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キスと弾丸  作者: 蒼治
2 湾岸倉庫火災事件
23/53

5

 下宿近くでジョンとは別れた。そういえば彼の家を知らないとふと思う。知りたいという気持ちもあまりないのだが。

 下宿に戻ったソフィアはその前で意外な人間を見つけた。

「エイミー!」

 ソフィアの下宿に入り口の前の階段に座っていたのはエイミーだった。どこか怯えた様子で肩を震わせていた。


「どうしたの?」

「遅かったのね、ソフィア」

「ごめんなさい、ちょっと用事があって。でもエイミーも一体どうしたの」

 エイミーも数回ソフィアの下宿に遊びに来たことがあるが、約束も無しに現れるなど初めてだった。

「ちょっと、下宿に戻れなくて……お願い。とりあえず入ってもいいかしら」

「もちろんよ」


 ソフィアはあたりを伺っているエイミーの手を取って下宿の階段を上った。エイミーの下宿先は確か親戚の家だったはずだ。今まで居心地の悪さなど相談されたことは無かったが。

 自分の質素な下宿だが、そこにはいるなりようやく落ち着いたようにエイミーはため息をついた。ソフィアは一度、水差しを持って部屋を出ると、大家のルイス夫人の家の扉を叩き、暖炉で沸かしていたお湯をもらってきた。そして二人分のお茶を入れる。


 素朴な陶器のカップで出されたお茶を、エイミーは大事そうに受け取った。エイミーの下宿先のほうがよほど快適であろうに、これから暖炉を入れるような薄ら寒いソフィアの下宿先にどうして来たというのか。

 椅子は一脚しかないため、彼女をそちらに座らせると、ソフィアはベッドに腰掛けた。


「どうしたの?」

 どこまで介入していいものか、ソフィアは迷いながらも尋ねた。でも先日、ポールがやってきてから彼女の様子がおかしくなった以上、彼のことが原因であろうとは気が付いていた。

「……私、我がままなのかしら」

 エイミーの口からこぼれた言葉は、涙の一粒を伴っていた。

「エイミー?」

 頬を伝って顎から落ちた涙はぽとんとカップに落ちる。エイミーは気が付かず、そのまま紅茶を一口飲んだ。


「あなたが我がままだったらわたしなんて……」

 ソフィアは自分の自己中心的な部分をよく知っている。だがありがたいことにそれすら吹っ飛ぶくらい完璧に自己中心的な人物をよく知っているのだ。救いにはならないが世の中にはとんでもない人間がいるということは慰めになる。


「ポールが」

「そう言ったの!?」

 ソフィアは思わず頭に血が上りそうになる。

「なんで」

 一応彼女の幼馴染だということを考慮してなるべく穏やかに事情を尋ねることにしてみた。

「とても長い話よ」

「別にかまわないわ」

 ソフィアはエイミーの言葉を待った。長い話の端的な糸口を探しているような沈黙ののちに、エイミーは諦めて最初から話すことにしたようだった。


「本当は私が医者になるはずじゃなかったの。私の両親はいなくて、養女だということは、知っていると思うけど、今の両親は本当は叔父叔母なの。でもとても良くしてくれて。叔父叔母には私の従兄弟に当たる息子が居て、彼もとても優しかった。でも彼は十代で亡くなってしまったの。叔父叔母には大事な跡継ぎだったのに。だから家業を絶やさないためにも、私は絶対医師になろうと思った」

 今までエイミーの医師になるという目標の理由は、貧しい村の力になりたいという理由しか聞いたことがなったソフィアは少し驚いた。でも親切にしてくれた叔父叔母に報いたいという、彼女らしい誠実な理由だと思う。


「……叔父叔母は、養女にする時に、私の将来のことも考えてくれていた。ポールは町の裕福な商家なんだけど、彼の妻にどうかっていう話はずっと昔からあったの。ポールやその両親は私を気に入ってくれて、私もそのつもりだった。でも従兄弟が亡くなって、私には別の目標が出来てしまって」

「……ポールを好きなの?」

 ソフィアの言葉は多分エイミーの確信をついてしまったのだろう。彼女はぎゅっと下唇を噛む。

「……悪い人じゃないの」


 ソフィアはポール・テイラーという人間を想像する。

 きっと、自分の意に添う相手である間は、親切であろう。己のものだと思うものは大事にして。でも自分と異なる意見を持つ存在には不寛容さを隠せないのだろう。

 エイミーが、自分の妻ではなく、医師を志した時点で、彼の中で現在のエイミーは受け入れられないものとなったに違いない。


「叔父叔母は、私の好きなようにしなさいと言ってくれている。でも、村に医者がいなくなってしまうことはとても心配していると思う。だから私のこの道については、誇りに思ってくれているはず」

 エイミーの言葉がまるで自分に言い聞かせるような口調なことが少しだけソフィアの胸を痛ませる。

「でも一方で、ポールと結婚して家庭で平穏に暮らして欲しいとも思っているのよ」

 エイミーも迷い、叔父叔母も迷っているのだろう、何が幸せなのかと。己の考えを迷わずに信じているポールが今、もっとも強く、そしてその強引さでエイミーを揺さぶっている。


「エイミーは彼の妻に納まるより、医者の道を進みたいんでしょう?」

「でもそれは我侭なのかもしれない。これほどに、妻にと請われている相手を振り切って自分の希望を進むなんて、女性として間違っているのかもしれない」

 それがポールの言葉であろうことは容易に推察される。そしてソフィアもそれを馬鹿馬鹿しいと切って捨てることは出来ない。

 家族が誇りに思うような立派な道であっても、それが幸せであるとは誰にも言えないからだ。女性で医師の道を志すなど殆ど前例がない。だからこの先の未来がどんなものなのか誰にもわからないのだ。裕福な家庭の妻として生きて、幸せであった例を挙げることならできても。


「……ポールが来たの?」

「下宿先の親戚も、もう学校なんて辞めて、地元で結婚したほうがいいとか言い始めて」

 それで友人の下宿に転がり込んできたということか。

 ソフィアはエイミーを見つめた。

 ソフィアだって、彼女に言えるような「間違いでないこと」など一つもわからない。自分のことだってままならないのだ。でも彼女が自分を信頼してこんなうち明け話をしてくれたのだということだけは痛いほどに感じとれた。


「わたしも何が正しいのかなんてわからないの」

 ソフィアはゆっくりと考えながら話す。きっとこんなときでもジョンは、堂々と話すだろう。意見に根拠があろうがなかろうか。

「でもエイミーに後悔だけはしてもらいたくないわ」

「後悔?」

「周りの意見に左右されて、自分の意思を間違えてしまうようなこと」

 エイミーはまだ選べる。ポールと結婚するのか、まだ学校に留まるのか。

 その結論を焦って出すようなことは避けて欲しいと願う。


「あまり外野がうるさいようなら、しばらく一緒にいましょうよ。ここ、狭いけどエイミーは小さいからそんなに気にならないわ」

 ゆっくりしていってと言う。

「……ありがとう」

 エイミーはソフィアを見て、そこでようやく笑った。


 薔薇色のふっくらした頬は本当に可愛らしく、ポールが彼女に理想の妻を夢見てしまうのも無理ないような優しい顔だ。まあこう見えて彼女も死した鼠や馬の解剖はためらうことなく一番に手を出すような豪傑なのだが。

 優しい奥様も自然だけど、彼女の医師としての姿もなぜか容易く思い浮かべられるのも不思議だった。


「ありがとう。でもソフィアだったらわかってくれると思っていた」

「そんな……だってわたしのは本当に我侭で」

 エイミーにはまだ言えないが、ソフィアが医師を志したのは、シナバーの戦争時の徴兵を免れたいという理由からだ。人を殺したくないと、それだけが理由だ。エイミーのようにさまざまな理由があってのものでは無い。

 それを今、言うべきだろうとか逡巡していたが。


「だって、ソフィアもジョンっていう恋人がいるじゃない」

「ちがうわよ!?」

 言葉の終わりを待たずして、ソフィアは断言した。なんでいつもオチはこうなる。


「嘘よ。ソフィアは私に嘘をつくの?」

「嘘じゃないのよ。あの人ほんと知り合い」

「そんなこと無いわ。だとしたらソフィアはちょっと間が抜けているか、いじわるなのね」

「ええっ」

 ソフィアの驚愕を見て取ってはっとエイミーが口を閉じる。

「ごめんなさい。言い過ぎたわ」

「え、え、どういうこと?」

「人の気持ちを勝手に告げてはいけないわね」

「ますますわからないわ」

 エイミーは本当に呆れたような目でソフィアを眺めた。

「私はわかったわ。ソフィアは間が抜けている人だって」


 ソフィアは目をしばたかせ、次の言葉を捜す。だがエイミーの思考は別の方向に内ってしまった。そう、学生としてよりちゃんと考えなければならない方向に。

「それよりソフィア、試験勉強は進んでる?」

 きゃーと叫びたくなる。恋愛話などしている場合ではなかった。

「や、やりましょう。勉強」

 ソフィアは立ち上がって自分の鞄を探った。

「うふふ、教えあったり出来て、ちょうどよかったね」


 エイミーは自分の迷いを消し去りたいように、あえて朗らかに言う。

 本当に試験のことだけ考えて生きていけたらいいのにな、と思う。こうやって、勉強以外のことで悩んだりしているのも意味があるのかしら。

「そうならいいのだけど」

 ソフィアはエイミーに聞こえないような小さな声で呟いた。

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