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たっぷりとした栗色の髪を丁寧に撫で付けた壮年の男性だった。クイン教授よりも少し年上くらいとソフィアには思われたがいまひとつ年齢がつかめない人だ。若々しさに溢れているが、同時に堂々とした落ち着きが同居している。どれほど多くの人間の前でも臆することが無く、どれほど下賎な人間の前でも高慢になることがない……そんな頼りがいのある笑顔を浮かべていた。クイン教授とはまったく逆方向に印象深い男性だ。また着ている服も、新しく誂えたらしい趣味の良いもので清潔感がある。そして流行を抑えているのに服に着られている感じもない。普段から無意識に身なりに気をつけている人間が自然と纏う空気だった。
端的に言ってしまえば、恋に落ちることは無いまでもとても素敵なおじさまというところであろう。
「……ロバート」
むっつりとした様子で、クイン教授は答えた。その愛想のない態度にも慣れている、とばかりに、ロバートと呼ばれたその男性は、部屋の中に遠慮なく入ってきた。
「お前の研究室に学生がいるのを始めてみた。しかもこんな美しいお嬢さんがたとは。国立医科大学の息をする不機嫌、とか呼ばれたお前もやっぱり若い娘には勝てないか」
女性であることをあてつけられているようだが、あまり嫌な感じは受けない。きっと。
このロバートという男性が、クイン教授にも、そしてわたし達にもあった瞬間から好意的な態度を隠さないからだ。
「そんなことはない。彼女らは用事があって来ただけだ」
不満顔のクイン教授に、片眉を上げた道化た表情を向けるとロバートは二人に向き直った。
「アンソニーと私は、幼馴染なんだ。どうぞ遠慮なくロバートと呼んでくれ」
そういって彼は親しげに手を差し出してきたのだった。年配の男性の気さくな態度に、逆に緊張しながらも、ソフィアとエイミーは彼と握手を交わす。あ、自己紹介を忘れていたとソフィアが焦ったとき、ロバートは二人の顔を見比べ、爽やかに告げた。
「ソフィアとエイミーだろうか?」
名を当てられて、目を丸くした二人の背後でクイン教授がため息をついたようだった。
「アンソニーから届く手紙に君達の名前が書いてあったよ。実に優秀な……それこそ男子学生など霞んでしまうような熱意と才能を持った学生だと」
「ええっ」
たしなみなど忘れて、二人そろって驚きの声をあげてしまった。まさかクイン教授が、そんなことを誰かに言うなど、想像もしていなかった。ましてや自分らのことを褒めているなど。
「おい、ぽかんとされたが、お前は相変わらず愛想も無いもない態度なのか」
二人の反応を見て彼は苦笑いでクイン教授に指摘する。
「遠路はるばるやってきて、いきなり私に小言かロバート」
「お前が紹介もしないからだ」
クイン教授は「何で私が」と考えていることがわかる渋い顔をした。それから面倒くさそうに告げる。
「こちらはロバート・メリベル。ルヴァリス地方にお住まいだ」
それを聞いてようやく満足したようにロバートはその豊かな表情を明るい笑顔に変えて二人に向き直る。
「田舎者でお恥ずかしい。都会見物ですよ。汽車で丸二日です。首都アーソニアは実に美しい」
だが、屈託ない彼の言葉とは裏腹に、ソフィアもエイミーも顔をこわばらせた。
メリベル。
それは確かに聞いたことのある……。
大アルビオン連合王国は、小競り合いを繰り返していた近隣の国家を建国王が統一することによって生まれた。その建国王がシナバーであるがゆえに独特の文化では持つがそれはまた別の話である。
建国王の国アーソニアは首都とその地方の名となり、国の中心部として存在している。そして他のかつての大国の国王は大アルビオン連合王国の三公爵として今もその命脈を残していた。北のユリゼラ公のスクライバー、南のサマルード公のワザリング、そして東のルヴァリス公の……メリベル。
ルヴァリス公爵の家名が『メリベル』であることぐらい、誰だって知っている。
助けを求めるように、ソフィアはクイン教授を見た。が、よそを向いて完全無視である。
「あ、あのもしかして」
公爵家は、世襲議員として国の運営にも携わり、大規模な領地と莫大な資産において王家に次ぐ存在である。医者の卵にすら慣れていない自分の前に、なぜこんな一生関わることのあり得ないような人が、とソフィアはめまいを覚えるくらいだ。エイミーに至っては言葉も出ない様子である。
ロバート・メリベルはその温かみのある目に小さなしわをつくって微笑んだ。
「家業を継いだだけですよ。お嬢さん方のように自分の道を切り開くことが出来なかった小心者です」
公爵だというのに謙虚な態度で彼は振舞う。
それがあえてそう振舞っている、という種類のものかもしれないとは思ったが、そんなものを差し引いても彼は好印象だった。
建国王が創り上げた大アルビオン連合王国。それに最後まで抵抗を続けたのは、現在のルヴァリス地方の一部である。ルヴァリス地方は広大で、また大穀倉地帯をもち国の大事な食料庫となっている。その豊かさゆえにかつて連合王国に取り込まれるのを良しとしなかった。ルヴァリス独立戦線という武装集団が激しい抵抗を繰り返していたのもほんの七十年前の話であり、まだその思想や、独特の風習は根強く残っている。
だから大アルビオン内でルヴァリスは昔から王家や議会の監視が厳しい。今となっては公爵家も特に独立は望まず、独立戦線の現代指導者はかなりの穏健派ということだが、ルヴァリスはいつ何を言い出すかわからないというのは、国内の冗談でも使われるような逸話だ。
だからロバートはそんなルヴァリスの印象を変えたく、周囲に好印象を与えているのかもしれない。ソフィアの頭にそんな考えもよぎったが、彼に失礼だと振り払う。
「はるばるアーソニアまでようこそおいで頂きました」
「いいですねえ、歓迎されるのは」
わざと作った冷たい眼でロバートはクイン教授を眺める。
「私が来てもいつだって彼は『なにしに来たんだ』か『いつ帰るんだ』しか言わないんですよ。こんな美しいお嬢さん方にようこそなんて言われるのなんて、実に思いもかけなかった幸運」
「私はお前の都会見物の相手をするほど暇じゃない」
互いに憎まれ口を叩くが二人の間には馴染んだ気安さがあった。
「あの、お二人はお知り合いなんですか」
「そう。彼の一族は代々我が家のかかりつけ医でね、小さな頃に知り合ってそれから友人だ。年は違うが私がアーソニアで学んでいた時、彼も医科大学に進んでね、こちらでも一緒だった。なんだかんだで腐れ縁なんだ。彼の奥方とも……」
「ロバート!」
空気を鞭打つような鋭い言葉だった。今までの迷惑顔にはそれでも確かに親しみがあったのだとわからせるような、クイン教授の激しい怒りだった。
しまった、という顔をしつつもあまり慌てた様子もなく、ロバートは肩をすくめた。
「すまない、ちょっとおしゃべりが過ぎたようだ。アンソニーに怒られてしまったよ。私はおしゃべりで彼は石のように無口だから友情が続いていることが奇跡なようなものだ。奇跡は大切にしないとね」
「いいえ、わたし達こそ!」
ソフィアはエイミーのスカートをひっぱった。はっと彼女も我にかえる。
「クイン教授、長くお邪魔してしまってすみません。お茶、美味しかったです。ありがとうございました」
ソフィアは頭を深く下げた。エイミーも慌てて後に続く。
「ではまた」
挨拶もそこそこに、ソフィアはエイミーを引っ張って教授の研究室を出たのだった。ロバートがひらひらと手を振ってまたおいでと言っている横でクイン教授は不機嫌だ。ああ、さよならわたしの単位、と思わず絶望してしまいそうだ。
研究棟廊下を早足で進み、建物を出て、やっとソフィアとエイミーはため息をついた。歩く速度を緩めて、顔を見合わせる。
「そのままだったわね」
「そうね、授業中とまったく変らなかったね」
クイン教授の無愛想を思い出してちょっとだけ笑いあう。
「でもルヴァリス公はいい人だったね」
「ほんと、あんな親しみやすい人だとは思わなかったわ。だからクイン教授と仲良くできるのかもしれないね」
まるで正反対の性格に思える二人が一体どんな会話をしているのかと考えると、それだけでちょっと愉快になってくる。
「本当に、仲良さそうだったわ。まるでソフィアとジョンの会話みたいで楽しかった」
……なに?
ふいに飛び込んできた名前にソフィアは思わず真顔になった。
「エイミー、今なんて?」
「え、ソフィアとジョンみたいに仲が良さそうで楽しい会話だったって」
エイミーとジョンはすでに顔見知りだ。ジョンがソフィアを食事に誘いに来たときに、エイミーと約束があると断ったら、ならばエイミーも来たまえ、とジョンが言い出したからだ。そのまま三人で食事をすることになり、大変ソフィアとしては気を使うひと時となった。だが、エイミーは……影で聖母とあだ名されるくらい温和で優しいエイミーは、ジョンのことも「いい人ね」と言い放ったのだった。エイミーのいい人判定装置の基準は極甘、もしくは機能していないとソフィアは考えている。
いや、そんなことよりも、エイミーの感想についてである。
「わ、わたしとジョンって仲良さそうだった?」
何を今更聞くのかという顔でソフィアを見ながらエイミーは続けて言った。
「ええ。でも恋人同士なんだから当然よね」
「ちーがーうー!」
思わず絶叫しそうになり、ここが神聖を冒すべからざる静寂の地であることを思い出す。
「違います。わたしと彼は恋人同士ではありません」
思い切り低い声で呻くように言った。
「ソフィア、どうしたの」
「違うから、全力で否定させていただきました。あのね、わたしにも彼にもそういう感情は全然ないの。友達なの。ていうかそもそもはただの通りすがりだったの」
「あら、そういうのじゃ無いんだ」
意外だわ、とエイミーは目を丸くする。だがすぐに気を取り直したように言った。
「ソフィアはそうかもしれないけど……」
なんだか含みのある言葉だったが、エイミーの続けた言葉のほうが気になった。
「本当にね、仲がいい友、というのはとても得がたいことよ」
遠い空を見るように、ぼやけた言葉だったが、声の暗さにはっとする。
「……エイミー、なにか悩みでもあるの?」
ソフィアの言葉にエイミーがはっと見上げてきた。ああ、この人になら、話してもいいのかもしれない。彼女がそう考えていることがはっきりとわかる眼差しだった。
彼女が口を開こうとした時だった。
「エイミー!エイミー・グリーン」
間近だった校門の向こうから、声が飛んできた。その言葉を聞いた瞬間、エイミーはその方向をすごい勢いで向き直る。
「……ポール」
彼女の小さな唇が名を紡ぐ。そのこわばった声からソフィアは気がついてしまった。エイミーの苦悩というのは、もしかしたら彼にあるのでは無いのかと。
声の主は、校門の向こうに泊めた馬車の脇に立って手を振っている。すらりとして爽やかな笑顔がまぶしいような若者だった。まったく見かけない顔であり、おそらく医科大学校の学生では無いだろう。
「知り合い?」
ソフィアは青ざめているエイミーに尋ねた。ポールの表情とエイミーのそれはあまりに不釣合いだったからだ。ソフィアはそっとエイミーの右手を握った。ひやりとしてかすかに震えている。
「エイミー」
ソフィアの静かな呼びかけに我に帰ったように、エイミーはソフィアを見上げた。
彼は一体誰なのか、どうしてあなたがそれほど怯えているのか、ていうかつまみ出したほうがいい?とか、聞きたいことは沢山あったが、ポールは足早にこちらに向かっており説明を受ける時間はなさそうだった。だから、ソフィアは短く小声で言う。
「わたしが一緒にいるよ」
ソフィアの言葉にエイミーの顔にゆっくりとだが落ち着きが戻ってきた。いつも穏やかで優しげなエイミーはあまり自分の怒りや悲しみなど、負の感情は見せない。だからこそ、彼女のこの動揺は不思議だった。
「……ありがとう」
小さな声でエイミーが答える。その時にはポールはすでに二人の前に立っていた。
ポールはエイミーを見下ろして、それからソフィアを眺めた。まるで物品を見定めるような視線にソフィアはなんとなく不快感を覚える。だが、彼は即座に表情を和らげる。それはただ、エイミーにだけ向けられた。
「エイミー、久しぶりだね!」
一瞬息を止めて、言葉を探してからエイミーはゆっくりと答える。
「ええ。そうね。本当に」
エイミーが緊張していることが丸わかりなこわばった声だった。だがポールはそれに気がついているのかいないのか、まったく態度を変えない。
「ポール、どうしてここに」
「君に会いに来たに決まっているじゃないか。というのはまあ大げさとして。父の商談についてきたんだよ。なかなかアーソニアまで来られなくて本当にすまなかった。君に寂しい思いをさせてしまったね。君は俺がいないとダメだから」
ソフィアの首筋がちりっとする。
なんとなく不愉快。
学内でよく覚えのある感情だった。
「エイミー」
ちりちりとささくれるような感情を押さえ込みながらソフィアはそれでも感じよく見えるように、エイミーに問う。
「こちらはどなた?」
エイミーはどこか怯えたように躊躇いつつ口を開いた。
「彼はポール・テイラー。私の地元のおさななじ……」
「ひどいなエイミー。婚約者だろう?」
エイミーの言葉を遮って悪びれもせず彼は言い放った。そこに尊大さを感じて、ソフィアはいよいよ彼に対する不快感を手に取るような明確さで感じとる。それと同時に、彼がソフィアと話すつもりも一切無いことに気が付いてしまった。彼はあからさまにソフィアを無視している。紹介されながらもソフィアを一瞥もしなかったのだ。
「婚約者?」
そんな話は聞いたことも無かったソフィアは重ねて尋ねてしまった。
「あの、私は、その話はお断りしたつもりで……」
「どうしてそんなことを。ああ、でもあの頃君は、大学の受験勉強でとても苦しんでいたからね。きっと勘違いをしているんだ。だから俺はそんな無理や気遣いはしなくてもいいと君に何度も言っただろう?」
消え入りそうなエイミーの声はポールのはきはきとした大声に消されてしまう。
「君は俺の妻になって、安心して家の中で暮らしてくれればいいんだよ。君は、養子に取ってくれたご両親を気遣って、やりたくもない医師の仕事を考えているんだろう?大丈夫、医科大学校を中退しても怒られないように、俺がうまく言ってあげる」
……なんだかいらいらしてきたわ。
ソフィアはこの会話にどう加わるべきか思案しながらも、出会って一分程の青年にうんざりし始めていた。
彼は多分エイミーを好きだ。多分。
でも、してあげるとか、君はこうあるべきだとか、どうも上から押し付けるような言い方が気にいらない。大体エイミーの言葉を耳に入れるつもりがあるのかお前、と言いたいくらいだ。しかし。
ソフィアはエイミーの様子を見た。
もし、エイミーも彼を好きであるのなら、この若者にソフィアがどう対応すべきかは違ってくる。エイミーも彼を好きなら、ソフィアの出る幕ではない。ただ、こっそりと盗み見たエイミーの瞳に恋する乙女としての煌きは見て取れなかった。
でもわたしが人の恋を推察するなんて言うのも、ちょっと自己過信な気がするわ。わたしが恋なんて語れるかしら。
そう思いつつも、ソフィアはもう反射的にエイミーの手をぎゅっと握り締めていた。
「申し訳ないんですけど」
ソフィアは自分よりいくらか背の高い彼を臆する事無く見上げた。もしエイミーが彼を好きならあとで頭を下げよう。
「わたし達、もうすこし試験勉強が残っていますので、これで失礼します。図書室に友人を待たせているの、ごめんなさい」
すっかり帰る予定だったが、ソフィアは嘘の後ろめたさなどまったく見せず彼を見つめて宣言した。彼が無視しようと言いたい事は言うつもりだ。
「さあエイミー、急ぎましょう」
どうしようか戸惑うエイミーに有無を言わさず、彼女の手を引いてソフィアは歩き始めた。が、それはがくんと止まる。振り返ればポールがエイミーの肩をつかんでいたのだった。
「エイミー。俺と一緒に行こう。久しぶりに会えた俺を歓迎しないのか?」
そういってからポールはようやくソフィアを見た。
「君のような、女性らしくない者と付き合うと、俺のエイミーが悪影響を受ける」
あ、そういうかんがえのひとなんだ。
ソフィアは合点がいって逆にすっきりしたような気持ちだ。
「女性らしくないですか」
「女性は静かに家庭で夫に尽くすものだ。仕事を持つなど自然の摂理に反する」
「尽くす甲斐がある夫かどうかというのは結構な問題ですよね。それより手を放していただけます?」
「君は道理もわきまえないのか?」
なんかめんどくさい。殴ったら黙るかしら。
ジョンとはまた性質の違う苛立ちを沸かせる相手だった。
「ご、ごめんなさい。私、用が!」
にらみ合うソフィアとポールの間にいたエイミーが突然叫んだ。そして両方の手を渾身の力で振り払うと、重い教科書が山ほど入った鞄を抱えて走り出してしまった。唖然とそれを見送ってから、落ち着き払ってソフィアはポールに冷ややかに宣告した。
「とりあえず、敷地内は用のない部外者の立ち入りが禁じられていますの。申し訳ないんですけど、これ以上は御遠慮いただけます?」
なるべく品よく見えるように作った笑みに思いをこめる。
お前、帰れ。




