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キスと弾丸  作者: 蒼治
3 伯爵令嬢婚礼事件
37/53

2

 夕方までかかった片付け作業だったが、目に見えて結果が出て学生は満足だった。アンソニーも勝手に好きなだけ動かして!とぶつぶつ言っていたが、実際積み上げられていた書籍が目に見えて探しやすくなって、その声は小声になった。

 お礼なんかじゃないが、貧乏な学生に夕食を奢るのも、教授としての役目ではないかと考える、とか長ったらしい言い訳をすると、彼は九人のゼミ生を引き連れて、大学校近くの食堂に連れて行ってくれたのだ。


 アンソニーはこの店の常連だったらしいが、だからこそ、その店の主人は驚きで集団から目を離せないようだった。

 いつも一人でやってきて店主と会話することもなくぶっきらぼうに注文して無言で食べ終わるとさっさと帰っていくアンソニーが、まさかこれほどぞろぞろ連れてこようとは!

「と、いう顔をしているわ」

 エイミーは冷静に店主の内心を当ててきた。


「でしょうね」

 アンソニーもけしてご機嫌と言うわけではないが、こんなことをした時点で相当上機嫌なのであろう。

 ありがたく全員でご馳走になったあと、そこで解散となった。いくつかの方向に別れ、散って行く頃には日は落ちきっていた。

 ソフィアはエイミーと二人、明るい道を選んで歩く。シナバーのソフィアが一緒である以上、そうそうの危険はないだろうが、事件には近づかないに限る。


「そういえばクイン教授から聞いたんだけど、イヴリン、結婚するんですって」

「えっ。そうなの」

 エイミーも驚きに溢れた声を上げる。

「学校をやめるときにはそんなこと言っていなかったのに」

「言えなかったのかも知れないわね。あまり友達としてできたこともないし」

「ソフィアは後悔しているの?」

 まるで自分自身の後悔を問うようにエイミーは言う。ソフィアはいいえとはっきり答えた。


「後悔してもしかたないから。何か支援できたわけじゃないし。話相手にもなれなかったことを悔いるにも時間が足りなかったと思う。もともとイヴリンはあまり自分のことをしゃべる感じでもなかったでしょう。でも」

 ソフィアはそれから言い直した。

「……でも後悔かもしれない。もっと何か出来たんじゃないかって、漠然と」

「私もよ」

 エイミーも頷く。


「でも、もしかしたら幸せな結婚かもしれないじゃない。学校を辞めたのは残念だけど、その後に素敵な人と出会って結婚になるのなら、いい話だわ」

「そうね。事情も分からないんだから。終わりよければ全てよしって言葉もある」

 ただ、彼女の顔にあった殴られた痣は、今も幻影のようにソフィアの目にちらちらと映っていた。


 エイミーの下宿先の前で別れ、ソフィアは自宅に向かってさらに足を進めた。今のところ試験は先だし、たまっているレポートもない。少しだけ心に余裕がある。その余裕のおかげで気が付いた。


 そういえば、ここ二週間くらい、ジョンに会っていないわ。


 主にジョンがソフィアの下宿を訪問する形で(あるいは押しかけるとも言う)、顔を合わせていたのだが、ここしばらく姿を見ない。ジョンと連絡する手段をソフィアは持っていないので、彼が顔出さなければそれまでだ。以前はうっとおしいくらいソフィアのところに来ていたのに、いったいどうしたことだろう。


 自宅である下宿にたどり着いても、今日のルイス夫人の部屋は静かであり、ソフィアを呼び止める声はなさそうだった。

 ところが。

 下宿の扉を開け、狭く、そして軋む階段を上ろうとした始めた時だった。背後から呼び止められた。

 切羽詰った、若い女性の声。そしてどんとぶつかるようにして背後から抱きしめられた。

「……イヴリン?!」

 そこにいてソフィアの腰に両手を回して抱きついてきたのは、ほんのわずかな間、同級生だった女性だ。


「助けて……!」

 イヴリンは、ソフィアを見上げ、怯えた声で懇願してきた。


「イヴリン、一体どうしたの」

「お願い。追われているの。ちょっとの間でいいから、うちに入れて」

「いいけど……」

 ソフィアはイヴリンの手を放して、そっと扉を閉めた。閉める前、少しだけあたりを見回してみたが、人影はない。別にそこまで気を張る必要は無いかもしれないが、階段の軋む音にすら気をつかって、二人はソフィアの下宿の部屋に入った。ソフィアは部屋の明かりであるいくつかの蝋燭をつける。壁に映ったイヴリンの影が頼りなく揺れた。


 イヴリンは椅子に優雅な仕草で腰掛ける。ソフィアはベッドに腰を下ろして向き合った。あまり親しくなれなかった彼女が家にいることが不思議だ。

 薄暗い部屋だが、イヴリンをまじまじと観察する。

 学生だった時からは想像もできないような変容を遂げていた。声を先に聞かなければ誰だかわからなかったかもしれない。

 イヴリンは、高級そうな紫の朱子織のドレスを着ていた。たっぷりとひだを取り、あちこちに使われているレースは触れることが怖いくらいに繊細だ。固く結ばれていた三つ編みは、ゆったりと結い上げられ、珊瑚と真珠の髪飾りで留められていた。


 どこからどう見ても裕福な家庭の夫人である。けれど、やはりそこに異常なのが、彼女の左手の甲に巻かれた包帯と、右目の眼帯だった。

「……あ、あの、イヴリン、その怪我は」

 彼女は固い表情でさっとソフィアから顔をそらした。

「なんでもないの」

 いつかと同じだと思う。あの学校を辞めるとき、イヴリンが言った事と同じ。あの時ソフィアは、それ以上聞けなかった。


 今は?


「なんでもないわけないじゃない」

 ソフィアは強い口調でさらに尋ねた。

 そう、イヴリンが拒絶したからと言って、そこで言葉を留めてしまったことをソフィアは悔いていた。

「普通にしていたら、そんなふうに頻繁に怪我なんてしない。あなた、学生の頃からいつもどこかに怪我していたじゃない。どうして?」

 ソフィアに畳み掛けられてもイヴリンはしばらく口を開かなかった。気まずい沈黙が部屋に満ちる。


「イヴリン、わたしじゃ何も力になれないかも知れないけど、事情を知っている人間がいるということは少しだけ心強いことじゃないかしら」

 ようやくイヴリンはソフィアを見た。淡い灰色の瞳が頼りなく揺れている。

「……私、結婚するの」

「そう、けっこ……結婚!」

 ソフィアは思わず叫んでしまった。昼間アンソニー・クインから噂話として聞いてはいたが、実際本人の口から聞くと驚きが大きい。自分と同じ年の娘が結婚しているというのは、ソフィアにとってまるで異次元だ。

 イヴリンの左手の薬指に光っているのは、巨大な宝石が付いた指輪だった。


「もうすぐギャラガーになるわ。イヴリン・ギャラガーに」

「そう、旦那様は……えっと、どんな方?」

 ソフィアの問いにイヴリンは曖昧に微笑むだけだ。ソフィアもその質問の間抜け加減に気がつき、自分に嫌気が差す。

 優しくてまともな人間だったら、イヴリンが今ここに居るわけがないのだ。

「逃げてきてしまったの」

 イヴリンはぽつりと呟いた。ソフィアは一度静かに大きく息を吸った。聞くといったのは自分だ。

「どうして?」


 イヴリンはそっと眼帯を外す。黒ビロードのなめらかな生地に大小のビーズで花が装飾された美しい眼帯の下には腫れ上がって赤く充血した目が合った。その無残な様子にソフィアもおもわず唇を噛み締める。

「殴るのね」

 イヴリンは小さく頷いた。

「結婚しないとか……最悪でも離縁とかはできないの?」

 女性側からの離縁が難しいことは知っている。けれどここまで暴力が酷ければ何か手段があるのではないだろうか。


「夫のヘンリーは、私の両親に莫大な結納金を払っているの。それを返せといわれるに決まっているから。両親はきっと返金するくらいなら私にヘンリーのところに戻れと言うわ」

 ソフィアは彼女の怪我が、学生時代からだったことを思い出した。当時の怪我は夫ではなく、別の家族からのものだったのだろうか。


「だから逃げようかと」

 イヴリンの小さな鞄は、必死で選んだ荷物であろうと分かった。

「ルヴァリスに小さな修道院があって、そこは理由あって逃げ込んできた女性をかくまってくれると聞いたわ」

「ルヴァリスは遠いわ……」

「でも逃げたいの。お願い、ソフィア。駅まででいいから、明日一緒に来て」

「……ええ、行くわ」


 イヴリンはギャラガー家に引き戻されることを恐れている。ソフィアなら、力勝負になってもそうそう負けはしないはずだが。

 その時だった。すでに日が落ち、人の往来も少なくなった道路を馬車が駆けてくる激しい音がした。イヴリンが不安そうに表情をこわばらせる。

 大丈夫よ、そう言いかけてソフィアは口を閉ざした。馬車はソフィアの下宿の前で止まったのだった。


 カーテンの隙間からソフィアが外の様子をうかがった時には、馬車から降りてくる人影を見つけた。次の瞬間ソフィアの下宿の一階の扉が激しく叩かれた。ソフィアはとっさに蝋燭を消す。二人で身動きも出来ず息を殺していると抗議じみたノックの音はやんだ。緊張感を途切れさせたソフィアが息を吐き出した時だ。

 バキバキと音を立てて、何かが壊れる音が階段の下から聞こえる。そんなに容易く壊れるものではないはずだが、壊れたのは下宿の入り口の鍵部分だろうと分かる。


「まさか!」

 ソフィアは叫んで自室の扉に飛びついたが一瞬遅かった。そのノブまで破壊され、乱暴に扉が開きソフィアは吹っ飛ばされた。床にしりもちをついたソフィアは、その相手を見上げることになった。

「……シナバー」

 ソフィアはこれまで何度か感じ取ったことのある気配をその男から得た。

 男は三十歳そこそこのようだった。黒い髪の毛を艶光りする整髪料ですべて背後に流していた。どちらかといえば整った顔立ちだが、彼の表情は険しく親しみは一切感じられない。だがそんなことよりソフィアが驚かされたのは彼がシナバーだということだ。


「困ります、奥様」

 ソフィアを完全に無視して、男はイヴリンに話しかける。

「勝手にお出かけになられては。奥様にそれほど友人は多くなくご実家には帰らないだろうということで探しましたが、ここまでくるのに三件です。我々を疲れさせないでください。旦那様も心配しておられます」

「帰りたくないのです!」


 イヴリンは強い口調だった。小娘の戯言と思っているのが明らかなため息をついて、シナバーの男はソフィアの前を通り抜け、イヴリンの腕を掴んだ。

「ライオネル、やめて!」

 イヴリンの口調には苛立ちが見えていた。随分年上の男にその口調と言うことは、このライオネルと言うシナバーはイヴリンの護衛か何かなのだろう。もしかしたら監視かもしれない。そしてそういった人物をつけられるということはギャラガー家というのはかなりの資産家なのであろう。

 ソフィアは察しをつけて立ち上がった。


「あの、ライオネルさん」

 ソフィアは今にもイヴリンを引きずって出て行こうとする彼の前に立ちふさがった。

「わたし、イヴリンの友人のソフィアと申します。彼女はちょっと今夜は帰りたくないと言ってます。それを無理につれて帰ってもと思うのです。一晩くらいここに泊まってもよろしいのではないでしょうか」

 ライオネルはソフィアをじろじろと眺めた。

「こちらの事情です、お騒がせを」

 取り付くしまもないそっけない口調で言うとライオネルはイヴリンの肩を抱きこんだ。愛情の表現としてでも守るためでもない。ただ逃がさないという態度だ。


「ソフィア」

 イヴリンが涙を目にためているのに気が付いたのはその時だ。こぼさないまま、瞳の中で水の膜が窓越しの町の光を受けて揺らめいた。

「ちょっと待ってください!」

 ……イヴリンは、エイミーとは違う。友人とすら言えなかった。そういった相手にどこまで首を突っ込んでいいかは分かりかねる。もしかしたら余計なお世話なのかもしれない。でも嫌がっている彼女が連れて行かれるのをそのまま見送ることはソフィアにはできなかったのだ。


 ソフィアはライオネルの肩をつかんだ。そのとたん。


 何が起きたのかソフィアには分からなかった。ただ、自分がふっとんで、先ほどまでイヴリンが座っていた椅子にぶつかり、思い切り床に倒れ伏したのが、一瞬後に事実としてあっただけだった。

「……あ?……ッ……」

 肩と腰を思い切り打ち付けてソフィアはじわじわと鈍痛が湧き上がってくるのを理解した。

「ソフィア!」

 イヴリンが金切り声を上げる。

「君はシナバーだな」

 ライオネルが凍りつく冷たい視線をソフィアに落としていた。


「普通の男ならば君の敵ではないだろう。だが私はシナバーの男で、相手をねじ伏せる特殊な技術も習得している。君の敵ではない」

 元は軍隊にでも所属していたのだろう。圧倒的な格闘技術で振り払われたのだとわかってソフィアは立ち上がることもできない。

「ソフィア、ごめんね!ごめんなさい!」

 イヴリンが振り返りながら連れて行かれる。ソフィアでも一瞬で叩きのめされた相手だ。イヴリンに逃れる手段は無い。ソフィアも人生で初めて受けたシナバーの高い攻撃能力に心の方に衝撃を受けて立ち上がれなかった。


「これでドアの修理をしてください。本当にお騒がせを」

 彼らが出て行く瞬間、ライオネルはソフィアの部屋の床に封筒を投げつけた。けれどそんなも放置してしまうほど、ソフィアは身動きでない。

 乱暴に扉が閉まり、階段を下りていく足音が聞こえる。下宿の入り口の馬車が動き始める音がするまでそれほど時間はかからなかった。


 これほどに、シナバーとは強いのか。


 今まで戦ったのはただ一人。マデリーン・レノルズ。でも彼女は怪物に変容していた。そんなことをしなくてもシナバーは素早さも攻撃力も人間とは桁違いなのだと、ライオネルの暴力によって思い知った。

 ソフィアは自分の手が震えていることに気がつく。

 ライオネルというシナバーはソフィアがはじめてであった圧倒的な強者だった。彼に対抗できないということが、そしてたとえシナバーであったとしても女性に手加減をしない存在がいるということが、恐怖に近い負の感情を呼び起こさせた。


 ぎゅっと両手を合わせて握り締める。震えはまだ収まらない。

 と、ソフィアは自分の投げ出されたつま先が何かを蹴飛ばしたことに気が付いた。床を二、三回転して転がったのは、あの美しい石がついた指輪だった。

「……イヴリン?」

 イヴリンの忘れ物だと気が付く。それがうっかりだとは思えなかった。しっかり指にはまっていたものが床に落ちるなんて考えにくい。


 ……情けない。

 わたし、情けない。

 床に手を伸ばし、ソフィアはその豪華な指輪を手の中に収めた。ソフィアは両手を拳に変えて震えを止めようとする。

 ライオネルの一撃で戦意消失してしまったけど、イヴリンはこんな思いを毎日していたというのか。そうでなければあんな怪我なんてするわけがない。一瞬で戦えなくなってしまったソフィアを見ながらも、イヴリンはこれを残していった。

 イヴリンはまだソフィアの助けを必要としているのではないだろうか。そんなふうに思えてならないのだ。


「ソフィア!?」

 呼び声はばたばたと階段を駆け上げる声によってかき消された。大家であるルイス夫人が部屋に飛び込んできたのだった。へたりこんでいるソフィアを見てきゃあと叫ぶ。

「どうしたのソフィア!なんだか騒々しいと思ったら!扉まで大変なことになって!」

 なんでもないとは言えず、ソフィアは無言でルイス夫人を見た。ルイス夫人は膝をついてソフィアの前にかがみこんだ。指輪を握り締めたまま、ソフィアは声を絞った。


「……、怖かった…………!」


 情けなくもそれが本音だったのだ。

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