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「そ、ソフィア、その血は」
教会の前で、エイミーと落ち合うことができたが、ソフィアの服がびっしょりとまだ湿っているほどに血で汚れているのを見て、エイミーは震える声で尋ねてきた。しかもよく見れば服には焼け焦げつきの穴まで小さく開いているのだ。
「え、えっと……クイン教授は?」
「ごまかさないで!ソフィア、怪我をしたの?」
「してないしてない」
ソフィアはまさか真実は言えないと悩む。横にいたジョンもうまい言い訳が思いつかないようだ。肝心なときに屁理屈が出てこないなんて、と呆れつつ、ソフィアは説明する。
「えっと、ちょっと怪我をした人がいて、その人を起こしたときについたのよ。その人は無事病院に運ばれていったわ」
「そのとおりだ。エイミー。ソフィアは元気だ」
エイミーは疑問が消えないとばかりに固い表情で二人を見比べる。仕方ないのでソフィアは微笑んでみた。ジョンもうさんくささ全開だが微笑んでいる。
「僕は、そのあたりで教会奉仕団が毛布を配っていたから取って来るとしよう。確かにそのままではまるで殺人があったようだ」
ぶっそうなことをごにょごにょと言いながらジョンは人ごみの中に消えていった。
「ねえ、ソフィア」
エイミーはまっすぐにソフィアを見つめた。優しい、でも少しだけ悲しそうだった。
「あなたはとても強くてしっかりしているわ。でもたまには私も信じてね」
「信じているわよ、もちろん!だって」
ソフィアが大事な言葉を言おうとしたときだった。
「エイミー!」
人ごみの中から、確かに彼女を呼ぶ声がして、ソフィアは口を閉じあたりを見回した。その姿を見つけたのはエイミーのほうが先だった。
「……ポール」
舞うほこりが辺りに充満し、視界すら煙る中、ポールは人を掻き分けこちらに近寄ってきた。
「探したんだぞ!」
ポールは威圧的に怒鳴りつける。びくっとエイミーの方が震え、ソフィアは自分が前に一歩踏み出すべきか、一瞬迷った。だが、ソフィアが口を挟む間もなくポールは早口にまくし立ててきた。
「エイミー、こんなことに巻き込まれていたなんて!」
ポールはあたりを見回した。怪我人はだいぶ少なくなったが、それでもまだ、座り込んだまま立てない人間も居る。ポールのように、知人を探す人間であたりはごった返していた。
「だから、都会に君を送ることは反対だったんだ。確かに半年分の学費はもったいないけど、もう故郷に帰ろう?君はこんなところにいるような子じゃない」
ポールはエイミーの手をとった。
「君の事は僕が必ず守るから」
ポールは悪い人じゃないのよ。
いつだったか、エイミーが行ったことを思い出す。今の彼がエイミーに対して言う心配は確かに本物だ。心の底から彼は婚約者として育った優しい娘のことを案じている。彼は自分の価値観に沿うものは大事にするはずだ。
そしてエイミーも彼をはねつけられない。
ソフィアはそれをエイミーの優しい性格だと思う。でも弱いと判断する人間もいるだろうなと考えていた。どちらにしても選ぶのはエイミーなのだ。
「私は無事よ。怪我もしていない」
エイミーはポールに微笑んだ。そして彼の手をそっとはずす。
「ポール、あなたに会えてよかったわ。ゆっくり時間が取れなくて申し訳なかったけど」
エイミーの手は横に立つソフィアの骨ばった手を握っていた。
「私は学校があるからあなたと一緒には戻れないの」
ポールは目を見開き、血生臭いあたりを見回した。
「こんなことがあっても君はここに残るのか?」
「これは事件だもの、特別な事態よ。学校は平和なものよ。だから私は大丈夫」
「君は、一体自分を何様だと思っているんだ!」
突然、ポールはエイミーを怒鳴りつけた。この豹変がエイミーが彼を恐れる理由だったのかもしれないと思う。いいかげん頭にきて、ソフィアがエイミーを庇うように前に進み出ようとしたときだった。
「何様でもないわ」
エイミーの言葉は静かだった。しかし彼女は胸をはり、まっすぐにひるむことなくポールを見つめていた。
「私はこんな状況でも、何一つ役に立つこともない非力で無能な人間よ。両親が死んだ時も従兄弟が死んだ時も、ずっと何も出来ない人間だと思っていた。でもそこに留まるのを仕方ないと諦めるのももう嫌だわ」
エイミーの声は時々震えるし、握り合った手は緊張なのか汗で湿っている。でも彼女が強く示した意志は揺らぐ気配がない。
「私はこんな時に、何かが出来る人間になりたい」
「バカな女だな!」
そういったポールの表情を、ソフィアは嫌悪する。大声と威圧的な態度でこちらを圧倒しようとするその態度は、逆に卑小だった。
「絶対後悔するぞ!」
「そうね。でも今、あなたと結婚したらその翌日に後悔することも確かだわ。だからあなたもこんなバカのことは忘れて、別の女の人を探して」
エイミーは皮肉も言わないし、もちろん力にものを言わすこともない。ただ一つ、自分の心だけで誰かに逆らうという怖さと戦っているのだと気がつく。わたしがいるよ、とソフィアはその手を握り返した。
「ポール、あなたはいい人だったわ」
まるでそれに勇気付けられたかのように、エイミーは鮮やかに微笑んだ。ソフィアからは横顔しか見えないが、それでもまぶしくて、清々しい笑みだった。
「さよなら。気をつけて故郷に帰ってね」
行こう、ソフィアと、彼女はポールに背を向けた。その瞬間に、表情は怖さに押し固まったようなぎこちないものに変る。相当緊張していたのだろう。
ソフィアは手を放すまいとエイミーの手を握り締めて、歩き始めた。その横で大きくため息をついてエイミーは小声で言った。
「とても怖かった。でも言えてよかった」
ソフィアが自己嫌悪をくりかえすように、きっとエイミーも自問自答を繰り返すのだろうということは想像できた。二人とも、何度も後悔だってするだろう。
でも翌日に美味しいケーキを食べて、二人で話すことが出来れば、また次の日は前を向いて迎えられるような気がした。
どきどきしながらソフィアは思いついたことが合ったが、それは口にするには少し難しい。さっきはとっさに出そうになったが、今改めて考えると言葉にできない。
エイミーはわたしの大事な友達だわ。
いつか言うけど。
人ごみを掻き分けてポールの視界から完全に抜ける。怪我人や、知人を探す人々、警察や役所の人間、そして野次馬など、様々な人々が集まっていた。その中でソフィアは嗅ぎ慣れた匂いを感じとった。
地面に点々とつけられた赤い血の痕。
きっと誰か怪我人のものだろう。かなりの量だが、果たしてこの人物は助かったのか。
ソフィアの視線に気が付いたエイミーが同じ方向を見て足を止める。ふらっとよろけるようにして、彼女は建物の入り口の階段に座りこんだ。
「エイミー」
ソフィアも横に並んで腰掛ける。薄汚れた身なりの若い女性が二人。道行く人々はその小さな影に注意を払うようなことはなかった。
エイミーはじっとその痕を見つめている。雨が一日降ればそれだけで洗い流されてしまうのであろう。
「……私、本当に、なんの役にも立たなかった」
エイミーは喉の痛みを堪えるようなかすれた声で呟いた。
「エイミー、ポールの言葉なんて気にしちゃ」
「いいえ、彼の言葉なんて関係ない。私、まだ何も出来ないんだわ」
「わたしだって……」
「ソフィアは瓦礫の中から人を救い出していたじゃない」
「ちがう!」
エイミーの言葉にソフィアは強く反発した。
「違うわ。あれはシナバーだからできることであって、別にわたしができることじゃない。わたしは」
続けようとした言葉の正体に、ソフィアははっと口を閉じる。
自分の望みをソフィアはちゃんとわかっていた。
「わたしは、ちゃんと医師として役に立ちたい」
一体いつ、そんなふうに自分が思ったのかわからないが、ソフィアは自分自身のために、ただ資格を得るために、医科大学校に進学したんじゃないと今言おうとしていたのだ。
「……私もよ」
エイミーは泣き笑いのような顔をする。
自分たちの願いもわかっている。でもそれには何もかもが足りないということももっとわかっていた。
「何かできるようになりたい」
エイミーの目からぽろんと涙が一粒こぼれる。ソフィアも追うようにしゃくりあげていた。いつの間にか二人で抱きあって、わあわあと子供のように泣いていた。そうだ本当にこれではただの子供だ。
自分に力のないことを悔しがって泣き喚くなんて、わがままな子供に過ぎない。だからきっと、もうわたし達は明日からこんなふうに泣くことないだろう。自分のことだけじゃなく、エイミーもそうであろうとわかっていた。
泣いている暇があったら、今の自分じゃなくなるために頑張って進みたい。少しでも力をつけたいと心から望んでいる。
エイミーに会えて、よかった。
同じような悩みを抱えていることを分かり合える人が居るというのは、どうしてこれほどに心強いのだろう。お互いに何も出来ずとも、その人が居るだけで前に進むことが出来るような気がする。
人ごみの中、しばらく二人は、抱き合って泣いていた。




