13
もうすぐ日は沈もうとしていた。怪我人たちの多くは病院に運ばれたり、ここで治療を受け帰って行ったが、まだ現場はごった返していた。
それでも慌しさは落ち着きつつある。
「ソフィア!」
混雑している通りでソフィアは呼び止められた。
「ジョン!」
彼もずっとこの辺りにいたのだろうか、うっすらほこりっぽくなっていた。あれから半日もたっていないのに、ずいぶん以前に別れたような気がする。
「ソフィア、大丈夫か」
「ええ、大丈夫よ。エイミーと教授はあっちで軽い怪我をしている人を見ているわ。わたしは水を取りにいこうと思って」
「……ソフィア」
ソフィアの目の前に木偶のように突っ立って、ジョンはソフィアを見下ろしていた。両手だけは何かをしたいように体の横の中途半端な場所で止まっている。
まるで、ソフィア抱きしめたいとでもいうような。
……まさかね、とソフィアは考えをあっさり打ち消した。
「……君が無事でよかった」
「もちろんよ。わたしは怪我はなかったじゃない」
「そうじゃなくて。僕の見えないところで怪我でもするのではないかと」
「大丈夫よ。教授と一緒なんだから、怪我してもなんとかしてもらえるもの」
「……」
そうじゃない、とばかりにジョンが乱暴に自分の髪をかきむしる。
「ソフィア、君が……!」
「……、まって!」
ソフィアはジョンの言葉を遮った。今、何かが、視界に入った。気になるものが。
「ソフィア?」
ソフィアは、見上げた先に、その青年の姿を見た。
「……あれは」
ヒューゴと同じくらいの年だろう。褐色の髪は短く切りそろえられていた。黒い詰襟の司祭服は慣れ親しんだものとして彼に似合っていた。だがおそらくそれは彼のものでは無いのだろう。それは火事でサムと一緒に燃えてしまったのだから。今着ている物はこの事件のためにどこから用意してきたもののはず。
彼は教会の向かいの建物の屋上に立っていた。今までの騒ぎを見物していたかのようなその態度にカッと頭に血が上る。
ソフィアは立ち上がり、頭上の彼の名を呼んだ。
「パトリック・スピア!」
これが怒りだろうか。
ソフィアは彼から目を離せない。彼のせいで、多くの人間が傷ついた。ソフィアには理解不可能の理由だ。エイミーとクイン教授が、他にも駆けつけた人々が必死で救命しているが、おそらく死者が出る。シナバーだけを狙うのなら、その思想によるものとして、納得は出来ないまでも道理は通る。どうして彼は。
「ただの人間も傷つけて、どうしてそんな平気な顔で!」
ソフィアの震える拳を、背後のジョンがつかもうとする。
「ソフィア、逃げるんだ」
「ジョンこそ!」
ソフィアには、今、ジョンを気遣う余裕は無かった。ジョンの手を振り払った。
「相手の挑発に乗るな!」
ジョンの言葉は一瞬遅かった。ソフィアは駆け出していたのだった。雨どいに手を掻け、窓枠に足をかけて、一気にパトリックの居る建物の屋上に上る。だがソフィアが移動で視界からわずか見失った隙に、パトリックの姿は消えていた。
はっと気が付いた時には、隠れていたパトリックに背後から金属の棒で殴り飛ばされていた。普通の人間ならば、まともに食らえば頭蓋骨に確実にひびが入る勢いだ。とっさに腕で庇ったソフィアだが、そのまま吹っ飛ばされていた。しかも盾にした尺骨が間違いなく折れた。屋上を転がって、煙突に思い切り背中を打ちつけた。
強い、とぐらぐらする頭で思う。
パトリック・スピアは間違いなくただの人間だ。だが、多くの訓練をつんでいる。シナバーとして人間を越えた能力を持つソフィアだが、戦闘経験があるわけではない。人を傷つけたいという意志はさらに希薄だ。経験と意志、強靭なその二つを持つパトリックは、本気を出してソフィアを殺しにきている。
起き上がろうとしたソフィアだが、あっという間に近寄っていたパトリックを目が合う。彼は攻撃をためらわない。
相手が若い娘であっても、シナバーである以上、彼にとっては葬るべき悪である。
聞こえた銃声と同時に、ソフィアは絶叫した。
口から溢れたのは肺からの血だった。自分の血に溺れて苦しい。パトリックは、ソフィアに反撃されない距離を保ちつつ、大口径の銃で、彼女を撃ちぬいたのだった。
「外したか」
パトリックの苦々しい言葉に、彼は本当はソフィアの心臓を狙っていたのだとわかる。
パトリック・スピア、とソフィアは呼んだつもりだったが、多分声になっていない。
「哀れなり、地上に迷いでた魔物よ」
パトリックは指先で、教会の印を空中に描いた。
本当に、彼は、敬虔な司祭であったのだと、ソフィアはうっすら感じとった。貧困を憎み、そこで喘ぐ人々を救いたいと願っていた。いや、今も間違いなく願っている。
「魔物よ、お前達の住む世界に帰るのだ。お前達が戻ることで、この世の悪も少し減るだろう」
馬鹿じゃないの。そう言いたかったが、溢れたのは血だけだった。パトリックはあまり銃の扱いは得意ではないのだろう。ソフィアに反撃されず、しかし確実に心臓を打ちぬける距離まで近づこうとしている。
一瞬、彼はまだ騒ぎが収まっていない教会周辺に目を向けた。
「お前たちを葬るために、無辜の民を犠牲にしてしまった。その咎はお前達の異形のものだ」
勝手な!
ソフィアは憤るが、体が動かないし声も出ない。
わたし達を悪魔呼ばわりして、それを葬るためにでた犠牲すらシナバーのせいにするなんて!
「なんと卑怯な!」
ソフィアの言いたい言葉が響いた。パトリックが舌打ちをする。
梯子を辿って屋上まで上がってきたのはジョンだった。彼もまた、銃を手にしていた。
「己のしたことまでシナバーに押し付けて、くだらない!本当にくだらないな!」
大仰な動作だったが、怒りに満ちていた。
「僕ならば、こう考える。僕のしでかしたことは正しい。ならば、そのための無辜の民の無意味な死すら、僕の誉れであるとね!」
ああ、この人、本当に頭のネジが緩んでいる……、とこんな時ですら変らない暴言になんだがほっとしてしまう。だがそんな余裕は無いのかもしれない。指先が恐ろしく冷たくなってきていた。
「パトリック・スピア。お前がシナバーを葬らねば、この世の正義は成されないと考えるのは自由だ。だが僕も、ソフィアを守らねば、僕の平穏はありえないと考える。いいだろう、楽しいじゃないか、どちらの傲慢を神様とやらは選ぶだろうな」
ジョンは薄笑いを浮かべて、銃をパトリックに突きつけていた。彼は自分が撃たれるなど考えてもいないように見える。
「僕は射撃には自信がある」
パトリックはちらりとソフィアを見た。が次の瞬間、身を翻していた。数歩で建物の端に立ち、そのまま迷う事無く飛び降りた。ジョンがさすがに驚いて、駆け寄って下を見下ろした時には、水の音は消え去っていた。彼は建物から直接川に飛び降りたのだった。逃げられた、とジョンは下を見回すが、姿は見つからない。
ジョンにとって今優先すべきはソフィアであり、彼はほとんど一瞬で戻ってきた。
「ソフィア!」
煙突の前に、ソフィアはぐったりと伏していた。屋上にじわじわと血が広がっている。
「まったく、君はどうしてそんなにバカなんだ!薄々気が付いていたが、君はバカだ!」
本当に、お前に言われる筋合いはないと思うが、反論もできない。視界が暗い。
「マデリーンと戦った時より状況は悪いぞ。僕の血を飲むことを嫌とは言うまいな?」
ソフィアはかすかに首を横に振り、ジョンが驚愕する意志を伝える。放り出してしまった鞄の中に、持ち歩いている配給血があるのだ。
ソフィアの指先が弱々しく下を示したことでその意図には気が付いたらしいジョンだが、とうてい納得はしてくれなかった。
「僕が取りにいっている間に死ぬぞ」
「……や、だ」
……もう別に、この後に及んで、罰金やら懲役がどうのという問題ではなかった。ただ、ジョンの血を飲むことがソフィアは嫌だったのだ。
嫌、というより怖い。
彼から血を奪うことで、どんなことが起きるのか、自信がないのだ。もしかしたら運悪く感染症にかかるかもしれない。出血が大量になってしまうかもしれない。
ジョンを傷つける可能性があるものが怖い。自分自身を含めて。
ジョンがソフィアを抱いて、自分の首筋に近づけても、ソフィアは歯を食いしばった。その強情さにジョンが怒りを滲ませる。
「この頑固娘が……!」
ソフィアの内心などおかまいなしにジョンは懐から美しい彫刻がされた象牙細工の柄を持つ折り畳みナイフを出した。広げたそれを手の平に滑らせる。あっという間に血があふれ出た。それを。
「うごっ?」
ジョンはソフィアの口につっこんだのだった。喉の奥に届いた指のせいで一瞬嘔吐感が迫るが、次の瞬間には血の甘さに吹き飛んでいた。
べろりと、ジョンの手の平を舐める。その間にも喉の奥に彼の血が流れ落ち、指先まで細胞の一つ一つが力を満ち始めていた。
もうやだ。
自己嫌悪に陥りながらも、ソフィアはジョンの指先を舐め血を飲み下す。肺の穴が消えて、呼吸が楽になり、自分の再生が手に取るようにわかった。
裏腹に、己の貪欲さにうんざりする。もう二度と血液の直接摂取はしないと誓ったのに、またこのざまだ。
ソフィアは甦ってきた手の力をこめて、ジョンの手首をつかむ。何とかそのまま引きずりだしたが、ソフィアはそのまま床に突っ伏してしまった。
「ソフィア?」
伏せてぐったりしているソフィアに、ジョンが珍しく素直に「心配そうに」と表現できる声をかけてきた。ソフィアは手で顔を覆うと小さな声で言った。
「そっとしておいて」
「まだどこか痛いのか?必要ならば、もう少し飲まれても平気だ」
ソフィアの肩をつかんでひっくり返そうとする。ソフィアはジョンの行動にため息をついて、自ら起き上がった。出血は止まっているが、自分の血にまみれた服のべたつきと冷たさが気持ち悪い。
座ったまま彼と向き合う。ジョンは眉をひそめてソフィアを見つめている。
「ねえ、ジョン」
ソフィアは、この大事件の前にジョンと話したことをまた蒸し返すことになったと気がつく。
「わたし、とても困るの」
「何が」
「あなたに親切にされると。美味しいものをお土産にしてくれて嬉しいけど、わたしには良すぎるものだわ。それにわたしのためを思ってあなたは自分の血を差し出してくれるけど、とてもお金じゃ返せない」
ジョンは無頓着にわたしに与えすぎるのだ、と逆恨みをしたくなるぐらいだ。
「わたしには、あなたに返せるものがないの」
その言葉を聞いて、ジョンはその輝くような美貌を一瞬固まらせた。アホ面といってもいいが、そういうにはジョンの顔立ちが美しすぎる。
ほんと、無駄に美形だわ、と思わずソフィアは彼の顔を見つめてしまった。いつもは彼もソフィアの顔をじろじろと眺めてくるから、またそうして、彼は彼でなにか屁理屈を正論じみた口調で言ってくるに違いないと思ったのだ。
だが、ふいに、ジョンは顔をそむけるようにしてソフィアの視線を外した。
「……君はなにもわかっていない」
すねたような口調で言う。
「ソフィア、君だけが、僕の欲しいものを全て持っているのに」
なにかの聞き間違いかと思うような言葉にソフィアの思考が追いつかない。
「君は僕に、なにもくれないけどね」
とジョンは小さな声で続けた。
ジョンの欲しいもの?
ソフィアはくらくらする視界を耐えながら考える。
わたしが人より優れているのはシナバーゆえの体質と、少しだけの賢さだ。でもジョンの用心棒はやったことがあるし、頭脳は彼のほうがよほど上。
ソフィアが沈黙している間に、ジョンはいつものあの飄々とした表情を取り戻す。
「ソフィアー!」
地上からは、ソフィアを探しているらしいエイミーの声まで聞こえてきた。ジョンはソフィアの手をとって立ち上がらせた。
「エイミーも探しているし、降りようじゃないか。ところで、僕は君に猛省を促したい。君は前回同様に、信じられないような無茶をやって、また大怪我をした。なぜそのように無謀な行動に出るのか、一つ議論してもいいくらいだ。僕は君をこてんぱんに論破できるぞ」
「うるさい」
いつものままのジョンに、なんだか安心しつつ、それでもさきほどの奇妙な空気は全て拭い去れないまま、二人は屋上を立ち去ることにした。




