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キスと弾丸  作者: 蒼治
2 湾岸倉庫火災事件
27/53

9

 ソフィアはまずいと慌てて窓から離れる。あたりを見回しても何も無いベランダには隠れる場所がない。飛び降りてきた屋上に戻るには手がかりがない。サムが近づいてくる気配がしてソフィアも焦る。しかたない。

 ソフィアは一か八か、そっとベランダの手すりを越えた。そのまま、いくらか離れた隣の部屋のベランダに着地する。壁に張り付くようにしてうずくまった。とたん、ロバートの部屋の扉が開いて、サムが顔を出す。


 やはり、あの朝、このホテルのダイニングでロバートと話をしていた若者だとソフィアは確信した。しかし、あまりじろじろとも見られない。こちらに気が付いてくれるなという祈りが強い。

 サムは一応辺りを見回したが、隣のベランダでうずくまっているソフィアには気が付かなかったようだった。窓は閉められ、カチャリと鍵の閉まる微かな音が響いた。ようやくソフィアは息を吐く。


 サムの後ろにはロバートが居て、二人が銀朱原罪主義であるということは確信が持てた。

 だが、これからどうするべきかがわからない。

 例の計画、と彼らは言った。

 何かを企んでいるのかもしれないが、それ以上のことはわからなかった。そもそもシナバーに関することかどうかも不明だ。ルヴァリス公爵は有名で多忙な人間だ、国内の様々な事象に関わっている。例の計画とやらも、ただ普通の事業かもしれない。


 それに、銀朱原罪主義だけでは、何も訴えられない。

 ソフィアは命を狙われたが証拠もないのだ、今話を聞くことはできたが、それを立証する手段がない。しらばっくれられたらどうしようもない。相手は公明正大な人格者のロバート・メリベル。ルヴァリス公爵だ。一介の学生のソフィアに太刀打ちできないだろう。


 ソフィアはとりあえずここから逃れなければと考える。

 屋上には登れない。ここは地上六階だ。さすがに何も考えずに飛び降りたらシナバーとて怪我くらいしそうだし、何より目立つ。

 ベランダで逡巡しているソフィアだが、突然、先ほどまで真っ暗だった客室の明りがついた。はっと息を飲んだ瞬間に身を隠すまもなく、ベランダの窓が開いた。思わず凍り付いたソフィアは顔を出した人物を見て、息を飲んだ。


 無言で自分の唇に指を一本当てて静寂を示したのは、前にソフィアが大変な目に合った事件の際、知り合った男、アーサーだったのだ。

 前回会った時は見事な白髪だった彼は、今は明るい茶色に髪を染めていた。こうしてみるとただのハンサムな壮年の男性に見えるが、彼は実のところ、建国王なのだ。三百年前の歴史的存在だが今もこうして実在している。


 アーサー!?という言葉を飲みこんだソフィアをアーサーは手招きして部屋に入れようとする。ソフィアには正直選択肢がない。

 そっと彼の部屋にもぐりこんだソフィアは、そこでまた驚くものを見た。

 部屋はまったく無灯だったわけではなく、入ってみれば小さな蝋燭の明りがいくつか灯って揺れていた。背後でアーサーが窓をきちんと閉める音がしたときにはソフィアは一応遠慮しながらも驚きの声を上げていた。


「ジョン?」

 むっつりと、不機嫌極まりない顔で、ジョンがソファに座ってソフィアを見ていたのだった。

「どうしてここに?」

「それはこちらの言葉だ」

 ソフィアは目をしばたかせた。

「ソフィア。久しぶりだね。いや、まさか再び君と関わることになろうとは、さすがの私も想像していなかったわけだが」


 ジョンになんと言おうか考えていたソフィアの沈黙に割り込んだのはアーサーだ。かちゃかちゃと触れ合う食器の音に振り返ってみれば、見事な青の彩色がされた磁器のティーポットから、彼はお茶を注いでいる。

「まあ、ゆっくりしていってくれたまえ。お茶をどうぞ」

 まさか建国王の手からお茶を受け取ることになろうとは。

 ソフィアは唖然としながら、その優雅な微笑を崩さない彼からカップを受け取る。繊細な花模様の描かれたカップは芸術品のように美しい。


「ジョンもおかわりはどうかい?」

「もう結構」

 しばらく前から二人はここで話をしていたようだ。だが、ソフィアにはそれこそが驚きだ。

「ジョン、アーサーと連絡を取り合っていたの?」

「まさか」

 ジョンは肩をすくめた。


「僕だって一生関わる気はなかった。でも銀朱原罪論者が出てきては黙ってはいられない。古いが情報通の人間に話を聞くくらいする。使えるものは親でも使う。建国王ごとき遠慮する意味は無い」

「私をこうも気楽に呼び出すものなど、君くらいだ。ジョン・スミス。君の曽祖父殿だって君ほどずうずうしくはなかったぞ」

「どうやって連絡をとったの?」

「前と同じさ。ダメもとで、王立美術館の受付に頼んだ」

まったく迷惑な話だよ、とぼやいてにアーサーは苦笑しているが、その表情からするに、本心から迷惑がっているようでもない。


 もしかしたら、アーサーはジョンを気にいっているのかもしれない。そんなふうにソフィアは思う。だから彼の呼びかけにも応えたのだ。もちろんそこには、ジョンはアーサーがかつて愛した女性の末裔であるということもあるのだろうが。


「嫌なら出てこなければいい。だが僕はあなたが老齢と退屈でぼけてしまわないように刺激を提供しているつもりだ。いわば孤独な老人に対する慈善だよ。感謝してもらってもいい」

 アーサーの好意を助走をつけて蹴飛ばすジョンに思わず気が遠くなる。この人目の前の人が偉大な建国王だってこと忘れているのかしらと頭痛がするほどだ。


「そうか、気遣いは実にありがたい。では私もまだ尻に殻をつけたままのひよっ子が無謀なことをして大怪我しないように見守らなければなるまいな」

 やめて、わたしの目の前で胃が痛くなるようなやりとりしないで。

 ソフィアは無言で紅茶を飲む。あなたがたの面倒くさい会話には介入しませんという意思表示である。


「ちなみにひよっ子には君も含むのだよ、ソフィア」

 アーサーの冷ややかな声に紅茶を吹きそうになった。

「え、あ、わたしもですか!?」

「あたりまえだ!」

 なぜかアーサーだけでなく、ジョンまで声が重なってソフィアを糾弾してきた。

「なんで?」

「なんでじゃない。どうして君は、ルヴァリス公爵の部屋のベランダに居たんだ」

「あ」

 アーサーの存在を目にしてしばらく忘れていたが、そういえばここに至るまでにはそんな経過があったのだった。


「えっと……というか、じゃあジョンもアーサーも隣がルヴァリス公爵だって知っているってことよね」

「質問に質問を返すな」

 ジョンは相変わらず機嫌が悪い。アーサーのせいかと思っていたが、もしかしたらソフィアのせいもあるのだろうか。

「えーと」

 ごまかすのもちょっと無理があるとソフィアはしぶしぶ観念した。ざっと説明したのは自分がまた襲われて逃亡に成功したが、頭にきたので追いかけて来たということだ。

 ソフィアの言葉が終わるいやいなや、深いため息が二つ部屋に響く。


「なんでそんな危ないことを」

「危なくないわ。つけただけだもの」

「ソフィア」

 アーサーはテーブルに寄りかかっていたがゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。そのままソフィアの前の深く豊かな色合いの織物が張られたソファに座る。


「銀朱原罪論者は結局のところ人間だ。シナバーがそれを信奉することはまずないからね。だから君が誇りを持って彼らを侮るのはわかる」

「侮ってなんて」

「侮っているとも。普通の女性は男性に命を狙われて、からくも逃げられたその直後に相手を追ったりしない。それをするのは君が自分をシナバーだとわかっているからだろう?もちろん君は強い。狂信者ごときにそう簡単に負けはしないだろう。だけど彼らはその主義を全うするために、シナバーに対して戦う術を知っている」

 アーサーにとくとくと自分の無茶を示されているうちにソフィアはだんだん顔を上げられなくなってきた。


「君が射抜かれた話は聞いた。彼らはシナバーとの接近戦は避ける。自分達が不利だと知っているからね。だから矢を用いたんだ。昔からそうだ。今はもっと扱いやすい武器……銃が発達してきている。やがて彼らは我々を簡単に倒す術も見つけるだろう。今もう見つけているかもしれないのだ。君も用心したまえ」

「……はあ」

 ソフィアの微妙な反応に、アーサーは次の説教の言葉を捜しているようだ。


「……でも、アーサーもルヴァリス公爵が銀朱原罪論者だって気がついているってことですよね。どうするつもりなんですか?」

 説教の言葉をくじかれてアーサーは眉を寄せる。

「だから僕は言ったんだ。仮にも王国の影の権力者なんだから、さっさとロバート・メリベルを暗殺しろと」

 口を開いたとたんとんでもなく物騒な言葉を撒き散らしたジョンにソフィアは顔を向けた。


「あ、あのねえジョン。王国と言っても今は議会があって、そんなふうに権力者の一存で人の命を奪うなんて許されない時代なのよ」

「もちろん暗殺は考えた」

「アーサー……!」

 さらっと言った建国王はさすがに血で血を洗う戦乱時代を生き延びただけあると妙なところで関心してしまう。


「でもできないし、しない」

「どういうことだ?」

「それは状況を悪化させる可能性がある。ルヴァリス公爵は篤志家で現代の王家の信頼も厚く、領民からも慕われている。言うまでもないが、彼の手の内にある銀朱原罪論者達からも絶対の忠誠を得ている。彼の死は、そういった人々を団結させるだろう。もしルヴァリス公爵が銀朱原罪論者であったことが公になったらなおさら悪い」


「え、どうしてですか?銀朱原罪論なんて時代遅れの野蛮な思考じゃないですか」

「そうじゃない、と考える人間もまだ一定数いるんだよ、ソフィア」

 静かな声で感情を見せずアーサーは言った。

「信頼厚いルヴァリス公爵が不審な死を遂げる。彼が銀朱原罪論者だとわかる。もしかしたら彼はシナバーに殺されたのではないかと考えるものは湧きだす。やはりシナバーは邪悪だ、そう結論付ける人間が増える可能性も高い」


「……あ」

「だから私は彼を堂々と裁きたい。彼の成したことは悪であるとして世間に知らしめなければならないんだ。彼を偉大な殉教者にしてはならない」

「その証拠を探っているの?」

 アーサーはそこで皮肉っぽい笑顔を見せた。

「だから、私とジョンの利害は今回それなりに一致しているんだ」

「そんなことだろうと思っていたよ」


 視線を合わせない子供っぽい態度のジョンにソフィアは気がつく。

 この二人、どこか根底では似ているのかもしれないと。

 ジョンは奇天烈だしアーサーは物腰穏やかな紳士だが、二人ともその表面の下に流れているのは恐ろしいほどの合理主義である。

 ……似ているから素直になれないのかもしれない……と余計絶望的な気分になったが。


「ルヴァリス公爵は基本的にあまり領地からでない。彼の領地では私が目立ちすぎるから潜入できない。だから今回はいい機会だったんだ。どうも彼が関わっているらしい事件もあるし」

 ジョンはそのことをすでに聞いていたらしい。彼がその後を続けた。


「パトリックが殺された港の倉庫があるだろう?」

「ええ」

「あの近隣の倉庫には、鉄道会社が工事のために仕入れた火薬が大量に一時預けられていたんだ。それがパトリックが殺される直前に消えた」

「消えた?」

「盗まれたんだ。アーサーがその実行犯を捕まえたがそいつはただのコソ泥だった。すでに別の人間に渡されてしまっていてそれが誰かはわからないが、その連中の会話の中でルヴァリスの名が出たのを聞いた人間が居る」

「火薬でなにか企んでいるってこと?」

「そう。ちなみにそのコソ泥連中の中にはサムも居た」

「……サムは何か知っているのね」


 先ほどやはりつかまえて問いただせばよかったとソフィアは少し後悔する。

「ちなみにサムを尋問しようなど考えないことだ。ブレイク嬢」

 考えていたことを当てられてぎくりとする。

「それは若い女性のすることではないよ」

「はあ」

 また煮え切らない返事をしてしまった。

「まあ、そういう事情もある。それにジョンからも頼まれたことが別に一件あるからね。今回はまた君達に関わらせてもらうよ」

「別の一件?」

 ソフィアが首を捻るとアーサーはジョンに視線を移した。そのまま無言で彼を眺めている。

「……その件についてはソフィアに言うことでもない」

 ジョンが短く不機嫌に答えた。


「そうか、君がそういうのなら」

「なんだかちょっとわたしが気になるんですけど」

「ブレイク嬢。君は試験のことを考えていればいいのだ」

「あっ」

 嫌なことを思い出させられてしまった。

「そ、そうね、勉強しなきゃ。単位がかかっているんだもの……」

 ソフィアは脇に置いてあった鞄をつかむ。


「そろそろ帰るわ。ジョンはどうするの?」

「僕はまだアーサーと少し話がある」

「そう、じゃあわたしは帰るけど、二人とも喧嘩しないでね」

 喧嘩?とアーサーは目を見開いた。建国王に向かってちょっと失言かしらと思ったが、この二人が仲良く和やかに話をしているというのも考えにくく、思わず口から出てしまった。一瞬ぽかんとしたアーサーだったが、嬉しそうも見える優しい微笑みを浮かべた。


「……懐かしいことを言われた」

「なにかしら」

「アンジェリーナは、私とジョン……、初代ジョン・スミスに対していつもそう言っていたよ。彼女の空の色の綺麗な目がきらきらしていたことを、今、鮮明に思い出した」

「わたしの目は青くないのに?」

「そうだね。ソフィアの瞳は晴天の空の下の若葉だ」


 褒められているのだろうか、それとも彼は記憶のアンジェリーナを慈しんでいるのだろうか。

彼の言葉の意味を図りかねてソフィアは一瞬言葉をなくす。アーサーが次の言葉を選んで口を開きかけた時、ジョンがぶっきらぼうに会話に割り込んできた。

「ソフィア。ルヴァリス公爵に見つからないように。多分彼は部屋にいると思うが裏階段から行ったほうがいい」

 極めて現実的な忠告にソフィアは現状を思い出す。そうだった、今はアーサーの思い出話を聞いている場合ではなかった。

「わかったわ」

 ソフィアはジョンの忠告をありがたく受け取るとそっと部屋を出たのだった。

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