7
服を一枚だめにしてしまった。
ソフィアはため息をついた。
「まだどこか痛いのかい」
ヒューゴに気を使われてソフィアは慌てて首を横に振った。
「大丈夫。ただちょっと疲れて。でもそれはヒューゴも同じですものね。こんな遅くまでごめんなさい」
ソフィアの言葉にヒューゴは今度は本格的に怖い顔をつくった。
「ソフィア、こんなことで私に侘びなんて言わないでくれ。君は命を狙われたんだぞ」
ソフィアの傷は今は跡形もないものの、そこに至るまでは大変だった。
射抜かれたソフィアはジョンの手によってあっという間にヒューゴの診療所に担ぎ込まれることになった。仰天するヒューゴだったが、ともかく刺さったままの矢をなんとかしなければと素早く判断した。矢尻と矢羽、両端が邪魔になって矢は容易く抜けそうにない。片側を切断してからなんとか抜いたのだった。簡単な静脈麻酔は打ってくれたが、激痛はソフィアを消耗させた。矢さえ抜けてしまえばシナバーであるソフィアの治癒は早い。持ち歩いているスキットルに入った配給血を飲み干して、あとはしばらく耐えているだけで傷跡は見る間にふさがってしまったのだった。
「でもわたしはもう平気よ」
ソフィアは診療所で向かい合ったヒューゴに言う。ちらりと横のジョンを見た。
「わたしじゃなくてジョンが狙われたのかも」
ソフィア自身は自分が殺されるほどの重要人物だとは思えなかった。それなら大会社後継者であるジョンの方がよほど殺される理由がある。その難ありな性格にも、だ。
そもそもシナバーを弓矢で殺そうとするのも不思議な話である。今実際にソフィアが体験したようにちょっとした怪我ならあっという間に治ってしまうのだ。弓矢などどれほどの威力を期待したというのだろう。
「だが」
治療の間中、ただ青ざめた顔をしていたジョンがようやく口を開いた。
「シナバーも死ぬ」
ジョンの言葉に嫌悪感はあるものの、ヒューゴも同意とばかりに頷いた。
「ソフィア、シナバーといっても不死ではない。君に説明するのもおかしいものだけど、シナバーだって僕の妻のように病気で死ぬ。毒物には強いかもしれないけど一般的な人間の致死量の何十倍と投与されれば効果がある。それにね、外傷に強いといっても限度がある。いくら君だって首を落とされたり一撃で心臓を破壊されば、治癒力が追いつかず死ぬんだよ。どうか過信はやめてくれ」
「別に過信しているわけじゃないけど……」
言い訳をしたソフィアの目の前で、ジョンが二つに切断された矢を凝視していた。そのまま手を伸ばして、矢羽を見る。
「……ヒューゴ、これは」
ジョンはヒューゴにその矢羽部分を見せる。なんだろうと覗き込んだヒューゴの顔色は更に悪くなった。
「まさか」
「僕も知識としては知っている」
「ねえ、わたしにも見せて」
ひそひそ話している二人にソフィアは割り込んだ。乗り出してジョンの持つ矢羽を見る。小さな印があるのを見て取った。円と曲線で描かれた単純なものだが。
「……これって」
ソフィアもそのしるしには見覚えがあった。シナバーになった時、役場で説明を受けた際にこれも見せられた。
「覚えているかい?」
「ちょっとだけ。あまり詳しくは説明がなかったから」
「……銀朱原罪論」
不快なものを吐き出すようにヒューゴが呟く。いつも穏やかな口調を崩さない彼には非常に珍しいことだ。彼の亡くなった妻はシナバーであった。だからこそ、彼もシナバーには詳しい。その環境も。
「ええ、知っているわ。シナバーは、この世界の不浄が具現化したものであり、悪魔のようなものだという教義よね。国教から派生した小さな一派で大アルビオン連合王国としてはカルト宗教扱いだけど……」
シナバーは、人々の罪を体現したものであり、彼らが死ぬことでこの世の罪は清められるという思考は、当然ソフィアには受け入れがたい。
「大アルビオン連合王国は国の成り立ちからして、シナバーへの理解と共存思考が高い。そもそも国を作ったのがシナバーだ。だから銀朱原罪論はカルトとして下に置かれている、だが他の国ではそれなりに認められているところも多い。もちろんそれは非科学的で前時代も甚だしい、唾棄すべきものだと僕は考える。ただ、それを正しいと考える人間も一定数いるということだ」
ジョンも不快を隠さない。
「もしも、それがソフィアを襲ったというのならこの矢尻の紋章とのつじつまもあう。どうしてソフィアなのかはわからないが、シナバーだからという点であれば君が襲われたと言う理由としては適切だ」
「あのね、人をそんなに危険に曝したいの?」
「曝したくないから警告している。君は今日、このまま下宿に帰るつもりだろう、ああ試験勉強の時間が短くなっちゃった、とか考えながら」
「そうだけど……」
ソフィアの答えにジョンとヒューゴが同時に深いため息をついた。
「僕は君に危機感を持って欲しいだけだ!」
警備もへったくれもない下宿で一晩過ごすなど頭がおかしい、とまで付け足されて久しぶりに殴りたいような気分になる。だってわたしはシナバーだからちょっとやそっとの相手に傷つけられるなんてことはない、と言いかけてそれは意味がないのだと気が付いた。確かにヒューゴの言うとおり、これは増長なのかもしれない。シナバーだって死ぬ。
少なくとも先ほどの弓使いは、ソフィアの肩を打ち抜いたのだ。心臓まであともう少し。
まだ、ソフィアにしてみればジョンが狙われたんじゃないかしらと思うところはある。しかしジョンとヒューゴ二人がかりで説教されて言い出す隙がない。
わたしとしてはジョンの方が……非力なジョンの方が心配なんだけどなあと内心で呟いた。
「危機感を持てと言われても」
「ジョンが、ホテルを取ってくれるから、できれば今夜はそちらに止まって欲しい」
「また!」
前回同様の事態にソフィアは叫んだ。
大体下宿ではエイミーが待っているのだ。エイミーのほうがよっぽど具体的に困った相手がいる。自分の粗末な下宿に彼女を放り込んでおいて自分自身だけ居心地のいい場所とはいかない。
「家には今日、エイミーが居るの」
「せめて今夜だけでもジョンに甘えてくれないか」
ヒューゴが悩ましい顔でソフィアを説得にかかる。
「ああ、そうか。もしかしたらソフィアの言うようにジョンが狙われたのかもしれない。なら、君はジョンを守ってはくれないのかい?エイミーには私が連絡しておくよ。急用で今晩だけ居ないって」
「でも」
エイミーは信用しているから一晩くらいソフィア抜きで下宿にいてもらってもいいのだが、いまひとつ乗り気になれない。繰り返すがどう考えても自分が射られる理由がない。
……まさかポール?
さすがに彼がそこまでひどいことをするとは思えない。
「ああ、ちょうどいい」
悩んでいるソフィアにしばらく沈黙していたジョンが得意げにいった。
「ちょうど贈り物をいろいろしてプレッシャーをかけようかと考えていたところだから」
「ご希望通り、大層なプレッシャーを頂いたわ」
「それは好都合」
翌朝、驚くほどよく眠ってしまったソフィアは、爽快な気分で目覚めた。いや、爽快な気分になってはいる場合じゃないのだが。
ジョンが予約してくれたホテルは、前回と引き続きアーソニア随一の高級ホテルのホテルグレイシアだった。しかも明らかに前回よりハイグレードの部屋だ。ベッドはソフィアが今まで経験したことの無いような素晴らしいものだった。固すぎず柔ら過ぎず、一体中には何が入っているのか、裂いて見てみたいほどだった。最近の勉強疲れと気疲れで知らないうちに溜まっていた疲労が爆発したのか、ヒューゴの診療所を出てからすぐここに向かい、ベッドに入るやいなや眠ってしまった。
本来ならば、君の寝室の横で寝ずの番をしてあげるべきだと思うが、君の大好きな世間体や恩の貸し借りという点を鑑みて、僕はちょっと立ち去ろう。
とそれはそれで恩着せがましく宣言すると、ジョンは出て行った。おそらく別の部屋をとっていたのだろう。今朝、再びやってきて、ルームサービスで一緒に朝食をとっているというわけである。
「なんていうか」
ソフィアは薫り高いコーヒーを前に神妙な顔をする。
「あなたに無駄遣いをさせているような気がするわ」
「大丈夫、金満家は無駄遣いをしてこそ存在意義があるというものだ。我々が使わずして誰が経済をまわす?」
「……」
朝っぱらから絶好調である。
「でもあなたのお金じゃなくて、ジャス製薬のものでしょう?」
「僕の開発した新薬が、昨年度輸出も含めてバカ売れしている。その功績を考えれば、今の給与に文句をつけてもいいくらいだ。まったく親というものはいつまでたっても子供に厳しい」
「わたし、自分がなにを言いたかったのかわからなくなってきたわ」
「僕への感謝の言葉なら不要だ」
それだけは違う、と思いつつもソフィアは考えを途中で変えた。
「……まあ、でも言っておくわ。一応。あなたの好意には本当に感謝しているのよ、ありがとう」
ジョンはさして嬉しそうな顔も見せず、肩をすくめた。
そもそも、彼と自分は、ただ通りすがりだったのである。確かに前回の事件では彼の命を救ったこともあったが同じくらい助けられもした。だから今回の一件はあくまでも彼の好意であろうと考えると。
ああ、若干わたしには重過ぎる好意……。
と思わざるを得ない。
バターたっぷりのパンに、甘いジャムを沢山乗せて食べる時だけは遠慮しなかったが。
「君は学校に行くんだろう」
「ええ。試験が近いし」
「……気をつけて行きたまえ。僕はちょっと寝ていく」
「あら?昨日よく眠れなかったの?」
「そんな晩もある」
顔をそむけてジョンは言った。
食後、ホテルのソファでごろんと転がってあっさり寝息を立て始めてしまったジョンを置いてソフィアは部屋を出た。そそくさとホテルを出ようとした時だった、見知った顔を見つけたのだった。
ホテルの光り輝くシャンデリアの下がるダイニングで、上品な男性が食事を取っていた。
「ルヴァリス公爵……!」
ソフィアがそのダイニングに居ても、浮いてしまうこと間違いなしと思われる場所で、彼は気負う事無く堂々とした態度でカトラリーを操っている。先日クイン教授の研究室であったが、それよりも今のこの場所のほうがはるかに似合っている。
ソフィアはそーっと身を小さくしてダイニングの前を通り過ぎた。公爵と違って貧乏女子学生がこんなところにいるのはどう考えてもおかしい。不名誉な噂が立たないようにさっさと逃げ出さなければと考える。
幸いなことに、朝食に目を落としていた彼は、ソフィアのほうを向きもしなかった。そっと逃げ出したソフィアは最後に一度、柱の影から振り返った。そしてロバートの前に一人の若者が立っていることに気が付いた。
短い髪の毛の男性だった。ジョンやヒューゴと同じくらいの年齢であろう。壮年の公爵の友人にしては若すぎる上、身なりも質素すぎるように思えて不思議だったが、ソフィアは自分が見つかる前にとそそくさと逃げ出したのだった。
そして下宿に戻ってみれば。
ジョンとは何もないのよ?!
という情けない言い訳をソフィアは早朝からすることになった。
昨晩帰らなかったソフィアを、興味津々の眼差しのエイミーが出迎えたのだった。
「ソフィア、昨日は……」
「違うから。ジョンと何かあったわけじゃないから」
畳み掛けるように反論する。エイミーはどこか生温かい優しさというか、ソフィアの言葉などまったく信じてない顔で頷く。
「ええ、ええ。ソフィアはしっかりしているし、ふしだらなことなんてしない人だっていうことは、私にはよくわかっているのよ。でも私には本当のこと教えて」
「いやそれはわかっていない」
これはうかつに説明しても逆効果だと諦めたソフィアは、しばらく試験勉強に没頭した。
とにかく一番大事なのは試験!次が学門!という態度をとっていればエイミーの誤解もとめるであろうという根拠のない頼り無い努力である。
そんなわけで、ソフィアがヒューゴの家に再び行けたのは、自分が射抜かれた事件から一週間もたっていた。




