでその明晰な頭脳から将来も約束されている。

 通りすがって……友達になったけど、そのあとは。

 別になにも続かなくても途中で断ち切られても何もおかしくないのだ。ちゃんと理性ではわかっていたことを改めて理解してソフィアは……寂しい気持ちを抑えられなかった。


 そういうものだけど、それが嫌だということは、意外とわたし、ジョンを好きだったのね。恋愛感情に至らずとも。


「せっかく教えて頂いたので、ジョンを探しにいってみます」

「そうするといいよ」

 ヒューゴは安心したように言い切った。

 ふとソフィアは、ヒューゴの過去を思い出したのだった。今はこんな貧民街で貧乏医者なんてやっているが、本当は貴族の出だったということを。

「ねえ、ヒューゴ。ヒューゴももしかして上流階級には詳しかったりする?」

「うーん。最新の情報はあまり知らないねえ。もう社交界から離れて随分たつから」

「じゃあ、ギャラガーなんて人の話、知らないわよね」


 だめもとでソフィアが口を出した時だった。ヒューゴの顔色は目に見えて変わった。彼の手は伸ばされ、ソフィアの肩をがっしりと掴む。

「ソフィア、彼と関わりが?」

 急に真剣になったヒューゴにソフィアは面食らう。先ほどまでのんびり話していたのに、急に恐れと不安がヒューゴの顔の前面にでてきたのだ。


「ヒューゴ?」

「君は彼に近付いてはいけないよ」

「近付くって」

 ヒューゴの見たことのない剣幕にソフィアはたじたじだ。

「わたしは別に近付いたりなんてしてないわ」

「じゃあどうして?」

「知人が彼と知り合ったの」

 ライオネルにふるわれた暴力についてはヒューゴに話す気にはなれなかった。ヒューゴを心配させたくないというのが一番だが、ソフィア自身、まだ怖いと感じている出来事であり、『考える』のはそれ自体が恐怖だ。


「知人、とは」

 ソフィアのぼかした発言をヒューゴは遠慮なく責めてくる。

「……大学校を中退した友人がヘンリー・ギャラガーと結婚したの。でも彼女の話だと彼にはあまりよい印象を抱けなくて。少し心配」

「もう彼女は結婚してしまったのかい?」

「確定事項ではあるみたい」

 ヒューゴは深いため息をついた。手遅れか、と呟く。


「問題のある方なの?」

「真実はどうかは知らない。私も彼にはまだ若かった頃に一度会ったきりだ。でも確かにあまり好きになれそうにはなかったな。非常に独善的な雰囲気があった」

 普段、他人をよく言うことは多々あっても、悪く言う言葉など発した事のないヒューゴの人物説明にソフィアも驚く。彼がこう評価するということは、やはりあの暴力的なライオネルの主人だけあって、人格的に難があるとしか思えない。

「その後すぐに私も社交界から離れてしまったから後のことは良くわからない。ただ聞こえてくるのは悪い噂だけだ」

「一体どんな?」

「……私が出会った時、すでに彼は最初の奥様を亡くされていた」


 最初、と言う言葉がひっかかる。ヒューゴはそれを承知しているとばかりに言葉を重ねる。

「彼はその後も何人か妻を変えている。あだ名があるんだ」

「どんな?」

 ヒューゴは嫌な言葉だとばかりに短く答える。


「『青髭』」

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