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キスと弾丸  作者: 蒼治
2 湾岸倉庫火災事件
33/53

15

 そんなわけで。

 試験を受けたとき、ソフィアは散々な状況だったわけである。前日に胸を打ちぬかれて大出血だったのだから。

 それでも日ごろの努力が功をなしてか、一週間に及ぶ試験期間、なんとか絶望せずに切り抜けることができた。翌週、結果が返ってきてソフィアはほっと一息ついたのだった。やはり普段からちゃんと授業を受けておいてよかった。

 それなりの結果を残すことができたのだった。これで奨学金を受けることができるし馬鹿にする男子生徒達にひるむこともない。


 だがひとつだけどうしても納得できない結果があった。

 アンソニー・クイン教授の講義である。結果は「可」。

 とりあえず単位は取れた、という評価である。


 評価をもらった日、ソフィアの元にエイミーも顔を青白くしてやってきた。

「ねえソフィア、率直に聞くけど、クイン教授の評価、どうだった?私は可だったわ」

「わたしも。でもおかしいわよね」

 二人は声を揃えて言った。

「絶対単位取れるとは思えないのに」


 ソフィアはルヴァリス公爵の銀朱原罪論者の事件に巻き込まれ、エイミーはポールを避けて生活していたせいで、なかなか集中して勉強するどころではなかったのである。最も単位を落とす可能性のあるクイン教授の試験については途中からはほぼ捨てていたと言っていい。

 試験自体はレポートであったが充分な内容とはとても言えないと二人もわかっている。


「行ってみましょうか」

 ソフィアは以前より、その言葉が楽に出ることに気がついた。

「クイン教授の研究室」

 エイミーもそれは考えていたようで、待ち構えていたように頷いたのだった。


 二人はそのまま授業の終わった学内を歩いてアンソニー・クインの研究室に向かった。試験が終わって学内は静まりかえっている。ほんの一週間前までは亡霊まがいの青白く思いつめた顔をした学生達が右往左往していたのが嘘のようだ。

 変わりないのはアンソニーの研究室だけだった。

 いつものように周囲に人影はなく内側に人がいるのかどうかもわからない。その廊下に響かせるように強くエイミーがノックをした。


「……入りたまえ」

 扉は開けられなかったが中からアンソニーの声がした。二人は顔を見合わせてから、おそるおそる扉を開く。彼は相変わらず散らかり放題の部屋で机を前に書き物をしていた。二人が入ると一応顔を上げる。それからなんと。

 驚いたことににやりと笑ったのだった。


「単位を返しに来たか?」

 二人の行動を見透かしていたようだった。エイミーが先に口を開いた。

「返しにきたわけじゃありません。頂けるなら欲しいですもの。でも理由がわからず施されるのは嫌いです」

 エイミーはまっすぐに彼を見つめていた。彼はしばらくそれを皮肉っぽいまなざしで受け止めていたがやがて目をそらしうつむいた。


「施しではないよ。私も教師だ。ちゃんと考えての結果だ」

「でも、レポートは」

「そうだな、お粗末なものだったな二人とも」

 はっきり言われソフィアも表情に困る。怒ればいいというものでもない。

「でも、実際現場で……しかも最初の修羅場で、あれほどに己のなすべきことを探して動き回れるというのはたいしたものだと考えたんだ。あの経験を役立てれば、君達も次はもっとましなレポートを書くだろう」

「……現場というのは先日の教会爆破事件ですか?」

 アンソニーは、それ以外に何があるんだと、そっけなく答えた。


「私にもわからないことがある、もしかしたら君たちがその疑問を解いてくれるかもしれないと期待した」

「疑問?」

 エイミーは少し考えてから彼に尋ねた。

「わかりません、教授ほど賢い方でもわからないことがあるなんて」

「どれほど年をとったところで、わからないものはわからん」

 アンソニーは乾いた声でそんな呟きをもらした。独り言かと思ってソフィアもエイミーも黙っていたが、やがて彼は続けた。


「君達は知らないだろうが、十年前にアーソニア近くの海岸で、船が難破したんだ。すごく大勢が亡くなった」

 十年前といえばソフィアもエイミーもほんの子供だ。それにアーソニアには住んでもいない。大人は知っていたかもしれないが、その事故そのものもソフィアは始めて聞いた。

「私と妻と、息子が乗っていたんだ。海に投げ出されて、なんとか浜まで来たが、息子はもう死んでいた」

 空気は重く、一体どんな顔でこの話を聞いていればいいのかすらわからない。彼の表情はいつもと変らないようにソフィアには思える。


「死んでいたんだ」

 自分に言い聞かせるように、彼は繰り返す。

「浜辺には船の残骸によって怪我をした人間が沢山居た。私は彼らの治療に当たった。悲しむより先に成すべきことがあると考えたんだ。私の手当てのお陰で助かった人間もいると思う。だから未だにあの時の自分は間違っていたとは思えない」


「……奥様は」

 エイミーはかすれるような声だった。しかしそれはアンソニーの後悔なのだろう。反省はできない、正しいと信じているから。でも後悔は残る。


「妻は私を子どもを見殺しにしたと言って責めた。たとえもう手遅れだったとしても、私はもっと息子の救命に力を尽くすべきだったと。でも息子は死んでいたんだ。何をしても無意味だった。一刻も早く助ければ助かる人間が大勢いた場合、その無意味さは許されるのだろうか。でもこんなふうに考えること自体、私が人間らしいなにかを持っていない証明なのかもしれないな」


「だから、あまり人と接しないのですか?」

「ははは、それは元からだよ。偏屈はもとから。でもそれでもいいと言ってくれた妻も去った。今は別の人間と再婚して何人か子供がいるようだ。彼女が幸せになっているのなら、本当に嬉しい。私は結局何もあげられなかった」

 アンソニーは二人に向き直った。はじめて彼が微笑む顔を見てソフィアは胸が痛くなる。笑っているけど別に彼には何も明るい感情などないとわかったからだ。


「噂を聞きました」

 エイミーはその暗い笑顔にも立ち向かうように問う。

「あなたが患者を見殺しにしたって。それは息子さんのことだったんですね」

「最終的に妻は私をとても強く憎んだからね。そう語ったんだろう」

「どうして否定しないんですか?」

 ソフィアは二人の会話を聞くことしかできない。エイミーは強いなと思う。いつアンソニーから拒絶の言葉があってもおかしくないのに踏み込むことを恐れていない。


「私の後悔は、他人の評価のためじゃないから」

 それからアンソニーは付け足した。

「息子を犠牲にしてこの道を選んだけれど、どんな意味があるんだろうと思っていた。でもこの間の事故で、自分にできることは無いかと一生懸命だった君達を見ていたら、もしかしたら意味があるのかもしれないと思えた。根拠は無いけどね」

 彼の後悔も、意味も、結局二人にはなにも介入できないことだ。でも二人が何かをしようとしている姿を見て、彼がなにかを思うこともあるのか。


「……根拠のないことは教授はお嫌いですよね」

「そうだな」

 穏やかな口調で、でも発言を撤回する気は無いように、はっきりとアンソニーは答える。

「君達には感謝しているよ。でも別にそれが今回の試験の結果となったわけじゃない」

 感謝の言葉から、ようやく試験の結果の話になったと思ったが、それはどうやら違うようだった。


「君達の、実践での働きが一年生にしてはなかなかやるなあと思ったからそうしただけだ。でも、ソフィア・ブレイク」

「あ、はい」

「君は自分の身を危険に曝すことを恐れていないな。まず身を守ることを考えたまえ。だから可しかあげられない。それにエイミー・グリーン。君は自分に自信を持ちたまえ。なければ自信が持てるまで努力したまえ。意欲は買うが、あんなおっかなびっくり扱われては患者のほうが怖がってしまう。君もせいぜい可だ」

 しかし単位が取れたことが奇跡である。


「あ、ありがとうございます」

「可だぞ。不名誉な。もっと上を目指したまえ。卒業できれば言いというものではない。汚名返上したければ来年……私のゼミを取りたまえ……今まで興味がなかったが来年度は開くかもしれない」

 え、と下げた頭を上げた時には、アンソニーは再び書き物机に目を落としていた。顔を上げる様子はなくその姿はもう二人に研究室から出て行くことを要求している。

「……もしかして、ゼミに勧誘されたのかしら」

「……そんな話きいたことないわ」

 二人は顔を見合わせて小声で短く言葉を交わす。まったくゼミを開く気がなかった彼にそういわせるとは、名誉なことかもしれないが。

 エイミーの表情は少し固い。クイン教授をじっと見つめている。


「……悲しそうね、ずっと」

「え?」

 ソフィアにはいつもと変らない淡々とした表情にしか見えなかったのに、エイミーはそんなことを言い始めた。

 ああそうか。

 ソフィアは感づく。

 他人というものは、自分自身よりよく見えるんだ。


 ……エイミーは教授を信頼しているのかもしれない。

 教会が瓦礫となり怪我をした人間たちであふれる中、クイン教授はいつもの皮肉っぽさをひっこめて懸命に救援にあたっていた。それは確かに雄姿であった。ソフィアが離れた後も二人はずっと一緒にいたわけで、もしかしたらエイミーにはソフィアには見えないアンソニー・クインの素敵な面をもっと見つけたのかもしれない。

 もうちょっとしたらエイミーに聞いてみよう。


 でも。

 ソフィアはふと心配を思い浮かべる。

 エイミーもジョンとわたしのことをものすごーく聞きたいのかもしれない。となると、たずねるのは藪蛇では……。

 そんな風に考えてエイミーをちらりと見たときだった。いつかと同じように研究室の扉がノックされた。はっとして真後を振り返ったソフィアはさすがに目を見開いた。


「やあアンソニー」

 にこやかに部屋に入ってきたのは、ロバート・メリベルだった。高貴な、しかし気さくな表情で遠慮することもなく友人の研究室に入ってくる。

「ロバート、勝手に入ってくるな」

「私とお前の仲じゃないか」


 けろりと言うロバートに、アンソニーも憎まれ口こそ叩くもののそれほど怒っているわけではないようだった。結局こういう二人なのだろうとソフィアは察する。アンソニーは人嫌いだがロバートのことは受け入れている。

 ロバートも、アンソニーを親友として扱っている。ただ、その真意まではソフィアには探れない。ロバート・メリベルの正体を知ってしまった今では。


「やあお嬢さん方、今日も変わらず麗しい」

 なんて言葉を照れもなく堂々と口にして、エイミーの手を取ると恭しく甲に口づけまでして見せたのだ。エイミーは顔を真っ赤にして恥ずかしがっているが、嬉しいのは間違いなさそうだ。ロバートはソフィアにも同じように淑女に対するような口づけを送る。


 本当に銀朱原罪論者なのかしら。

 ソフィアが一瞬迷いを浮かべてしまうほどに彼の態度はエイミーに対してものと変わらない。この場だからごまかしていると考えたが、だとしたらソフィアには太刀打ちできないほどの演技者だ。


「前々から言っていたけど、今日帰るんだ。最後に友人に挨拶しようと思ってね」

「ルヴァリスにお戻りですか?」

 エイミーは本気で残念がって見せた。

「きっとクイン教授はとても寂しがりますわ」

「私は寂しがってなどいない!」

 口を挟んだアンソニーにロバートは面白がって笑う。


「よかったな。教え甲斐のある生徒に出会えて。教師冥利に尽きるだろう。いやいや、お嬢さん方、アンソニーをよろしくお願いするよ」

「私がお願いされるほうなんだ、本当は……」

 ロバートとアンソニーの会話は、聞いているだけでも本当に楽しい。ロバートも気さくな性質とはいえ、普段はルヴァリス公として気を張って生きるに違いない。アンソニーと話すときだけ素に戻ったように楽しそうだ。


「まあ体に気をつけたまえ。もし帰ってくるなら向こうでいつでもいい職場を用意してやるよ。なんならお父上や祖父君と同じようにうちのお抱え医師になるか?」

「そんなものはつまらん」

「どうだいお嬢さん方。いつだってこうやって冷たくふられているのは私のほうなんだ」

 壮年の男性にこんな表現もおかしいが、ロバートは可愛らしく首を傾げて笑って見せた。

「では私はこれで失礼するよ。列車の時刻も迫っているし」

 ロバートは大きく両手を開く。ちらりとそれを見てため息をつくと、それでもアンソニーは立ち上がって入り口近くまでやってきた。そのまま固くロバートと抱き合う。


 ああ、本当に大事な友人なんだわ。

 人生経験など乏しいソフィアにもそれはしっかりわかる。

「……まあ気をつけて帰れ」

 言葉だけはそっけなく言うと、アンソニーは追い払うように手を振る。

「じゃあ、お嬢さん方」

「ルヴァリス公、わたし、校門までお送りします」

 ソフィアは言い出した。またジョンに怒られるかしらという予感がよぎる。

 でもわたし自身のことだし。


「あ、なら私も」

「いやいや、学内の美しい女学生二人に見送られて未来を担う学生諸君に恨まれてもたまらない。ソフィアだけで十分だ。エイミーはアンソニーを頼むよ」

 ではエイミー、また会える日を楽しみにしているよ、とロバートは言うと手にしていたシルクハットを決められた角度を記憶しているかのような美しい動作でかぶる。それを合図にしたように、ソフィアはロバートとアンソニーの研究室を出た。相変わらず静まり返った廊下を歩き出す。

 あれほどに饒舌なロバートは廊下にでるとぴたりと口を閉ざしてしまった。

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