12
戻った先では、普段ソフィアが嗅ぎ分けている匂いが、重く立ち込めていた。血の匂い、そして怪我の匂い。それは視界を遮る土ぼこりの匂いの中でソフィアにとっては明瞭だった。
でもおいしい匂いだなんてとてもじゃないが思えなかった。怪我というのもが単独で存在しているはずもなく、その先には痛みに苦しんでいる人間がいるとソフィアは知っている。
迷いなくまっすぐ怪我人に向かうクイン教授の背後で、ソフィアは、そしてエイミーは域を飲み、一瞬立ちすくむ。
教会の周辺は悲鳴と呻き声で満ちていた。教会は小さいものだと思っていたがそれでもこれだけの人間を収容していたのだと思う。視界に入る人間たちだけでもざっと三十人ほどはいた。もう少しすれば、医者が駆けつけたり、病院に運ばれていくのだろうが事件が起きてまだ十分ほどしかたっていない。
でもここの怪我人に手が差し伸べられるまでにもしかしたら命を落とす人間が。
「……行こう」
かすれる声だったが、自分の迷いを断ち切ろうとする強さを持ってその言葉を口にしたのはエイミーが先だった。二人の前でアンソニーは怪我人の前に座り込み、持ってきたカバンの口を大きく開いた。目の前の患者は壮年の男性で、血の染みがますます広がりつつある右腕をかばうように横たわり呻いていた。
「教授!」
駆け寄った二人にアンソニーはカバンの中から出した鋏を渡した。
「袖を切れ」
「は?」
「その血まみれの右腕の袖を切れ。切らんと状況がわからない」
二人の顔も見ないで指示だけすると、彼は横にいた男性の妻と思われる女性の脈を取っている。
「私の言葉はわかりますか?」
「ええ、でも、左の足首が痛くて」
アンソニーはうなづくと、「失礼」と型どおりの言葉を感情もなく吐き出して、その婦人の足首の様子を見た。少し角度をつけると痛みに彼女は呻く。
「い、痛たた」
「大丈夫ですね。ではあとで医者に行ってください。おそらく骨折でしょう。だがヒビくらいで済んでいると思います」
そのままハイ次、とばかりに、今度は数歩先にいた若い娘に声をかける。彼女は自分の子供らしい赤子を抱きしめていた。赤ん坊はとっさにその母親がかばったのか、あどけなく上機嫌に笑っている。二人の身なりからして裕福な家庭のものだろうと推察された。
「ちょっと拝見」
母親は額を切っていた。ハンカチで額を押さえてうつむいていたが、アンソニーが医者だと理解するや否や、ハンカチを放り出す勢いで自分の赤子をささげるように見せた。
「お願いです。子供が、子供が心配で!」
「大丈夫です。ご機嫌に笑ってます」
「いいえ、そんなんじゃ心配です。ちゃんと診察してください先生。私はいいんです。でも子供をちゃんと見てください。私が庇ったけど心配で!」
「それよりあなたの額の傷を見せるんだ!」
アンソニーのその一喝は、生徒に対する嫌味などとは桁の違う、吹き飛ぶような迫力を持っていた。
「時間があればあなたの母性にいくらでも付き合って子供も見よう。だが今は、他に一刻を争うものがいるかもしれないんだ!」
それから彼はソフィアとエイミーを振り返った。ものすごい剣幕で怒鳴りつけた。
「女学生諸君、患部の露出はできたのか!?ここには看護師はいない。学生など力にならんことは百も承知だが、やる気があってここにいるならできることはさっさとしろ!」
「今やります!」
エイミーは手にした鋏で男性の服の袖を切り取り始めた。うかつに腕を動かすと男性は大きく呻く。たぶん服を脱がすことは不可能だろう。
「教授、わたしは何をすれば」
アンソニーはソフィアをにらむように見据えた。
「君はシナバーだったな」
「はい」
「よし、とにかく怪我をしている人間に話しかけろ。受け答えがはっきりしているものや歩けるものはとりあえずいい。もっと医者が来てからでも間に合う。意識が朦朧としているものがいたら教えろ」
「はい」
ソフィアははっきりと返答する。だが振り返った足がすくんだ。
ソフィアにはいままで見たことないほど大勢の怪我人だ。混雑している状況をさばいている医師であれば、ヒューゴのもとで何度か見たことがある。でもそれはほとんどが風邪引きの病人だ。これほどに危機的な状況はソフィアには初めてだった。
アンソニーの言うことはあまりにももっともだった。
学生なんてこの場ではまったく力にならないのだ。だってまだ自分が何をすべきかもわからない。彼だって本当はわたし達の力などあてにしたくもないのだろう。
でも今、この一瞬、なにができるのかを考えて、彼は最善を選ぼうとしている。
最善とは。
ソフィアは唇を引き結んだ。考えている場合じゃない。配給血じゃない血の匂いにおびえている場合じゃない。
クイン教授はわたしにできることとしてこれを頼んでくれたのだ。
ソフィアはとりあえず目の前にいた少年の前に座り込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫。でもすごく腕が痛いよ」
ちらりとその患部に目をやったソフィアは思わず息を詰まらせる。その腕は確かに痛々しく腫れ上がっていた。
できることならすぐに抱きかかえて病院に連れて行ってあげたいと思う。でも彼はおそらく骨折であろうと思われるその怪我以外は大丈夫そうだ。
「もうすぐ、お医者さん、来るから」
ソフィアは彼を落ち着かせるように丸い頭をなでた。
たった一人、話しただけなのに、息が詰まりそうだ。背中にはじっとりとした汗がこんな寒い季節だというのに浮かんでくる。自分の判断が正しいのかもわからない。でも自分はまだ医師ではなくアンソニーの指示下にある以上勝手はできない。
「すぐに来るわ。待ってて」
ソフィアはそういうと、隣の老女に目をやる。
「大丈夫ですか。わたしの言っていること聞こえます?」
ソフィアが大きな声で問うと老女は目を開けた。ぐったりとしていた彼女だが目を開いた。
「ああ、いったい何が起きたのかしらねえ。ねえ、一緒に来ていた孫を探してくれる?」
老女は教会近くの入り口に座って動くことができない。しかしそれが怪我なのか気力の問題なのかはわかりかねた。エイミーが袖を切った男性のところでアンソニーは患部を見ている。
「ねえ、孫が」
老女に指先を握られ、ソフィアはその手を安心させるように握り返した。
「お孫さんですね」
「ええ、そうなの。まだ十歳なの。シナバーなんだけどはぐれてしまってとても心配だわ」
「シナバー……」
ソフィアはあたりを見回した。
「おーい、怪我人だ!」
教会の崩れた残骸の周辺にいた人々から声が上がった。あの場所では無傷ということは考えにくい。ソフィアはとりあえず老女を置いてそちらに向かった。横たわっているのは幼い男の子だった。
あっ、とソフィアは息を呑む。彼がシナバーだとわかったのだ。今の老女が言っていた孫かもしれないと思う。
少年はぐったりとしていて身動きしない。瓦礫の下から引きずりだされたようで、両足から出血している。駆け寄ったソフィアが声をかけてもまぶたは動かない。ただ、呼吸はあるようで小さな胸が上下していた。
ソフィアは老女とアンソニー、両方に視線をさまよわせた。
この少年はシナバーだ。もしかしたら後回しと言われるのかもしれない。それに、わたし自身、彼を同属ということで贔屓していないだろうか。
だがソフィアは大声で呼んだ。
「教授!こちらに来ていただけますか?」
何もわからないのなら、忠実に言われたとおりやってみるしかない。ジョンのようにずば抜けた頭脳でも持っていれば違うかもしれないけど、わたしは凡人だ。
でも。
迷うソフィアのほうに、男性の怪我を見終わり、簡単な止血だけしたアンソニーが走ってきた。少年の様子を見るや否や、服が汚れるのもかまわずに地面に膝をつき、耳を胸に近づけて心音を聞く。そして悔しそうに顔を上げた。
「……だめだ、女学生。次に進もう」
「……いいえ!」
ソフィアはよろよろと立ち上がって、こちらに向かってくる老女に気がついて言った。
「この子はシナバーです。まだ助かるかも!」
ソフィアは先日習ったばかりの救命救急法の授業を思い出す。胸のほぼ中央、心臓の上に手を置く。胸骨を破壊してしまわないように気をつけて力を抜いて圧迫する。繰り返し、決められた一定の速さで。
「シナバーなのか?」
胸骨圧迫法を始めたソフィアには話をする余裕はあまりない。
「この子のおばあさんが言ってましたし、わたしもそう思います」
ソフィアの答えを聞くなりアンソニーは自分の鞄に飛びついた。細い注射器ときわめて小さなガラス瓶を出す。
「準備するまで頑張ってくれ」
アンソニーが用意しているものが強心剤だということはわかった。普通の人間であれば亡くなっている以上打つ意味はないと判断したであろう。しかもこの緊急時だ。でも、少年がシナバーであると知って、可能性に賭けている。脇では少年の祖母が悲鳴混じりに名前を呼んでいた。
アンソニーの真摯な表情に、ソフィアはふと思う。
この人は、本当は臨床にいたいのではないだろうか。馬鹿で未熟な学生に授業を教えているんじゃなくて。
「どきたまえ、医学生」
ソフィアをどかすと、アンソニーは躊躇なく少年の心臓に強心剤を直接打ち込んだ。薄い胸を貫き、小さな心臓に注入する。
アンソニーが注射を引き抜いた瞬間、大きく息を吸い込むようにして 少年がのけぞった。そのまま自発呼吸を取り戻し、何が起きたかわからないという顔で、空を見つめている。老女がソフィアを押しのけて少年に抱きついた。
「ソフィア!」
ソフィアに抱きついたのはエイミーだった。
「よかったね!」
なんだが呆然としてしまい、うまく感情が出せないソフィアだが、とりあえずエイミーを抱きとめる。
息を、吹き返したんだ。
……ああ、よかった。
おばあちゃんが悲しまなくて、よかった。
よかった。パトリック・スピアの薄暗い計画に、一矢報いることができたんだ。
まとまりなくそんなことを思う。
そんなソフィアの耳に入ってきたのは応援の医者や看護師達の声だった。だが、もうひとつ。
「行こう、女学生諸君。応援が来たとはいえ、まだまだ怪我人は多い」
アンソニーは喜んでいるそぶりもなく、淡々と言う。だがソフィアはもうこの男性があまり怖くなくなっていた。




