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別にジョンに会いたいわけではなく、ヒューゴにお礼をしなければということがずっと心に引っかかっていたのだった。
ヒューゴのことだからあれきり姿を見せないソフィアを心配しているかも知れない。それも気がかりだった。ところがソフィアの心配は空振りに終わった。
ヒューゴの家の前に辿り尽きたところで、ヒューゴとジョンが出かけようとしている場面に行き会ったのだった。まだ真昼である。ソフィアは午後の講義がたまたま休講になったのでこれが機会だと慌ててきたのだが、ヒューゴはいつもならまだ診察している時間である。
「ヒューゴ、今日は診療所はもう閉めるの?」
ソフィアの声に、気が付いた二人は振り返った。
「やあ」
ヒューゴは嬉しそうに微笑みかけてきた。
「ソフィア、元気そうで何よりだよ。怪我の様子は大丈夫かい?」
いつもながらの温かい言葉。でもそれはソフィアの予想とは少し反している。もっと「心配していたんだ、怪我の具合を見せに来なきゃダメじゃないか」とか、小言を言われると思っていたからだ。それにあれきりだったジョンも、さほど気にしていないようだ。
ほらね、別にジョンとわたしの間にはなにもないのよ、エイミー。
なんて今ここにいない人間に胸をはって説明したくなる。
「このあいだはありがとう。お礼を言うのが遅くなってしまったわ」
ソフィアのそばまでやってきたヒューゴはソフィアの肩を一度見つめた。
「お礼なんていいんだよ。でも痛みとかもないのかい?」
「ええもちろん」
それからソフィアはなぜか先ほどから押し黙っているジョンにも声をかけた。
「ジョンもありがとう」
「……僕はお礼を言われるようなことはしていない」
「あなたがそう思っていても、わたしは嬉しかったのよ」
ソフィアの言葉にジョンはしばらく目を泳がせてから不機嫌そうな顔をする。
あら何か気に障ることでも言ってしまったかしら……と考えたが、それより二人の外出の理由が気になった。
「それでどこに行くの?」
そういうとヒューゴはなぜか後ろめたそうだった、ジョンは堂々としているが、なにか不穏な空気を感じ取ってソフィアは眉根を寄せる。
「……どこに?」
鋭く追及したソフィアに、ジョンは肩をすくめて、でも悪びれずに言った。
「ちょっと、パトリック・スピアの死を調べにね」
「はあ?」
先日聞いた不吉な事件にまつわる死の名。ソフィアは二人を問い詰める勢いで尋ねる。
「どういうこと?」
「ちょ、ちょっとね」
言い訳がましいヒューゴを省みず、ジョンは堂々と答える。
「パトリック・スピアの死には不信な点が多い。ちょっと現場を見てこようかと。そのついでに、会って来たい人が居る」
「会いたい人?」
ヒューゴは諦めたように口を割る。
「……パトリックは、死の直前に会っていた人間がいるんだ。サム、という若い男なんだけど、彼について知っている人に会ってこようかと」
「ああ、それは僕が行ってくるよ」
ソフィアは呆れ顔を隠すことが出来ない。
「なんだか変な事件に首を突っ込もうとしているようにしか思えない」
先日、好奇心で変な事件に首をつっこんでひどい目にあったソフィアは、全身で警告を表現してヒューゴをみつめる。その視線の意味はわかっているようなヒューゴだが、言い訳もしない。行く決心が付いているのは間違いないようだ。
「……じゃあ、わたしもいく」
「ソフィアはいいよ!」
ジョンとヒューゴの声がかさなったがお構い無しにソフィアは二人を先導するかのように歩き始めた。
「よくないわ。わたしだってヒューゴが心配なのは変らないもの」
ソフィアも遠慮しているのだ。
ヒューゴのことは心配だが、あまり近寄りすぎると、ヒューゴの再婚の縁が遠のいてしまうのではないかと。
「私は事故現場へ、ジョンはサムの知人のところに行くんだ」
ヒューゴの説明にソフィアは二人の顔を見比べる。
「じゃあ、わたし、ジョンについて行くわ」
非常に消去法だが、ソフィアはそう宣言した。ジョンだけが不満そうに言う。
「来なくていいよ危ないから」
やあね、とソフィアはジョンのがっしりした二の腕を軽く叩いた。
「危ないならなおさら行くわ。一応あなたの用心棒をしていたこともあったし」
「ソフィア。行くのは港の倉庫街近くの酒場だよ。君が行くような場所じゃない」
ヒューゴが困ったように言ったが、ソフィアはもう行くことに決めていた。本当はヒューゴと一緒に行きたいが、ジョンの目的地のほうが治安が悪いなら仕方ない。彼を守るほうがいいだろう。
「試験勉強の気分転換ぐらいさせて」
「サムと知り合いだというのなら、金返すように伝えてよ」
サムの知人というのは港の外れにある場末の居酒屋の女だった。磯とオイルの臭いが立ち込める古びた建物の中だ。まだ時間が早いがすでに店には昼から飲んでいて酔いつぶれた客がテーブルに突っ伏しているような店だった。
女はまだ若く、大きく胸の開いたドレスを着ていてソフィアは視線のやり場に困る。彼女の顔色は悪く、煙草を持つ指先はかすかに震えていた。アルコール依存症の気配を感じて、ソフィアの心はすこし落ち着かない。
「では君は、サムの行方は知らないと?」
居心地の悪さを感じているのはソフィアだけのようで、ジョンはいつもどおりだ。堂々としているがソフィア以上にこの場で浮いていることに彼は気が付いているのだろうか。
「知らないわ」
薄暗い店の中で白煙の一筋が立ち上がった。女は煙草を灰皿に強く押し付けた。
「この店にあいつのツケが結構あるのに、最近顔を出しもしない。あいつの言葉にのったあたしもバカなんだけどね」
「言葉とは?」
「なんか、いい金儲けになりそうなものがあるって。だから払いは少し待ってくれって言っていたわ」
「それはどれくらい以前?」
ジョンの言葉に不愉快そうに酒場女は眉をひそめる。
「ねえ、あんたなんなの?」
質問には答えず、ジョンを探りにかかっている。もしかしたらサムが言った儲け話が犯罪がらみで、自分がそれに関わったと思われるのが嫌なのかもしれない。しかし凡庸な十代の娘と、無駄にゴージャスな王子様みたいな男の二人組が一体どういう存在だと思われているのだろう。
「僕もサムに金を貸している立場の人間だ」
ジョンはしれっと嘘をついた。
「おそらく君ほどでは無いだろうがね。ああ、そうか、酒場で何も頼まないというのは失礼だったな。申し訳ない。ただ、今は特に飲みたくないんだ。君が代わりに飲んでくれ」
酒代、というにはあまりある金額をジョンは彼女に差し出した。酒代にするもしないも彼女の自由、つまりは懐柔である。結構な額に女の機嫌は目に見えてよくなった。
「あら、そんな気を使わなくなっていいのに。ああ、そうなの。あんたは羽振りが良さそうだからあたし以上に巻き上げられていると思ったわ。本当に、あいつはロクでもない男よ」
女は吐き捨てた。
「弱い奴を利用することも全然ためらわない。まあこんなところでそんな迷いがあってもなんに役にも立たないけどね。いろんな噂話には強かったわね。それで恐喝まがいのこともしていたらしいわ。今回もそんな口じゃないかと思ったけど」
「結構危ない橋も渡っているようだな。ちなみに彼から、パトリック・スピアという名を聞いたことは無いか?」
女はそこで始めて驚いた顔をする。
「ちょっと、あたしだってその名前くらい知っているわ。この間、倉庫街の火事で死んだ司祭でしょ?なんでサムが彼と繋がっているのさ」
一拍置いて女は、ああ、と短く小さな悲鳴を上げた。
「まさか、サムがスピア司祭を殺してしまったとでもいうのかい?」
彼女の声にある悲嘆は、サムではなくパトリックに向けられたものだった。
「司祭はそれはそれは立派な方だった。あたしらみたいな貧乏人にも、信仰の大切さを教えに来たよ。最初は皆馬鹿にしていたんだ。あの人の所属は聖ヴァレリー大聖堂だろ、一番優秀で偉くなる可能性のある司祭様だ。そんな頭でっかちな奴なんてどうせ途中で投げ出すか逃げ出すだろうって。でもどんなに馬鹿にされても絶対来ることをやめなかったんだ。金持ち連中から寄付を募ったり、自分から率先して子供連中に読み書きを教えていたりもしたよ。それに病人が出た時も、どこかから医者を連れて着てくれたりして。あの医者も若いのに立派な人間だよねえ。そうだ、ウィルシャー先生だよ。この辺りの人間で、スピア司祭とウィルシャー先生のことを知らない人間なんて居ない」
それ、片方はわたしの大好きな人です!
ヒューゴの良い噂を聞いて、一応大真面目な顔をしつつもソフィアは内心にこにこしてしまう。ヒューゴの苦労は察してあまりあるからこそ、誰かがそれを認めてくれるのはとても嬉しいのだ。
「もし、サムがスピア司祭様を殺してしまったなら、あたしは絶対あの男を許さないよ。地獄に落ちてしまえばいいのに」
そこで、女ははっとしたように、ジョンとソフィアを見た。
「でも、この話はあまり大勢にはしないで欲しいよ」
サムを庇っているというわけではなさそうだが、女は恐れを口にした。
「それはどういうことで」
「サムには妹がいるんだ。まだ小さくてね。キャスって言うんだけど、あのロクデナシな兄に似ないで、とてもいい子でね。サムは大して面倒も見てなかったけど、兄のせいで誰かから逆恨みされたら可哀想だ」
ふむ、とジョンは興味深そうに頷いた。
「キャスに会いたいんだがどうすれば?もちろんキャスになにかする気は無い。ただ、話を聞きたいだけだ」
「サムがしばらく帰ってこないから、この辺りの連中でなんとなく世話を焼いているよ。でもこのままずっとというわけにはいかないしねえ……」
女からキャスの居場所を聞き出すと、ジョンとソフィアは酒場を出た。店を出たところでソフィアは我慢していた咳をしてしまう。煙草と酒の匂いで息が詰まりそうだった。
「このままキャスに会いに行こう」
舗装もされていない道路はぬかるんでいた。水たまりを避けて歩きながら会話する。
「いいわ。でもサムの話よりもスピア司祭の話のほうが沢山聞けたわね」
「そうだな。ヒューゴは僕の友人でいられるくらいお人好しだから、大抵の人間は褒める。だからパトリック・スピアの評判も、五割り増しくらいだろうと思って考えていたが、実際にとても立派な人物だったらしいな」
「ねえジョン、あなたどうして自分のことわかっているのに変わらないの?」
そんな相変わらずの余談を交えつつ、二人は三区画ほど離れた場所まで足を進めた。サムの妹のキャスはこのあたりで女達がかわるがわる見ているという話だったが。
「いない?」
道の端で日に当たりながら世間話をしていた三人の老婆達は、ジョンとソフィアにそう告げた。
「居ないって……」
しわがれた声で、老婆がゆっくりと説明する。
「ちょうど昨日の晩に、サムが迎えに来たよ」
「サムじゃないよ、サムの使いだよ」
「夜遅かったね。慌しかったよ」
そこから老婆達は、口々に勝手に喋り始め、なかなか話が進まない。ジョンが大声ですみません、と呼びかけても聞こえないのかおしゃべりに夢中だ。
ソフィアは椅子に腰掛けている老婆たちの前でしゃがんで目線を合わせた。
「あの、なにか言ってました?」
ゆっくりと、聞き取りにくくないようにはっきりと喋るとようやく質問に答えてくれる。
「ああ、田舎にいくとか言っていたねえ。当てが出来たとか」
ソフィアは立ち上がってジョンを見た。
「田舎って……」
「彼は、大金でも手に入れたのか?」
ともかくここまでで手がかりを失ってしまったソフィアとジョンは仕方なく、帰途に着いた。
ソフィアを帰宅させた後、診療所まで戻ったジョンをヒューゴは迎え、二人は互いの報告をすることになった。狭い診療所の中でヒューゴの用意した茶を飲む。
ジョンが普段飲んでいるものからすれば、数段劣る茶葉であろうにジョンはそういったことに不満を漏らしたことが無い。ジョンは贅沢に怯むことも無いが、質素なものを侮蔑することも無いとヒューゴは考えている。ヒューゴはかつての自分を思い出す。駆け落ちして、シンシアと一緒になったが、伯爵家次男としてもともとは貧困とは縁遠かった。シンシアがいなければ到底そんな暮らしは我慢できなかっただろう。
きっとジョンは一人であっても、まあこんなものかと受け入れるはずだ。予想されるその図太さはなんだか頼もしい。
ソフィアの住居をひどく言ったらしいが、ただそれは侮蔑ではなく本当に率直な感想なのだ。
さすがにそれはどうかと思うけどね、という感想を抱くヒューゴだが、ソフィアにジョンの擁護をする気はない。
きっとそのくらいソフィアももう分かっているだろうから。
「結局港倉庫の火災現場にはなにもおかしなことは無かったよ。燃え上がったために野次馬がいっぱいいたからね、目撃者も多かったけど、深夜のことで気がついたら火事になっていたらしい」
「そうか、僕達のほうも謎が増えただけだ」
お互いに報告しあうが、目新しいことは何も無い。
おかしいとは思っている。パトリック・スピアは優秀な司祭だ。あんな寂れた場所になど立ち寄る意味だって無い。それなのにそこで死んだ。
ヒューゴにはどうしても納得できない。
それは自分の気持ちの問題だということもわかっている。ともかく彼はそこで亡くなったのだ。その事実にヒューゴの了解は必要とされていない。
ただ、自分が受け入れられないだけで。
それ以上考えると自分の無力さに苛立ちを覚えそうで、ヒューゴは話題を変えることにした。
「ソフィアもここに寄るかと思っていたけど」
ヒューゴが水を向けるとジョンは持っていたカップの水面につまらなさそうな表情を写した。
「……試験期間中とのことだから帰る様に言った」
「てっきりここで話をしたあとジョンはソフィアを食事に誘うかと」
「その予定だったが。だが試験中だ」
ジョンは憤懣やる方ないとの様子で繰り返す。
ソフィアの都合を斟酌するようなったあたり相当の成長だとヒューゴは思う。
この間のジョンとの会話を思い出した。
『なぜソフィアは僕の訪問に困った様子なのだろう』
いつものように診療の終わったヒューゴの診療所にやってきたジョンはそんな風に珍しい愚痴をこぼしたのだった。
『困っているということはないと思うけど?どうしてそう思う?』
『今まで僕の回りにいた若い女性は、僕からの贈り物に困惑することなかった』
『それはもちろん君のお母上が用意した贈り物だよね』
ジョンもこんな変人だが社交界に加わらずにはいられない立場だ。当然権力者とも知り合うし、権力者の身内の女性に親切にすることも必要になってくる。
しかしジョンがそういったことにまったく興味を持っていないことは明らかだ。どうしても立場的に贈り物をしないといけない時には彼の身内の女性が準備していたのだろう。母親とか時には亡きケイトが。
女性が選ぶ女性へのプレゼントだ。そうそう外すことは無い。それに貴族や富裕層の令嬢達も受け取って当然と考えている。
ソフィアへの贈り物は、ジョンが自ら考えたもので、そしてソフィアは理由も無く与えられる事に疑問を抱く頑なさを持っている。
ジョンはもう少しソフィアを慮らなければならないだろうし、ソフィアも笑って受け取る可愛げが必要だろう。
『ソフィアへの贈り物も誰が女性に相談したらどうかな。いつものように君の母君とか』
ヒューゴの指摘が適格だということはジョンも分かっているはずだ。彼は冷静に自分のことを評価できる。だがジョンはその提案に渋い顔をした。
『そうすべきとはわかっているが』
『嫌なのかい?』
『ソフィアのことを尋ねられたくない』
おや、とヒューゴは笑いそうになった。
無頓着の権化のような彼でも秘密が……女性のことで秘密を持ちたがるとは。実に立派な成長である。
『ソフィアは君とって特別なんだな』
ヒューゴがからかい気味に言った言葉にジョンは目をしばたかせた。特別、の意味を真剣に考えているようだった。
『……そうかもしれない』
ヒューゴは自分とほぼ同じ年なのに、いままでまともな恋愛をしたことの無い彼に次になんというべきか悩んだ。
君はソフィアが好きなんじゃないかな?
言うのは簡単だ。それでジョンが自分の感情を向き合うのなら友人として一定の責務を果たしたことになる。
しかしそこでヒューゴはふっと話を別のことにずらしたのだった。
……そこまで踏み込むことにためらったというのもあるが……。
なんかこのまま放置して自分達で何とかしたほうが、見ているほうが面白いな。そうだソフィアをちょっとつついてみよう。
という気持ちがあったことも否めない。
貧困地域で自分もやっと生活できるような環境に身をおきながら、診療を続けており、その人徳には定評のあるヒューゴ・ウィルシャーも友人の恋愛を面白がって眺めたい野次馬根性くらい持っているのだ。
そんな会話をしたことを思い出しての今日のジョンの決断だ。
ソフィアの都合を考えるジョンに今までに無い彼を見出す。
自分がシンシアと出会って全てを捨ててここに来たのは愚かとも言える恋の力だ。それだけではないけれど多くの行動力がそこから生まれてきた。
ジョンとソフィアはどんな力を得るのだろう?
ソフィアはすっかり暗くなってしまった校内に出た。ソフィアと同じように遅くまで残っていた学生達も次々図書室から追い出されてくる。重い鞄を持ち直してソフィアは校門に向かった。
一応試験勉強は進んでいるが、やはりエイミーの件や銀朱原罪論者のことが気になってなかなか集中できない。なにより困ったのがクイン教授の講義だ。もともと難しい講義だが教授が一体どんな試験を出してくるのか予想できない。
帰ったらエイミーとよく相談しなきゃ。
ソフィアは出来ればあの講義は落としたくないと考えながらのろのろと歩く。
……次の瞬間、気配を感じていた。
まさかと思う。大学内で、狙われるなんて。
だが考えるより先に、ソフィアの身体は動いていた。彼らがなぜソフィアを執拗に襲うのか、そんなことに頓着している余裕はなかった。
ソフィアは風を切る音を聞き、身をよじっていた。だが避けきれず手の甲に鋭い痛みが焼きついた。
銀朱原罪論者だ!
ソフィアは足元の地面の突き刺さった矢にほんの一瞬だけ目をやった。そのまま後も見ないで駆け出す。大学校の出口近くは広々とした広場になっていて、そこを歩くソフィアは恰好の的である。
矢が掠めた手の甲がじんじんと痛む。
後一瞬避けるのは遅ければ今度は首にでも当たっていたかもしれない。大学校の門を飛び出したソフィアは暗く人通りの少ない道を走る。奴等がどこから狙ったのかはわからないが、とにかく人の多いところに行かないと。
唐突に目の前がかすんで、ソフィアはよろめきながら建物の壁に手を付いた。
「え」
ああ、これは似たものを知っていると思った。マデリーンに出されたお茶を飲んだときと同じような感覚。麻痺を引き起こすなんらかの毒物の影響だろう。
「矢に……塗られていたんだわ」
ソフィアは奥歯を噛み締めた。一度失敗した彼らは、今度はまた別の方法を考えたのだ。矢で即死させられなければ弱らせて止めを刺すつもりなのだろう。
ソフィアはふらふらしながらそれでも道を進む。彼らがどこから狙ったのかはわからないが、おそらく建物の上階だろう。だとすればシナバーでは無い彼らはソフィアの追うのにも時間がかかるはずだ。飛び降りたりはできないからだ。少しだけ時間に猶予はある。
捕まったら動きが鈍っている間に殺される。
ソフィアはあたりを見回した。そして追って来る足音が聞こえないか、必死で耳を澄ます。いつもは感じない鞄の重さが肩に食い込むようだった。
建物と建物の細い隙間に気がついたソフィアは、そこに身を滑り込ませた。路地ですらないその場所を置くに進む。すっかり暗がりになったところでうずくまった。シナバーは毒の分解が早いこともこの前の事件で身をもって知った。なんとかしばらく隠れていれば。
ソフィアは息を潜める。ちょうどそれと同時にひたひたと、柔らかい靴底の足音が聞こえてきた。夜遅く酒屋もないこの辺りは歩くものもこの時間では少ない。もしも足音が聞こえればそれは、ソフィアを狙ったものである可能性は高い。
「奴」なのだろうとソフィアは察する。
それにもしかすると、パトリック・スピアを殺したサムであるのかもしれない。彼はパトリックを殺すことで、大金を得たのではないだろうか。その件をソフィア達が関わろうとしていることを知って、攻撃してきた可能性もある。
ソフィアは呼吸を静かに深く吸う。
そもそも。
一方的に狙われて傷つけられて楽しいわけがないのだ。しかも理由だってはっきりしない。そんな言い伝えみたいな連中に良いようにされたくない。事件に巻き込まれるなんていつだってまっぴらなのだ。でも、これ以上巻き込まれないために、自ら事件に首を突っ込みざるをえない。
多分、これはそういうことなのだ。
足音は建物と建物の隙間に気がつかず、そのまま通り過ぎていく。
まだ目が回る?
ソフィアは自分に問いかけた。回ることは回る。でも歩けないほどじゃないし、これからどんどん回復する自信もある。
じゃあ行かなくちゃ。
ソフィアは物音を立てないように静かに立ち上がった。それからまたその細い隙間を元の道路に向かって這いていく。隙間から顔を出すと、先に歩く人影を見つけた。歩みは不自然でしばらく行っては立ち止まりあたりを見回している。
あれだ!
ソフィアは充分な距離をとってからその人物のあとをつけ始めた。足音が響かないように爪先立ちのようにしてそっと歩く。
しばらく行くと、彼はやがて足早になった。おそらくソフィアの姿を探すことを諦めたのだろう。だがそんな彼女が逆につけているとまでは考えていないようだ。
諦めた彼は気持ちを切り替えるのも早いようでまっすぐに迷わず進んでいく。ソフィアも建物の影に入りながら追っていたがやがてそれも必要なくなった。繁華街に出たからである。人通りも格段に多くなり、人々の声や気配も激しい。
自分の身を隠すことは心配しなくてもいいが、今度は相手の姿を追うことが難しくなってきた。そして、ある場所でついに見失ってしまった。が。
「……ホテルグレイシア?」
それは首都で一番の高級ホテルの前だった。ソフィアはあたりを見回す。やはり先ほどまで追っていた人間の姿は見当たらない。
「まさか」
そう思いながらも、ソフィアはそっとホテルの回転扉を潜る。まばゆい光に一瞬視界を失ったような気がするほどだ。
中央の上階への大階段に、ソフィアは先ほどの人影を見つけた。
それは男性だと明るい光の下ではっきりとわかる。短い髪の毛の若者……ソフィアは彼に見覚えがあった。だが誰だったかわからない。どこかで見ている。
その迷いを抱えながらソフィアも後を追って階段を上った。登りきって、あたりを見回す。角を曲がる直前にどこかの部屋の扉が開く音を聞いた。はっとして足を早めてその通路にでる。一室の扉がゆっくりと閉まるところだった。
ソフィアはとまどいながらも、あたりを見回した。得体の知れない襲撃者の入った部屋は最上階だ。ソフィアは廊下の突き当りまで歩くと、そこに目的のものを見つける。
外階段への出口だ。そっと扉を開けると、鈍い摩擦音立てて開いた。外階段に出ると踊り場から屋上に進む。鍵が閉まっていることに気がつくが、ソフィアはしばらくの逡巡ののち金属の錠前を握り締めた。そのまま力任せに引きちぎる。予想よりも大きな音がしてひやっとしたものの誰も気がつくものは居なかったらしい。ソフィアは屋上に入り込んだ。
強い冬風がびゅうびゅうと吹いている中、ソフィアは吹き飛ばされないように進み、さきほど襲撃者が消えた部屋の真上まで来た。
「……やだ、わたしったらまるで密偵みたい」
ソフィアは眉をひそめる。これは確かに一学生のすることではない。
しかしここでひきさがるわけにはいかない、ソフィア自身が襲われている以上、他人事では無いのだ。
ソフィアは特別室のベランダを見下ろす。……多分、大丈夫。
ソフィアはそのベランダに飛び降りたのだった。なるべく音を立てないように着地することもその気になれば容易い。鈍く輝く金属の窓枠と溶けるような滑らかなガラス窓の中をソフィアはうかがった。
……話し声がする。
ただ、カーテンで閉ざされていて中はうかがい知れない。ソフィアはそっと窓のノブに手を伸ばす。鍵はかかっていなかったようで、ノブを回して静かに押すと窓は聞き取れないほどの音だけで隙間を空けた。
「また失敗か」
声が明瞭に耳に届いた。
「申し訳ありません」
「いや、仕方ない。奴等は魔物だ。我々の力では及ばぬこともあるだろう、君はよくやった」
ソフィアはその声に息を止めた。気配を消すためでなく衝撃のためだった。
その声には聞き覚えがあった。大らかな響きをもつそれは、ルヴァリス公爵のものだ。
「しかし二度の救済を免れるとは、本当にあの娘は地獄の魔物が味方しているようだな」
「私の信仰の不足でしょう」
「あまり自分を責めるな」
ロバートと話をしているのは、サムであろうと思われた。そして話題になっているのは自分だ。
「救済」があの命を狙った襲撃のことを示しているときがついて、ソフィアはぞっとする。彼らは、本心から正しいと信じてソフィアの命を狙ったということだ。ソフィアではなく、シナバーの、ということを一瞬遅れて理解してなおさら怖くなった。
そしてロバートであるということを思わず考え込みそうになる。
彼がソフィアとエイミーに向かって言ってくれた応援しているという言葉はどこまで本気だったのだろうか。ソフィアが自分はシナバーであると伝えたときも彼の嫌悪感は感じなかった。それが演技だとしたら恐ろしいほど内面が見えない相手だと言うことになる。
だが彼は、女性であるのに、といった意味での侮蔑はしなかった。ポールと比較しても間違いなくそうだったと思う。
他にも貧困層相手に活動したりと彼の行いは立派だ。慈善という領域を超え、信念として己が信じる自由と平等を尊んでいるよう見えた。
でも彼はシナバーは憎んでいるというのだろうか。
「とりあえず、ソフィア・ブレイクのことは放置しておこう。賢い娘だと思うが、銀朱原罪主義が自分に関わるなどそこまで考えは及ぶまい。アーソニアの人間は大抵そうだ。これほどに大きな国家なのに、地方に寄って異なる考えがあるとは考えもしない」
ロバートの笑い声が聞こえる。苦々しさは混ざっているものの、変らない朗らかな笑いだった。
「そういえば、キャスはどうしていますか?」
「なんだ、気になるのか?」
「ええ」
サムの照れくさそうな声がした。
「大丈夫だ。最初は泣いていたものの、預けられた教会で、よくしてくれる修道女に懐き始めている」
「ああ。イザベラですね」
「なんだ、会いに行ったのか」
「……ええ、まあ……」
「お前は本当に面倒見がいいな。まあ、可哀想な娘だ。よくしてやれ」
「また、会いに行って見ます」
なごやかと言っていいくらい後ろめたさも罪悪感もない会話だ。彼らにとってはシナバーの娘を一人殺し損ねたことというのは、それほど大きな事件でもないのかと考えるとぞっとする。一体どれほど多くの「救済」を経験したというのか。
「ところで、例の計画だが」
計画?
ソフィアが耳を澄ませたときだった。
「まて、カーテンが揺れているな。窓が開いているのかもしれない。閉めてくれ」
ロバートの声がした。




