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それから三日程は、ソフィアはエイミーから離れないようにしていた。前回と同じように学内に入り込むということも考えられるため、なるべく建物の中から出ないようにし、通学も一緒だった。帰るときは目立たない出口からでる。
エイミーは下宿先である親戚には、試験勉強のためという口実を伝えたらしい。
実際それも嘘ではなく、いよいよ迫っている試験に対して、二人は授業後も帰宅してからも図書館やソフィアの家で試験勉強に励んでいた。
試験期間まであと半月ほどである。
ソフィアはその日、油断していた。そのつもりはなかったのだが。
午前の授業終了後、講義室で講師を捕まえて質問していたのだった。試験が近い以上、昼休みがどうのこうのと言っている場合ではない。
少しずれ込んでしまったため、校内の売店には何一つ残っていなかったし、カフェも満員だった。エイミーに何か買っておいてもらえばよかったと後悔しながらソフィアは大学校の敷地外に出ることにした。大学校の近くに値段のわりに美味しいパン屋があるのだ。
ポールのことを考えて少し悩んだが、エイミーはクイン教授の講義生達と昼食をとりながら試験対策を練っている。一人でないなら大丈夫だろうとソフィアは一人出かけることにした。立派な門をくぐり、敷地から出る。同じように行き交う人々で通りは賑わっている。その雑踏に紛れながらソフィアは歩き始めた。
パン屋で首尾よく昼食を入手して足早に大学に戻ろうとしたソフィアだが、その腕をつかまれた。思わずパンを取り落としそうになる。はっとして振り返ってみれば、険しい顔をしたポールがそこにいた。有無を言わさず細い路地に引き込まれる。もちろんソフィアが本気を出せば振り払うことも、そのまま引き倒すことも可能なのだが、ソフィアとしても先日散々自分を無視したこの男がどういう態度をとるのかという好奇心があったことは否めない。
「おい、エイミーを連れてこい」
雑踏から一歩抜け、建物の影が落ちる薄暗い路地で、ソフィアは開口一番言われた。喧嘩腰の態度にこちらの態度も一気に硬化するというものである。
「あなたの婚約者なのでしょう?ご自分でなんとかなさったら?わたしはただ、大学校に入ってからの知り合いだもの。幼馴染だの婚約者だのに比べたら全然」
いけない癖だと思いつつ、つい皮肉を放ってしまう。
ポールはさすがにソフィアと目を合わせていた。
「お前みたいな女と居るから、エイミーは変わってしまったんだ。どうせ彼女が親戚の家とはいえ一人ぼっちで都会で暮らすなんて無理だと思っていたのに、お前が唆しているんだろう」
「……エイミーはとても心の強い人だわ」
彼女の優しさを弱さに見間違えるなんてバカ。
そこまでは口にしなかったが、口調は冷ややかだ。ポールは自分の方こそよく知らないソフィアを嫌っているくせに、まさかソフィアがポールを嫌っているなど予想もしていなかったようだ。ソフィアの鋭い言葉に一瞬怯む。
「お前……!」
「ソフィア・ブレイクよ。お前呼ばわりされる理由はないけど。人の名前を覚えないというのは商家にとって致命的じゃない?わたしのことを覚える価値のない人間だと判断するのは勝手だけどね」
「口の減らない女だな。いいか、お前なんてどうでもいいんだ。だけど、エイミーは親戚のうちにも戻らない。試験勉強とか言っているがどうせお前が自分の都合のいいことを言ってエイミーを閉じ込めているんだろ。エイミーがお前と一緒にいるのはわかっているんだ。俺は今回どうしてもエイミーをつれて帰る。それがエイミーの幸せだ」
すごく言葉が通じません。
ソフィアはだんだん面倒くさくなってくる。ジョンとはまた違う意味で言いたいことが伝わらない。ジョン相手ならばそんなことはないのに、今は会話に飽きてきた。
「わたしよりエイミーのほうが強く賢いって言ったでしょう。わたしが彼女を騙そうとしたって彼女は騙されない。エイミーがここにいるのはあくまでの彼女の意思だわ。そんなこともわからなくてよくも婚約者なんて言えたわね」
そこでソフィアはちらりと意地の悪い目を向けた。
「自称、でしょ」
さすがに調子に乗りすぎたようだ。ポールが一気に激昂することがわかる。彼が平手を振り上げるのが見えた。しかしシナバーにとって一青年の苛立ち混じりの平手など止まっているようなものだ。どうしようかしらとソフィアが悩む余裕があるくらいだ。
あっさり避けるのも簡単だし、その手をつかんでついでに突き飛ばすのだって朝飯前だ。しかしそうなるとシナバーであるということが知られてしまう。別に後ろめたいことでは無いが彼とは正直関わりたくない。
しかしますますもってエイミーが彼から離れることには賛成である。こんな激昂すれば手を上げるような男など、夫にして欲しくない。
仕方ない、とりあえず顔で受け止めよう。
ソフィアが諦めた時だった。
「やめたまえ!」
重みを伴った威厳ある声が響いた。はっと顔をあげるとそこには見知った顔……ロバート・メリベル……ルヴァリス公が立っていた。
「ルヴァ……」
その高名な名をこんな場所で呼んでいいのかソフィアは戸惑い、上げた声を閉ざした。ロバートは振り上げたポールの手首を掴んでいた。
「なんだおっさん」
ポールは強い口調で言った。
「女性に暴力など、分別のある男のすることではないと思うがね」
ロバートはポールとは逆に一切の感情を見せないような淡々とした口調だった。
「あんたには関係ないだろう」
「いや、彼女は知人だ」
ソフィアは困惑を隠せず二人に交互に視線を送る。困惑しているのははたしてポールが粗暴な言葉を送っている相手は、公爵だということを言うべきかどうかということである。公爵自身は自分の権力をひけらかすつもりはないようだが、やはり知らせないのは公平ではないように思う。
だがポールの暴言はそれ以上続くことはなかった。相手が女一人なら強気に出られても他に誰かがいると勝手が違ってくるのだろう。そもそもロバートは何を言わなくともその威厳がにじみ出ているような存在だ。
ポールは一度舌打ちすると、掴まれた腕を振り払った。そのまま無言で二人をにらみつけると背中を向けて足早に立ち去ってしまう。それを見送ってからソフィアは詰めていた息を吐き出した。
「怖かっただろう」
ロバートは立ち去ったポールのことなど気にも留めていないようだった。ただ、ソフィアを労わる。ソフィアの肩に彼はそっと手を置いた。
「しかし君は実に落ち着いていたね」
「えっと、暴力はまああまり怖くないというか……」
言いかけたソフィアはこれではあまりにも説明が足りないと気がつく。
「……実はわたし、シナバーなんです」
ロバートが肩に置いた手が、わずかに震えたように思えて、ソフィアは彼を見上げた。ロバートは目をしばたかせた。
「君、シナバーなのか」
「……あ、お嫌いですか?」
ロバートのこわばった声についそんな間抜けなことを聞いてしまう。嫌いであっても嫌いとは言うまい。嫌いというのはバカだけだ。
「いや、嫌いというわけではないが、驚いた。君はいくつも重荷を背負っているな。女子医学生ということだけも苦労だろうにシナバーなのか」
「クイン教授は特に何も言っていなかったですか?」
「そうだね。じゃあエイミーもそうなのかい?」
「いいえ、エイミーは違います。普通の優しい子なだけで……だからきっと暴力とかあったら怖いと思う」
ソフィアの声が沈んだことで、ロバートは察したらしい。
「もしかして、先ほどの彼は、エイミーの関係者なのかい?」
「ええ……」
エイミーの事情をどこまで話していいのかわからずソフィアはそれ以上言葉を続けられない。
「……そうだね、普通の女性はあんなふうに振舞う男の前では萎縮してしまうものだ。もし何か悩んでいることがあるのなら、私に相談してくれ。あと二週間ほどはアーソニアに居る予定だが、ホテルグレイシアに泊まっているよ。エイミーと一緒においで。食事ぐらいご馳走する」
「お気持ちは大変嬉しいです。エイミーにも伝えます」
ソフィアが微笑むとロバートも親しみ深い笑みを返してくれた。
ロバートは説明を強要しなかった。追求はしないが必要ならばいつでも力になるよといってくれる好意は嬉しい。
「そういえば、どうしてここに?」
「ああ、アンソニーに会いに来たんだ。じゃあ一緒に大学まで向かおうか」
「本当に、お二人は仲良しなんですね」
細い路地を出て二人はのんびり歩き始める。
「そうだな。本当は私としては、彼にはルヴァリスに戻って医師として活躍して欲しいと思っているのだが、彼はきっともう臨床には関わらないだろうなあ」
雑踏の中、遠い目をしてロバートは言った。その理由は当然気になるが、そこまで立ち入るのは気が引けた。
「大事な友人だからね、一人で大学に住んでいるのは気になるよ。医者の不養生そのものだ」
「……、えっ?」
さすがにそれには疑問の声を上げてしまった。
「クイン教授は大学に住んでいるんですか?」
「ああ、あの研究室に」
ソフィアは彼の研究室に置かれていたソファとその上に放り出された薄汚い毛布を思い出した。まあ住もうと思えば住めるだろうが……。
「家、ないんですか……」
「……そうだね……彼にはもう家というものは無いし、望んでもいないのかもしれない。いつか親しくなれる時が来たら聞いてみるといい」
そんな日は永遠に来ない気がする……。
ソフィアはが内心で考えたことを見越したように、ロバートは短く言葉を付け足す。
「親しい女性というものがアンソニーにもまたできるといいんだけどな」
その日はなるべく明るいうちに帰宅しようと、ソフィアとエイミーは早々大学を出た。エイミーにはポールと出会ったことは言ったが、脅しまがいの発言について語るのはやめた。ただ、路上で口論になったところを、ロバートが諌めてくれたというに留めておいた。
だが、エイミーも察するものはあったらしい。青ざめた顔で早めの帰宅を了解したのだった。
「結局ソフィアに迷惑をかけてしまったわ」
ソフィアの狭く日当たりの悪い下宿でエイミーはため息をついた。狭いベッドに二人でぎゅうづめになって眠っているのだ。
「ベッドまで押しかけて」
「寒いからちょうどいいわ。部屋だって人間が二人いると温かいもの」
それは一応真実である。
ただ、ソフィアは窓際の椅子に座ってその眼下に見える道路に時々機を配っていた。
大学からの帰宅の際、誰かの視線を感じたような気がしたのだ。ポールの姿を探したが見つけることは出来なかった。
もしかしてつけられたのだろうかと気にしている。
と、下宿の扉がノックされた。ルイス夫人が外から声をかけてくる。
「ソフィア、ジョンが来ているわよ」
ソフィアがエイミーをなんとなく気まずい気持ちで見ると彼女は晴れ晴れとした笑顔で言った。
「私のことは気にしなくていいわ。会って来て。私は循環器概論で手一杯よ」
わたしも基礎物理学で手一杯なんだけどな、と思いながらソフィアはルイス夫人と一緒に下宿を出た。てっきりルイス夫人の自宅にいるのかと思いきや、ジョンは道路につったっていたのだった。立ち去るルイス夫人に礼を言ってから、ジョンはソフィアに話し掛けた。
「忙しいところすまない」
「どうしたの?」
「ヒューゴに会いに行こうと思うが一緒に行くかと思って」
友人を亡くして随分意気消沈しているようだし、とジョンは続けた。
試験勉強で忙しいのは確かだが、ヒューゴのことも心配だ。さっといって様子だけ見て帰ってくればいいかしらと考える。ポールのことは気がかりだが、ルイス夫人にも誰かがエイミー宛に尋ねて来ても取り次がないで欲しいとは説明済みだ。
「少しなら……。エイミーに言って来るからちょっと待っていて」
「エイミーが居るのかい?」
「ええ、ここしばらく……」
言いかけてソフィアはしまったと思う。エイミーとポールに関する事情はジョンに言うつもりもなかったのだ。
「何か問題でも?」
ジョンが顔を覗き込んできたので慌てて答える。
「何もないわ。試験中だからよ。じゃあ少し待ってて」
ばたばたと部屋に戻ってエイミーに外出を告げた。エイミーはソフィアのことを心配しているようだったが、ジョンも一緒だと聞いて安心したようだった。
なぜ安心するのかは怖くて聞けなかったが。
コートを羽織ってソフィアはジョンと一緒にすでに日の落ちた都を歩き始めた。
でも、と横のジョンを少し見直す。
ヒューゴはパトリックと言う友人を失ったが、ジョンという友人が居て心配しているのだということは心温まることだった。パトリックほどには同じ価値観を持ち合わせていないだろうが、それでも友人は友人だ。ジョンの強引さも今はヒューゴの慰めになるかもしれない。
「ありがとう」
ソフィアの礼にジョンは首を傾げた。
「なんだろう」
「ヒューゴの心配をしてくれて」
そう聞いて、ジョンは意外そうな顔をした。瞳が「気まずい」という光を帯びる。彼のてれなのかしらと思ったが、ジョンの返事は斜め上だった。
「……ヒューゴは口実だ」
「なんの?」
「……君はバカだな」
いきなりの暴言に、バカって言うほうがバカなのに!と言いたくなる。
「ジョン、喧嘩なら買うけど?」
ソフィアの返事になぜかジョンはいつもの無表情に少しだけ明るさを足して、ふふっと楽しそうな笑い声を上げた。
「そんなに喧嘩を売りたかったの?」
「君が買ってくれてちょっと嬉しいよ。多分ソフィアは本気で怒っていないような気もするし」
「わからないこと言わないで」
「多分わかるように言ったら、君は困ると思うよ」
なんの問答かしらとソフィアは考えようとしたが、ジョンの言うことをいちいち真面目にとっていてもこちらの精神が持たないことを思い出して、話を変えた。
「ヒューゴは元気かしらね」
ジョンも今のわけの分からない問答を続ける気はなかったらしく、ソフィアの話に乗ってくる。
「彼も内面をなかなか見せないから。僕もシンシアの遺体の件で彼とは分かり合っていなかったと反省した」
「あらジョンも反省なんてするの」
「する。次に生かすかは別として」
それは反省とは言わない、とソフィアが思案している間に、二人は下町に入った。曇り空で暗闇は深くなる一方だが、酒場から漏れる明りを頼りに歩く。
「ソフィア。君、なにか困っていることがあるのだろう?」
ジョンはふいに遠慮なく確信に踏み込んできた。
「ずっと考えていた。エイミーがこんな時間に君の下宿にいるのは奇妙だ。確かに試験勉強中だが、こんな遅くまでいても帰るのが大変になるだけだろう。まだ大学の図書室で勉強しているのならわかるが。エイミーの問題かもしれないが君も巻き込まれているのだろうと考える。しかしさすがに情報が少なすぎて、これ以上、推察できない」
ジョンはつらつらというが眉根にはしわが寄っている。全てわからないのが悔しいらしい。
「ジョンの洞察力も限界があるのね」
「明日になれば状況を調べられるからわかるが、気になるからできれば今聞きたい」
「……!どうやって状況を調べるつもり?」
ジョンはよそを向いてとぼける気だ。
辺りに人通りはなく残雪が町明りを反射して輝いていた。
調査されるのも面白くないが、自分で話すのも同情を買っているようで気が進まない。
ジョンが本気出せば確かにポールの件は解決するかもしれないが、それは道理では無いと思うのだ。それはエイミーとエイミーの友人であるソフィアでなるべくなら解決したい。関わるのならせいぜいエイミーの親族だろう。ジョンはただ、ソフィアの友人であり、エイミーと顔見知りであるだけだ。
ジョンといいルヴァリス公といい、力ある人がいると頼りたくもなるが、一度味を占めてしまうのも怖いことだ。ソフィア自身の力ではないのだから。
そう思ってソフィアが大丈夫よ、と付け足そうとした時だった。かすかな風を切るような音を耳が拾った。はっとしてその方向を向こうと振り返った瞬間、右肩に激しい衝撃を感じた。勢いを受け止めきれず悲鳴も上げられないまま倒れるように地面に倒れこんだ。
「ソフィア?!」
ジョンの声が驚きに跳ね上がった時、ソフィアは苦痛の声を上げていた。衝撃から一瞬遅れて焼け付く激痛が襲ってきたのだ。ちょっとでも動かせば牙をむく痛みに、おそるおそる視線だけ走らせると、ソフィアの右肩を細い矢が貫いていたのだった。あまりの光景にそれだけで気が遠くなる。
「ソフィア、じっとしているんだ。今、ヒューゴを呼んでくるから」
ジョンがいつもとは全く異なる差し迫った声で言う。ソフィアは顔を上げて睨みつけながら答えた。
「大丈夫……!」
「いや、大丈夫じゃないだろう。なんか肩から矢が生えてるぞ」
「抜いて」
ソフィアは額に冷や汗が浮いてくるのを感じた。
「抜いてくれれば、あとは、がぶ飲み人血で治るから」
「だが!」
ヒューゴの診療所のほうを向き、今にも走り出していきそうなジョンの腕を左手でつかんだ。
「ヒューゴに心配かけたくない。抜いてくれれば後はなんとかするから」
痛みであまり声を上げたくない。だがもたもたしていれば誰か人が通るかもしれないのだ。騒ぎにしたくない。
「自分で抜けるほど、度胸ないの。お願い」
一体誰が、どこから、どうしてソフィアに向けて弓を放ったのか。いやもしかしたら善良な学生のわたしじゃなくて、ジョンを狙ったんじゃないの?絶対そっちのほうがありそう!そしたら超とばっちりじゃない、ていうか犯人許すまじ。などと様々ことを浮かんでは消えるが、ともかく痛みを何とかしなければどうにもならない。
「……わかった」
ジョンは頷いた。しかし矢に手を伸ばそうとはしない。そのままソフィアの膝裏をすくうように、そして背に手を当てて抱き上げる。急な動きに痺れるような痛みが走り、思わず叫びそうになるのを歯を食いしばってなんとか堪えた。
「だが僕では絶対うまく抜けない。卵の殻も剥けないんだぞ」
シナバーのソフィアほどではないが、容易く人間一人を抱きかかえると、ジョンは診療所に向かって歩き出したのだった。




