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ソフィアが彼についてきたのは、彼が本当に銀朱原罪論者であるか確かめたかっただけだ。確かに話は聞いたが、でも、と疑う気持ちが強い。
それにもし彼が原罪論者だったとしたら、はたしてその友人のアンソニーはそれを知っているのだろうか。そもそもアンソニーも原罪論者でないという核心はない。
「ソフィア、君の活躍は聞いているよ」
唐突に話しかけられて、ソフィアははじかれたように横のロバートを見上げた。
「え?」
「教会爆破事件の際、逃げ遅れた人間を助け、アンソニーやエイミーと共に救護活動にも励んだのだろう?」
ソフィアは変わらずにこやかな彼を見上げた。
「……どなたから聞いたのですか?」
「パトリック……パトリック・スピアだった男」
あっさり言われてソフィアのほうが言葉を失う。
それからはっとして口を閉じた。ソフィアはパトリックが銀朱原罪論者であるということを知っている。パトリックもそれに気がついている。しかしあのホテルでの盗み聞きを知っているわけではないのだ。今、ロバートが銀朱原罪論者であることを知っているという事実は、うまくやればごまかせたのに、ソフィアは失敗してしまったのだ。
「……あの人は」
「そうだね、ちょっと失敗したね。でも彼の責任だけじゃない。私の采配不足、君の幸運、いろいろだ。だからパトリックを責める気はないよ。彼はとても有能で敬虔な信者だ」
「それは教会のということだけじゃありませんよね」
「どう思う?」
ロバートは研究棟の入り口で足を止めた。まっすぐにソフィアを見据える。顔は笑っているが視線は射抜く鋭さを持っている。ソフィアは負けずその目を見返す。ソフィアはごまかしができるような複雑な性格ではない。どうせもうこちらがロバートの正体を知っているということもばれてしまった。
「どうしてあんなひどいことをしたんですか?」
「まだ秘密だね。一応君とは敵同士となったであろうし、それほど簡単に私の行動原理はいえないな」
わざと浮かべたことがわかる意地悪な顔で、ロバートはひょうひょうと言った。その態度は若干腹立たしい。
「……クイン教授はあなたの正体を知っているんですか?」
「さあね。彼に聞いてみればいい」
ソフィアが意地悪なことを口にしてみれば、聞けるはずもないことを答えにしてロバートははぐらかす。
仮にアンソニーも原罪論者であれば、聞くことは意味がないどころかソフィアにとって有害だ。原罪論者でないとすれば、アンソニーの友人であるロバートを悪く言うことになり、それも気の利いたことではない。
ロバートもなんでも話すようでいて、結局は食えない人間なのだ。
「私は別に、君達を恐れているわけでも憎んでいるわけではないのだよ」
ルヴァリス公爵は、人を魅了してやまない朗らかさのままで言う。
「君にいたってはかなり好感を抱いているくらいだ」
ソフィアは唇を固く引き結んだ。
「私は世界を変えようとする気概にとんだ人間が好きだ。君はその若さで、女性だからという無根拠で理不尽な言われようにも立ち向かおうとしている。その勇気の輝くような美しさをわからないわけではないんだ。だからこそ、君がシナバーであるということが残念でならない」
ルヴァリス公爵は、シナバーと言った。吸血鬼とも化物とも言わない。しかし彼と自分の間には恐ろしく深い断絶がある。
「君達は滅びるべき種族だ」
「どうして?教義でそう言っているからですか?」
「私をそこで思考停止するような人間だと思うかい」
心外だ、とばかりに悲しそうな顔までつくってルヴァリス公爵は肩をすくめる。
「違うよ。私が考えていたことが、たまたま銀朱原罪論と一致しただけだ」
自分に安易な説得など意味がないのだと彼は暗に語っている。教義に目がくらんでいるのならば、他者からの借り物のそれを剥ぎ取れば、異なる見解を得ることも可能だろう。だがシナバーがこの世にとって存在してはならないものだということは彼にとって自分で生み出した真理なのだ。それを覆すのは非常に難しい。
「人間はシナバーという、人間達に仇なす存在を認めてはいけないのだよ」
ロバート・メリベルが、銀朱原罪論を生み出した、そう思っても仕方ないような、堂々とした宣言だった。
「わたしは別に滅ぼしたくも滅ぼされたくもないです」
即答したソフィアにルヴァリス公爵は嬉しそうに笑った。
「本当に、君は勇気のある子だ」
君がシナバーでなければ私は出来る限りのことをしてあげたいくらいだ、とルヴァリス公爵は続ける。その言葉にソフィアは気がかりを思い出した。
「キャスをどうするつもりですか?」
死んだサムの残された妹。もしかしたら、キャスの保護はパトリックの独断であり、ルヴァリス公爵は彼女の名前なんて知りもしないのかと思ったが。
「ああ、こちらで面倒を見る。ルヴァリスに信頼できる女児の修道院があるからね」
さらりとルヴァリス公爵は頷いた。
「パトリックはサムを殺してしまったことを大変悔いている。これで孤児となったキャスまで不幸になったらパトリックは自分を許さないだろう。彼は本当に優しい人間だから。それはとても可哀想な話じゃないか。だから彼女を保護することにした。すべての貧民をすくい上げることはさすがの私でも不可能だがキャス一人ならどうとでもなる。話をした限りでは、キャスは可愛らしくまた聡明だからね」
そこでルヴァリス公爵は楽しそうに片眉を上げる。
「彼女は君達に、私やパトリックの詳細を話さなかっただろう?」
「……あなたがなにか言い含めていたんですか?」
「まさか。そんな時間はなかったよ。
はぐらかしたが、彼がキャスに何かを指示していたのは間違いない。
「私の片腕として動いてくれるパトリックには答えたい。私はね、部下にはわりと好かれるんだ」
「あなたは!」
いいかげん、のらりくらりとした彼の発言の数々にじれてソフィアは強い言葉を発した。
「一体何を企んでいるの」
「単純さ。シナバーの根絶だ」
言い切ってから、ルヴァリス公爵は胸元のポケットから懐中時計を出した。
「おっと、列車が出てしまう。ここまでのようだ」
ロバートは研究棟を出て歩き出す。ソフィアはそれを追った。校門の向こうに彼の乗る馬車が待っていた。
「まだ話は終わっていません」
「私は故郷に帰る」
唐突にルヴァリス公爵は言った。
「しかし私はまた来るよ。シナバーの巣窟はここだろう?完膚なきまでに叩き潰せるように、仕度をしてくる。そうしたらまた会おう、ソフィア」
「絶対会いたくないわ」
「きっと会う。シナバーは見えるほど多くいるわけじゃないし」
ルヴァリス公爵は立ち止まり、わざわざシルクハットを脱ぐと身に着けた自然で優雅な動作で頭を下げる。
「ソフィア、君の学業の成功を願っているよ」
「殺したい対象なのに」
ソフィアのはっきりとした発言にロバートは苦笑した。
「君の死には必ず私が立ち会うよ、ソフィア。君のことを私は本当に気に入ったんだよ。だから私の目の届かないところ……こんな有象無象のいる魔都で命を落とすようなことは避けてくれたまえ」
「わたしはわたしの自由にします」
「すばらしい。そうとも、人は自由であるべきだ」
そして豪胆に笑うと、ロバートは馬車に乗り込んだ。扉を閉めた御者が御者台戻ると、ロバートはガラス窓の向こうから笑顔を見せた。最後に何か言ったようで、口が動くのは見えたが意味を察することはできなかった。
走り出した馬車を見送ったソフィアは、自分の肩と背筋が恐ろしく緊張して強張っていることにようやく気がついたのだった。
ヒューゴ・ウィルシャーがその日、診療所を閉められたのは随分遅くなってからだった。
先日起こった聖堂爆破事件でこの付近の住民で数名怪我をした人間がいた。その時は混乱の中、政府の支援の医療団が出たが、過ぎ去ってしまえば継続性は無い。大きな病院にかかり続けることができるほど裕福な人間はこの辺りにはいない。重篤な数人を看取った。
軽い外傷や熱傷の怪我に出来ることもあまり無いが、軽視していれば今後の生活の質を下げる。そういった人々をヒューゴは見守っている。
診療所を片付けて奥の狭い居住空間に下がろうとした時だった。ドアが短く二回叩かれた。
ジョンくらいしかこんな遅い時間に尋ねてくるものはいない。ヒューゴは今度は一体なんだろうと思いながら扉も見ずにどうぞ、と答える。しかし返答は無く扉は開かれなかった。顔を上げて見れば、扉の横の小さな窓に人影があった。曇ってよく見えないそこにヒューゴが焦点をあわせた瞬間、天啓のようにそれが誰か気がついた。
「パトリック!」
ヒューゴはノブに飛びついて扉を開ける。開けた時にはすでに距離をとってパトリック・スピアは道の真ん中に立っていた。
いつも着ていた黒の司祭服ではなく目立たない労働者階級のようなシャツとズボン姿だった。
ジョンとソフィアから、事件の経緯は聞いている。だから彼が生きていることには驚かない。驚くのはどうして自分のもとに姿を現したのかと言うことだ。
踏み出して彼に詰め寄り腕を捕まえたかったが、その前に彼は逃げ出すだろう。ヒューゴは身動きできないまま、彼を見つめた。
「やあ。ヒューゴ・ウィルシャー」
パトリックは手を上げて微笑んだ。パトリック、と小さく呼びかけると彼は頷く。
「私は行くよ」
「どこに」
「なすべきことをもっと効果的に出来る場所に」
「そして人を傷つけるのか?」
ヒューゴの容赦ない言葉にパトリックは笑みを消した。けれどそんなことで説得もされないだろうということはヒューゴにはよく分かっている。
「……君も私と一緒に来ないか?」
どこへなんのために、ということは行くと決めない限り話さないはずだ。漠然とした言葉でパトリックはヒューゴを誘う。
彼の気持ちはわかるような気がした。どれほど善意を持って当たっても、力が無ければ世界は変えられない。それはヒューゴもよく知っている。なにか成しえる事が出来るのなら、というパトリックのここに至る苦悩は想像できた。
「すまない。この間の事件で怪我をした人間を診なければならない。ここから離れることはできないんだ」
ヒューゴはそれだけを答える。
パトリックの話を聞いてしまったら、自分も彼に組しない自信はなかった。近寄ってしまえば巻き込まれるように思う。
「そうか、残念だ」
けれどパトリックは静かに頷き、それ以上何も言うことなく、くるりと背を向けて道を歩き始める。
ヒューゴはパトリックの背を、瞬きもせずに見つめる。言葉を必死に探すがどうしても見つけられない。
彼の善意と正義がわからないわけではないから。でも自分のそれは違う。違うと思いたい。しかし違っていれば彼を説得はできない。
ヒューゴが見守っているうちに、パトリックの姿は闇に消えた。




