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イヴリン・ゴールドベリが医科大学校を去るとき、彼女の右の頬骨には青黒い痣が出来ていた。
明らかに殴られてできたものと分かるその痕に、ソフィアもエイミーも衝撃を受けて思わず立ち尽くした。
「私、学校を辞めるの」
イヴリンはぎゅっと唇を噛み締めた。うつむき加減の表情からは瞳に宿るはずの光を見ることは出来ない。
ソフィア・ブレイク、エイミー・グリーン、そしてイヴリン・ゴールドベリは大アルビオン連合王国国立医科大学校の女学生の第一期生として入学した。ソフィアとエイミーはすぐに親しくなったが、イヴリンとはそこまで仲良くなれなかった。時おり昼食を一緒にしたり、学内であれば挨拶くらいは交わすが、なかなかエイミーほど話が出来る関係にはなれなかった。
イヴリンは口数も少なく、あまり語らず、そもそも人付き合いを苦手としているようだった。ソフィア達とも積極的に関わったりしない。もっと時間があれば、友人として親しく慣れるかもとも思っていた矢先の告白だった。
それはまだ、ソフィアがジョンと出会う前の出来事であった。
「どうして?」
「まだ、はじまったばかりなのに」
珍しく校内でイヴリンから声をかけてきたと思えば、そんな告白で、二人はあっけに取られて質問攻めにしてしまう。
イヴリンは燃え上がるように華やかな赤毛の持ち主だが、それは意固地なほどきつく結んだ三つ編みになっていた。いつもうつむき加減で表情や顔立ちも正直分かっていない。
「恥ずかしい話だけど金銭の不足なの。入学したときは良かったんだけど、事情が変わったの。来年度の奨学金選考を受けるまで、学内にいられないわ」
イヴリンの試験結果はちょうど中位くらいであったと思い出す。
「でも、せっかく入ったのに……!」
親しくなるにはまだ時間が足りなかったが、数少ない女子生徒である。これからも一緒に助け合っていけたらと思っていたのだ。
イヴリンはそこでようやく顔を上げた。
「仕方ないのよ」
そういわれてしまえば、ソフィアにもエイミーにもできることはない
「仕方ない」
イヴリンは首を横に振った。そこに深い諦観を感じ取ってソフィアは戸惑う。戸惑いは疑問に繋がった。問うて言いことなのか疑問に思いながら口にした。
「……イヴリン、その顔の怪我はどうしたの」
イヴリンの返答は滑らかで澱みなかった。
「気にしないで。階段から落ちたの」
嘘だと分かった。
イヴリンが誰かからの暴力を隠すのも、学校を辞めなければならないのも、すべてに何か理不尽なものを感じ取る。でもどうしたらいいのかはわからない。
「さよなら。二人とも元気でね」
イヴリンはそっと微笑んだ。
それはもう随分の話だ。
それから、ソフィアは変人ジョン・スミスと出会い、『怪物』と戦い、首都アーソニアでは小さな教会が爆発した。
ソフィアが大学に進んで三年近くが立とうとしていた。毎年、休暇は故郷に戻って親族に会って来た。今年もそうして戻ってくれば夏の盛りの太陽は終わり、ひやりとした空気を早朝に感じ取れる季節になってきている。一人、故郷を離れての都会生活にも慣れてきた。
大きな事件に二つも巻き込まれ、一体何が起きているのだろうと思うような日々だったが、ここしばらく何事もない。首都もソフィアにも。
「よくないと思うんです!」
何か起きているのはエイミーだ。
いつも穏やかで、めったに声を荒げない彼女が、『彼』の前に立ち、頬を紅潮させて懸命に主張している。
場所は医科大学校研究棟、もっと詳しく言うならば、あの「医科大学校の歩く不機嫌、アンソニー・クイン教授の研究室」である。
彼らが関わることになった首都の大事件以来、どういうわけかエイミーはアンソニーに懐いた。いつもアンソニーは渋い顔をしているが、エイミーはお構い無しで、世間話をするためにこの研究室を訪れる。しかめっつらのアンソニーの不思議な点は、邪魔だ、迷惑だ、やかましい、といいつつも、エイミーを本気で追っ払おうとはしないことである。
エイミーを心配してソフィアがついてきた。好奇心に駆られた同じゼミの男子生徒も少しずつ顔を出すようになった。試験や授業に一切手心を加えない彼の鬼畜加減は何も変わらないが、馴染んできたと言っていいだろう。
そんなわけで、今日は、研究棟の中でも比較的広い方であるクイン教授の研究室は生徒で騒がしい。
これが、エイミーが発狂する原因ではない。たとえ、生徒のほとんどが立って語り、椅子やテーブルが本に占領されている状況だとしても。エイミーが怒ったのはしいて言うなら、そう、避けられない不測の事態のせいだ。
書物の隙間から、黒く素早くいざとなれば飛べるあの不気味な虫がかさかさと走り抜けていったのが原因である。
「良くないです!こんな風に散らかっているから、あんな不気味な生き物が!」
見たことのないエイミーの剣幕に、アンソニーもなぜかいつもの勢いで返すことができない。
「こんな汚い部屋で寝泊りしていたら教授が病気になりますよ!」
アンソニー・クインは事情があって家を持たない。寝泊りや食事は全てこの研究棟で過ごしている。だからこそエイミーの激怒には説得力があった。
アンソニーにとって運が悪かったのは、今日は午後の授業で一件休講が出たということだ。試験期間はまだまだ先。そして今は過ごしやすい秋の午前中である。なおさら不運。
ソフィア達はそんなわけでアンソニーの研究室の片付けの手伝いをすることになった。本棚から溢れ、ごちゃごちゃと積み上げられている書物を部屋の隅にとりあえず積み重ねる。空いたスペースからようやく見えた床を借りてきたほうきで掃く。本棚の棚板の厚く積もった埃をふき取る。
それを眺め、デスクの前の椅子に不機嫌な顔で座り、この部屋の主人は語る。
「私の研究の邪魔だ」
「クイン教授は図書室に行っていてくれませんかね」
本を運んでいる男子生徒までそんなことを言い出した。アンソニー・クインは辛辣で、性格が捻じ曲がっている暴言を放つが、言われたことをあまり根に持ったりしないのだ。それはアンソニーにいつも話しかけていたエイミーが発見して、瞬く間にゼミに広がった真実である。
エイミーが居なければ、こんな風にゼミの生徒がここに集まることもなかったわけで、エイミーと言うのはすごい力を持っているなとソフィアは感心せずにはいられない。エイミーの物怖じしない態度というのは時に予想もしない未来を導く。
ちなみにゼミの中ではエイミーは、猛獣使いと呼ばれている。むろんエイミーとアンソニーという当事者は知らない。
「ふん、そんなことをしても成績に手心など加えんからな」
「手心加えるまでもない成績をとればいいんでしょう」
「お前にできるのかよ」
「どうかな」
男子生徒たちもげらげらと笑いながらそんな冗談を言い合っている。本の埃を軽く拭い、呼びつけたアンソニーに指示をもらいながら、本を一定のルールに従って並べていく。無秩序の時には入りきらなかった本のうち、三分の一が、書棚に並び始めるのを見ると、さすがのアンソニーも物理法則について思案せずには居られないようだ。棚の前で首をかしげている。
「片付ければ入るのねえ……」
ぴしりと背表紙を見せて並ぶ書物を眺めながらソフィアは感心する。そのソフィアはたっぷり埃が積もったソファを拭いていた。ソファの上に、みすぼらしい濡れ犬のように丸められているのは、アンソニー就寝用の毛布である。
この毛布も絶対洗ったほうがいいと思うけど、換えも無いようだし、できるのはまだ先ね……早朝からやれば冬になる前に洗えるかしら。
ソフィアはそんなことを考え、毛布は持ち出した中庭で叩くだけにした。
いよいよ、掃除の大本命、白熊の剥製『ナヴィガトリア嬢』の拭き掃除である。さすがにずうずうしい若者達も「やりたい、しかし壊したら殺される」と葛藤している。彼らを置いてソフィアは大学校の中庭にでた。清々しい快晴が広がっている。
と、後ろから近寄ってくる足音がした。振り返ってみれば、やってきたのはアンソニーだった。
「毛布の片側を持とう」
「大丈夫ですよ。でもどうしたんですか」
「あんなやかましくては論文を読むどころではない」
エイミーはきびきびと散らかり放題のアンソニーの部屋を片付けるべく指揮を取っている。
四隅を二人で分け合って持って、大きく振ると毛布からもうもうと埃が舞い上がる。
「……こちらに住んでいるとうかがいましたが、まさにそんな感じですね」
ソフィアの発言にアンソニーはその大きなぎょろりとした目を向けた。
「そういう余計なことを言うのは、ロバートだな」
しまった、うっかり余計なことを口走ってしまった。
「……だからエイミー・グリーンは、私の食事にうるさいのか」
「なにか言われているんですか?」
今度は無言で睨まれる。
エイミーがアンソニー・クイン教授の生活に口を挟んでくるのは、間違いなく彼を心配しているからだ。それが優しい彼女の親切心であるものが、もっと他意があるのかは分かりにくい。
エイミー自身もわかっていないのかもしれない。
「……あの事件のとき」
話を逸らしたくなったのか、アンソニーは別のことを持ち出した。あの事件が何を示すのかは明白である。
「君の友人も居ただろう」
「……ジョンのことですか」
「金髪のハンサム君だ」
まあジョンだろうと思う。はなはだ遺憾であるが、ジョンは確かにハンサムなのである。
「ええ、友人が居ました」
本当に友人なのか、という顔でアンソニーは一瞬押し黙ったが、もともとあまり生徒の……そもそも自分自身も含めてすべての人類の恋のときめきになど興味のないと思われるアンソニーは、淡々と話を続ける。
「あれは、ジャス製薬の御子息ではないだろうか」
ソフィアは埃を払い終わった毛布を畳む手を止めた。
「何かのパーティで出会った。彼の両親であるジャス製薬の社長夫妻にも」
それは一体どんな種類の人間なんでしょうかと、おもわず襟首掴んで問うてみたい話である。あのジョンのご両親の人格はぜひ知りたい。
一応好奇心をむき出しにするのは諦めて、ソフィアは礼儀正しく聞いてみる。
「ご存知なんですか。どんな方々でした?」
「普通だった」
普通!どんな風に!
いっそうかき立てられたソフィアはアンソニーを見つめる。
「普通に、結婚しない息子を嘆いていた」
アンソニーの言葉にソフィアは一瞬あっけにとられてしまう。少しだけ遅れて、なるほどと納得した。ジョンはソフィアよりいくらか年上で、確か二十代も半ばになるだろう。いくら男性とはいえ少し遅い。大企業の後継者となれば、親族も彼の婚礼を待ちわびていたっておかしくない。
「……それでだ」
アンソニーは咳払いをした。気まずそうにぼそぼそっと小さな声で言う。聞き取れずにソフィアが首をかしげると、アンソニーは先ほどより少し明瞭な声で言う。
「君は、大学校をやめたりする予定はあるのかね」
「はあ?」
教授の研究室を襲撃し、勝手に掃除をしている無礼千万な学生の一人であるソフィアは、思い切り尊敬の念に欠いた返事を返してしまう。
「……なんで、わたしが?」
思わずアンソニーの新手の嫌味かと思って真顔になってしまう。
「君が結婚するのではないかと。いや、それはそれで女性としての幸せかもしれないが、優秀な学生が居なくなってしまうのは実に惜しい」
「どうしてわたしが結婚なんて話題が!」
唖然とするソフィアの反応が信じられないとばかりに今度はアンソニーが唖然とする。こんなこと、朴念仁の私だってわかるという顔をして尋ねてくる。
「ジャス製薬は、大企業だ」
「わたしはジャス製薬とは関係ありませんよ?」
言い切ってからようやくアンソニーの言わんとすることがわかる。
「……最初に申し上げましたが、ジョン・スミスは『友人』です」
「……なるほど」
断言したソフィアにアンソニーは微妙な顔で同意を示す。
「いや、失礼なことを言った。そうだな、君にはまったく男性の影も色っぽさも感じられない。やはり君は学問に生きるべきだ。今はまったく頼りないひよっこで見ていて頭が痛くなるが、非常に未来を感じられる。大丈夫だ、家庭などなくてもなんとか生きていける」
どっちにしても発言が失礼だ、とソフィアは内心で憤るが、次のアンソニーの言葉でそれは吹き飛んだ。
「イヴリン・ゴールドベリのように、さっさと結婚とか、君らしくない」
え、とソフィアは目を丸くした。
「イヴリン、結婚するんですか!?」
「私も先ほど、学生課の人間が噂話をしているのを耳にしたばかりだ」
「もうやめた学生なのに、学生課で噂が?」
ソフィアが首をかしげると、アンソニーは肩をすくめた。
「意外と大学校の教授陣は上流階級に繋がっているし、そういった噂を仕入れる社交性にも飛んでいる。そもそもゴールドベリは貴族だが、君は知らなかったのかね。まあ私もすべて聞いた訳ではないからな。君とエイミーは同級生だっただろう?なんとなく言ってみただけだ」
貴族!
ソフィアは目を丸くする。どうしてそんな御令嬢がこんな学校でわずかな間とはいえ、メスを片手に解剖にいそしんでいたのか謎が深まる。
「退学してから全然ご縁はなかったのですが……お住まいの場所は聞いているので、手紙でも書いてみます」
一緒に学んでいた時、何も出来なかったという後ろめたさから、ソフィアはそう答えた。
「ソフィア!クイン教授!」
大きな声で二人を呼んだのは、研究室の窓から身を乗り出しているエイミーだった。
「休憩にしましょう!お茶を入れたわ。どういうわけか、本棚の奥からティーカップが十個も出てきたの」
ソフィアはまじまじとアンソニーを見る。
「どうしてそんなにティーカップが?」
まさかこの教授が人を招く準備をしていたとはとても思えない。
「ティーカップ」
初めて聞く言葉のようにアンソニーがぼんやりと記憶をたどって呟くのを聞いて、だめだこれは、と予感する。アンソニーはややあってからしみじみと言った。
「あの研究室も、謎だらけだな」




