17
数日後、ソフィアは大学校から帰る途中、驚くべき人間と会った。
やあ、と道路に立ってソフィアに爽やかに手を上げたのはアーサーであった。そのままアーサーは近くの高級喫茶店にソフィアを連れて行った。
昼であっても店のあちこちにほんのりとよい香りを発する蝋燭が灯されていた。品のよい身なりの女主人と、きびきびと動く若い男性が店を回している。もともと静かな店だが、そのさらに奥まった半個室にアーサーはソフィアを案内した。
ソフィアに紅茶を、自分に発泡性のワインを頼むと、アーサーは気後れなど考えたこともないというようなくつろいだ仕草で向かいのソフィアを見る。ソフィアはあまりにも場違いな場所にあたりを好奇心で見回すこともできず、置かれた紅茶を見ていた。
「私は今日、君に何を言うべきか悩んでいるのだ」
アーサーの言葉にようやく顔を上げられる。
「君は私の善良な忠告を受け取るつもりはないのだな」
「……?」
本気で分からずソフィアは首をかしげる。その動作にアーサーはため息をつく。おそらく無意識のものではない。ソフィアに反省を促すための妙にわざとらしいものだった。
「胸に穴が開いたそうじゃないか」
「あ」
そういえば、アーサーに深入りするなと言われていた。
「別に開けたくて開けたわけじゃ」
「開けたい人間などいないだろう」
とはいえ、とアーサーは穏やかな表情になって続ける。
「ただ、君のその潔癖さと言うのは嫌いではない。短絡的で刹那的な行動ではあっても、自分の正しいと信じることのために行動することは大切だ。ルヴァリス公の件も、ポール・テイラーの件も」
「別にポールはわたしの命に関わるような相手では……」
「ソフィア、敵は作らないに限るよ」
アーサーは微笑む。
……あれ?
ソフィアはふと、つじつまが合わないことに気がついた。
ロバートのことは、あれだけ大事になった上、ジョンを巻き込んだ騒ぎになっている。だからアーサーが最後にソフィアの負った怪我について知っているのはおかしくない。だがポールの件はジョンにも……ヒューゴにすら話していない。
ジョンも知らないはずだ。知っていたら間違いなく文句を言ってきただろう。
「……アーサー、どうしてポールのことを知っているの?」
アーサーが一瞬真顔になったのをソフィアは見逃さなかった。
「……ジョンに話しただろう?」
「話していないわ」
「……君は恋人に、他の男性との揉め事すら相談しないのかい?」
ソフィアは思い切り深いため息をついた。
「ジョンは恋人じゃないし、他の男性との揉め事、とか言うとなんだかいかがわしいからやめてください。で、どうしてジョンも知らないことをご存知なのですか?」
アーサーは知ろうと思えば多くのことを知ることができる立場にあるのは間違いない。だが、彼自身があえてソフィアのことを知ろうと望むようにも思えなかった。
アーサーは一瞬目を泳がせたあと、いつものも穏やかな微笑を浮かべた。どうもそれでごまかそうをしていたらしいが、ソフィアの厳しい視線にやがて、降参、と小さく呟いた。
「ジョンから頼まれたのだ」
アーサーは、ばれてしまっては仕方ないとばかりに開き直ってはっきりした口調で言った。
「……は?」
ソフィアは先ほどの詰め寄った勢いを一気に失ってそんな間抜けな声を上げた。
「ジョン?」
「そう」
アーサーは目の前のフルートグラスで立ち上がる細かく柔らかな泡に視線を落とす。彼の中で沸き起こっている様々な感情を思い起こすように。
「君がパトリックに矢で射られて大怪我した日があっただろう?ジョンは一度君のそばを離れたはずだ。私に会いに来ていたんだよ」
「あなたに依頼を?」
「君がジョンの言葉を聞かないということを彼自身は明確にわかっていたようだ。そして君があえなく怪我を負わされるような相手に彼自身の力は及ばないだろう言うこともわかっている。シナバーを守れるのはシナバーだけだと考えたのだろう。王立美術館にやってきて私を呼び出したのだよ」
「それで、あなたが出てくることに」
まさか。まさか、建国王に身辺警護をさせるなんて、ジョンもジョンだが、わたしも一体何様なのか……。
真剣に頭痛が起きそうな事態である。いまさら王権は神授であるとか、そんな寝ぼけたことを考えるよう時代でもないが、現代の王室はそれなりに国民の敬意を受けている。その始祖に対して自分はとんでもないことをさせてしまった。
ソフィアとエイミー、そしてポールに関わる揉め事は、ソフィアの警護に当たることで知ったか調べたかしたのだろう。
「あの」
「申し訳ありません、とかつまらない謝罪なら結構だ、お嬢さん」
女性を謝らせるなど私の趣味ではないのだよ、と気取った様子でアーサーは言う。彼のそういった表情は確かに気障ではあるものの、不快感は覚えない。本当に、彼はこういう仕草が似合う男前なのだなと痛感するだけだ。
「えっと、ありがとうございます」
「どういたしまして。謝罪なんかより感謝のほうがよほど価値がある。しかも君のように美しいお嬢さんから頂戴するなら大歓迎だ」
この人は、現役時代は相当女たらしだったのではとソフィアは勘ぐる。いや、今がそうではないという確信などないのだ。三百歳でも、男女関係に積極的な男性はきっといるのだろう。老いてなお現役、という便利な言葉もあることだし。
「エイミー・グリーンが君の下宿にいただろう?」
真面目な顔になってアーサーは語る。
「少しだけ困った。君は彼女には自分の困難は言うまいと思ってね。君が言わないものを私が言うわけにはいかない。ならば彼女には『何かが起きている』ということそのものを悟らせるわけにもいかないからね。もしも、ルヴァリス公爵がエイミーに手を出したら本当に面倒なことになるなと思ったが、彼はそこまで下衆ではなかったようだ」
下衆だなんて。
ソフィアは首を小さく横に振った。それはとても深い悲しみをソフィアに呼び起こす。
ロバート・メリベルが本当にクズであれば良かった。でも彼は、妹を女衒に売り渡す算段をしていたそれこそ下衆な男を消した。身寄りがなく気の毒なキャスを何とかしたいと思う善良な司祭を味方につけている。善良な司祭は、心の底から世界を変えたいと願っている。
彼を表現するにもっともふさわしい言葉は、高潔以外にないようにすら思う。
「ソフィア」
物思いに沈んでいたソフィアはアーサーの声で顔を上げた。彼は手馴れた仕草でグラスを傾けていた。洗練された姿にソフィアも思わず感心する。
「人は人を殺してはいけないんだよ」
老人が幼子に説く優しい言葉でアーサーはロバートを糾弾していた。まるでソフィアの煩悶がわかっているようだった。
「大義があっても殺人を正当化する理由にしてはいけない。誰も大義なんかのために死にたくはないだろうから」
ああそうか。
ソフィアはうつむいて紅茶を飲んだ。無言を持たせるための行動だ。
アーサーはその愚かさと惨めさを最もよくわかっている人だったのだ。彼も大義のために殺戮を繰り返した過去を持つのだ。
「アーサー」
ソフィアは泣きそうな気持ちで問う。今その言葉は無意味だと思ったが、己のために口にしないわけにはいかなかった。
「あなたは最初に会ったとき、理由があって現代に生きているとおっしゃいました。その理由とはなんなのですか?」
アーサーはきっとその質問が来ることを知っていた。余裕のある、しかし頑なな笑顔で彼は答える。
「言えない。それは恥ずべきことだから」
アーサーはロバートと近いことを行っていたのだ。
ソフィアは感じとったことが真実であるような気がしていた。それでもアーサーを侮蔑することはできない。そう思うには、アーサーと親しくなりすぎてしまった。この老いても死ねない孤独な王と。
世界を変えるということは、その結果について問われることなのか。大抵は自分が死んでその評価を目にすることはないが、アーサーは自身の評価と日々向かいあっているのだ。絶対王政のままであればそんなこともなかっただろうが。
「……アーサー。わたしはあなたの十分の一も人生を生きていないのですか、少しだけ思うことがあります」
「なんだい」
「わたし、エイミーと友達になれてとても良かった。あなたは時代を超越して生きて、現代のすべての人間が子供に見えるかもしれませんが、あなたにも友達ができるといいと願います。つらい気持ちを語ることができる友達」
言ってからソフィアは反省する。こんなこと自分のような青二才が言っていい言葉ではないということは百も承知だ。でも後悔はしていない。
誰かが彼に言ってあげるべきなのは間違いないからだ。
アーサーはソフィアを見つめていた。やや間を置いてアーサーは口を開く。
「……ソフィア」
アーサーは真顔で言った。
「私はね、もうスミス家の男が手を出しそうな女性にはけして惚れないことにしているんだ。またスミス家の男に勝ち誇られるのは我慢できないからね」
彼の真顔と放った言葉の差に、ソフィアはぽかんとしてしまう。ソフィアのその顔をみてアーサーは一瞬の間のあと大笑いを始めた。
なんのことを言われているのかわからなかったが徐々に理解が進むつれ。ソフィアは呆れた。
ジョンがわたしに手を出すとか、アーサーがわたしを憎からず思っているとか、本当になんて馬鹿なことを言い出すんだろう。
「アーサー!わたし、あなたを心配して言ったのに!」
「だから私も率直に気持ちを語ったつもりだよ。ソフィアは怒った顔も可愛いな」
まったくもって子ども扱い!とソフィアが怒ろうとしたときだった、テーブルに人影が落ちた。
「おや、遅かったね」
「時間をずらして教えられたように思うが?」
ジョンは不機嫌に答えた。開いているもう一つの椅子に座る。それと入れ違うようにアーサーは立ち上がった。
「では私はこれで」
「あら、もう行ってしまうんですか?」
アーサーは一礼して洒落た帽子をかぶり直す。
「ソフィア。きっと君とはまた縁があると思う。君が無意味に怪我をしないように見守らなければならないような気がしてきたからだ。だからもうさようならとは言えないな」
困ったような顔だが、アーサーははっきと言った。
「ではいずれ」
そして彼は静かな店内を抜けて出て行った。ドアベルの音が鳴り止んでからジョンは口を開いた。
「我々は、もしかしたら国の大きな暗がりに足を踏み入れてしまったのかもしれないな」
ジョンにしては意外な言葉でソフィアは自分から問いかけてしまった。
「アーサーが何を話したか聞かないの?」
「なんとなく分かる」
ジョンはやってきた給仕の青年にアーサーが頼んだものと同じものを依頼する。それが来るまでジョンは無言だった。
銀朱原罪論者はきっとどこにもいるのだろう。そしてそれを取りまとめているのは強大な力を持つルヴァリス公。一介の貧乏学生であるソフィアは当然のこととしてジョンもどう対応すべきかわからないのだろう。そもそもアーサーが手を出しかねている相手なのだ。確かにとんでもない相手と関わってしまったと思う。
思うけど。
ソフィアは自分の方が先に口を開くことにした。
「お礼を言わなきゃ」
「なにが」
「アーサーに助力を求めてくれたのね。わたしを気遣って」
ジョンは面白くもなさそうな顔でフルートグラスを品良く口元に運んだ。返事がないのでソフィアはまた言葉を続ける。
「知らないふりはしないで。お礼ぐらい言わせて欲しいの」
気がついてしまったのだ。
両親は物心ついたときにはおらず、祖父母ももういない。
血縁のように関わってくる人間はソフィアの周りにはいなかったのだ。ヒューゴもエイミーもとても大切だけど、ジョンは彼らともはっきり違う。ジョンだけがソフィアに驚くほどの強引さで関わってこようとするのだ。
でもジョンはソフィアにとって少しだけ他と違う種類の相手だった。
「ありがとう」
ソフィアはにっこりと微笑んで見せた。そういえば、ジョンにこんな笑顔をみせたことなんてなかったかもしれない。
……ジョンはまたしても返事をしない。テーブルに肘をついた右手で口元を覆って視線をそらせいている。
なんだか感じ悪いわよジョン、と笑顔を引っ込めようとしたソフィアは彼の耳が赤く……そう血を集めて真っ赤になっていることに気がついた。
「あら……まあ……」
ソフィアは短く言葉とも声ともつかぬ吐息をついた。
「ジョン、あなたもしかして照れているの?」
それは正解だったようで、ジョンは今度こそあからさまなほどにソフィアを見ない。ふふっと短くソフィアがあげた笑い声に怒ったような強い目で、でも隠しきれない動揺を浮かべて言い放った。
「君は時々淑女と言えないほどにひどく無遠慮だ!」
「わたし、自分が淑女だなんて思ったことも言ったこともないわ」
ソフィアは涼しい顔で紅茶を飲む。
それからジョンをまっすぐに見て宣言する。きっとジョンはこんな馬鹿みたいなことをいってもそんなんじゃないとは言わないだろうと思えたのだ。
「だからあなたの友達なのよ、わたし」
キスと弾丸 第二章 終




