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キスと弾丸  作者: 蒼治
2 湾岸倉庫火災事件
20/53

2

 怒涛の一時限の終了後、七人の生徒はほぼ気力体力を使い果たした体でぐったりと天井を見ているか机に伏していた。

 いつもながら激しい授業であった。

 大量かつ高速の黒板への板書。それだけなら写すだけでいいが、たびたび課題としている内容について生徒に意見を求めてくる。


『君は課題図書を読んだのか?そうか、読んだ上でその意見ということは、まったく読み取れていないということになる』

『二年次だったな、君は。一年次の基礎講義は寝ていたのかね?』

『惜しいな。述べた意見は概ね正解だ。しかし、そこに至る根拠が全くなっていない』

 多分この教授は生徒と授業が嫌いなのだろう、そういう結論を全員が抱えるほどに容赦もいたわりもない。


「エイミー、次の授業に行きましょう?」

「……ソフィアは立ち直りが早いわね」

「そんなこと無いわよ。わたしだって『入学して半年になるのにその意見とは。今まで何を勉強していた』だもの」

 『課題図書の内容を理解していないからそんなトンマな意見になるのだ』と言われたエイミーはがっくりうなだれている。動き出すまでに時間がかかった。


「とてもこの講義の単位が取れる気がしないわ……」

「同感」

 言った言葉のわりに自分の声が明るいことにソフィアは気が付いた。その理由とともに。


 大変な教授だが、それほど自分は彼を嫌いではない。なぜなら彼の罵倒は男女を問わず平等だからだ。優しいとされている他の教師の無意識の侮蔑に不快感を覚えているソフィアにとってクイン教授の公平性は好ましくさえあった。まあ不快でなくとも、単位が取れそうにないという不安で落ち着かないが。


「行きましょう。次の授業の単位を落とさないためにも」

 やれやれと二人は立ち上がった。と、残っていた男子生徒が声をかけてきた。

「ちょっといいかな」

 なんだろうと顔を見合わせた二人だったが呼ばれるままに教壇のほうに向かう。残っていた数名の同講義の生徒が困ったように顔を見合わせていた。

「……これ、どうしよう」

 皆の中心にあるのは教卓に置かれた懐中時計だった。


「なあに、これ」

 エイミーが穏やかな表情で尋ねる。どうやら彼女も復活しつつあるらしい。普段のエイミーはその少しふっくらしてまだ少女らしさを残した優しい顔立ちだ。だから彼女を好いている男子生徒達がいることをソフィアは感づいている。そんな彼女に話しかけられてもともと仲のよい男子生徒は少し顔を赤らめた。


「教卓の下に落ちていたんだ。多分クイン教授のものだと思う」

「忘れ物?」

 ソフィアの問いに全員が頷いた。

「……じゃあ、教授に届けてあげればいいじゃない」


「僕は無理だ」

 幾人かの声が重なった。続けざまに自分がどれほどけちょんけちょんに言われたかを自慢する声が飛ぶ。とにかく自分はあの教授の前に必要以外では出たくないということで意見が一致しているようだ。


「それで、君達はどうかなって」

「ごめんだわ」

 ソフィアは思わず真顔になった。あの教授の公平性は確かに好ましいが、だからと言って不用意に近づいて授業と同じように質問攻めにあったらと思うと、背筋が凍りつく。なるべくなら関わりたくない。


「……そっとしておきましょうよ」

「でもこの部屋では次から次へと今日は授業があるわけだし。盗まれでもしたら気の毒だ」

「じゃあ、事務局に届けましょうよ。誰のものかわからないけど落し物だって」

「そうね、気の毒ね。わかったわ。私が預かるわ」

 ソフィアが妥当な意見を出すのと同時にエイミーが引き受けてしまった。え、とソフィアは思わずエイミーを見つめてしまう。


「エイミー?」

「次の授業が終われば昼休みでしょう?すぐに授業が始まってしまうからクイン教授が忘れ物気が付いてもこの教室には入れないでしょうし。私たちも授業が終わったらすぐ教授の部屋に行けばきっと入れ違わないでしょう」

「エイミーはクイン教授が平気なの?」

「平気じゃないけど、でも」


 だって困っているのなら、とエイミーの表情は語っていた。その善良さにソフィアはいつもながら感心させられる。エイミーのその優しさは、彼女が医師を志す源でもある以上、そんじょそこらの面倒くささなど苦にならないに違いない。

「いいわ」

 ソフィアも頷いた。

「わたしも付き合うからあとでクイン教授のところに行きましょう」

 ソフィアがそういうと、男子生徒は目に見えて安心したような顔をした。その時次の授業の鐘が鳴りソフィアをはじめとして生徒達は慌てて教科書をもって次の教室へと駆け出したのだった。



 二時限後、昼食を食べる前に、ソフィアとエイミーはアンソニー・クイン教授の研究室に向かった。

講師達の研究室がある棟は、授業中と違って活気に満ちている。休み時間を使って質問に来る生徒、廊下で立ち話をする講師達、人当たりの良い講師の研究室に押しかける学生達。


 国立医科大学校は今から二十年ほど前に、かつて王家の持ち物だった豪邸を改築した建物だが、研究棟の作りは実に立派だ。固い木材を使った床や壁は時代を経て黒く輝き始め、手入れの行き届いた天井のシャンデリアは眩いまま。そして行き交う人々が建物に活力を与えているようで、居心地の良さを充分に感じさせる建物だった。

 窓越しに見える庭園は今は冬の終わりで寒々しいが、いずれ鮮やかな緑の風景が目を楽しませるだろうと思えた。


 そして、そんな中でクイン教授の研究室周辺はやっぱり異質だった。

 彼ほどの実力があればもっと日当たりがよい場所を選べただろうに、クイン教授の研究室は研究棟の一番隅っこ。しかも大きな木が窓際にあり、薄暗い場所である。先ほどまですれ違った人々がまるで幻であるかのように、人の気配も周囲にない。その部屋の扉の前に立ち、ソフィアとエイミーは顔を見合わせた。


「いるかしら」

「いらっしゃると思うけど……」

 エイミーはそのふっくらとした手で、小さな拳を作ると臆せず扉をノックした。しばらくまったが返事は無い。

「……もう帰っちゃいましょうよ。きっと居ないのよ」

 ソフィアはエイミーを説得にかかる。


 我ながら超絶冷たいと思わないでもないが、関わることになってしまった変人はジョンだけで充分間に合っている。これ以上……たとえ教授であっても変人はごめんだと思う。

 クイン教授は講義を取っている学生の少なさに反して、噂は山ほどある人物だということをソフィアは見聞きしていた。

 自分の意見と相違した別の教授にお茶をかけたとか、食い下がって意見を言ってきた学生を停学処分にしたとか、果ては講師ではなく医師時代に患者を怒鳴りつけたとか。

 なかなか親しくなれそうな気配は感じ取れない。


 ソフィアはそれに、もう一つ、とても悪意のある噂を聞いていたのだった。他のいくつもの噂話はただ彼の変人っぷりの伝説のようなものだが、それは冗談ではすまされない類のものだ。

 仮に今、医師として臨床にいなくても、これを言われて誇りを傷つけられない医療関係者はいないだろうとソフィアは思う。

『アンソニー・クインは、患者を見殺しにした』

 そう噂されているよ、と聞いたとき、彼に対して過ぎた好意も嫌悪もないソフィアですら、その噂に不快感を覚えたのだった。


 ともかく、ノックに対して戻る言葉はなく、エイミーは仕方ないとため息をついて、帰るつもりのようだった。しかしその前にもう一度ノックしようと手を持上げた時だった。急に前触れもなく扉は開いたのだった。

 エイミーの手が、中途半端な高さで静止する。指揮でもしているように固まったまま、間抜けな沈黙が響き渡る。


「あの」

 ぎょろりとした目でクイン教授は二人を見比べた。おどおどと口を開いたエイミーを最終的に睨むように見つめる。

「なんのようだ」

 そろそろと、エイミーは大事に握り締めていた懐中時計を彼の視界に入るように掲げる。大した度胸だとソフィアは感心してしまう。その特徴的な大きな目もあって、クイン教授に睨まれるとまるで恫喝されているような気分になるからだ。


「これ、お忘れ物かと」

 クイン教授は今度はその懐中時計を眺める。自分のものか判断するにはちょっと長いと思える時間のあと、教授は口を開いた。

「……そのようだ」

「一時限目の教室に残っていました。これを届けに来ただけです」

「そうか。それはすまなかった」


 あまり感謝の気持ちが感じられないが、一応それらしい言葉を口にする。ジョンよりは常識があるのね、とソフィアは比較にならない対象を思い浮かべて見たりもした。これで用事も済んだ、とソフィアがエイミーのスカートをこっそりひっぱろうと思った時だった。

「エイミー・グリーンとソフィア・ブレイクだな」

 どうやら一応自分の講義をとっている人間の顔を覚えていてくれたらしい。彼は二人の名前を呼んだ。


「お礼ぐらいする。お茶を入れよう。入りたまえ」

 逆に困るー!

 という互いの内心の声がわかるようだった。クイン教授が背を向けて研究室に入るのを見て、こっそり二人は目配せしあう。

 楽しいお茶会ではなさそうだが、まさかここで逃げるわけにも行かない。


 こんなところで協調性厳守と言える女子の友情を確認して、二人はクイン教授の研究室に踏み入れた。そして、おっと、思わず一歩引きそうになる。あまりにもそれは予想通りの部屋だった。

 結構な広さはあるのに実に手狭に感じられる。備え付けの書棚から当然のように本は溢れ、床や、勝手に増設したらしい書棚に積み上げられていた。テーブルの上には書物のほかに得体の知れない内臓模型が幅を利かせていた。これではお茶も飲めまい。出窓にドライフラワーが飾ってあるのかと思えばそれはただの枯れた花であった。


 一応応接セットはあるが、それは長椅子の上に至るまで、本や書類で埋まっていた。おまけに薄汚い毛布まで放り出している。どこにいたら……と迷う二人にクイン教授はどうみても踏み台と思われる木製の造作を二人に差し出した。どうやらここに座れということらしい。

 やれやれと、しゃがみこむように二人が座り、スカートを調えている間に、クイン教授は暖炉の前にかかったヤカンでお茶を入れ始めた。意外に手馴れて様になっている。湿っぽい部屋に紅茶の香りが漂い、少しだけいい気分になる。


 エイミーは物珍しいのかきょろきょろと見回していた。その視線が部屋の隅でぎょっとして止まる。つられてそちらを見たソフィアも同じ顔をした。

 真っ白な巨大な熊がその大きく伸び上がり、強靭な爪のついた腕をこちらに叩きつけようとしていたからだ。……剥製と気がつくのに数秒必要だった。


「すごいですね!」

 エイミーは素直に驚嘆の声を上げる。トレイがないのか、カップを両手に持ってきたクイン教授は、それぞれに手渡しながら、ああ、と白熊の剥製を見た。

「ナヴィガトリア嬢だ」

「は?」

 無表情で言われ、そういう熊の種類なのかと思ったのだが、エイミーが少しだけ遅れてにっこり微笑んで答える。

「美しいお名前ですね」

 剥製に名前をつけているのですか!と思わず衝撃を受ける。いや、冗談なのかも知れないが、だとするとそういう冗談を言う人なのだという新発見に驚きだ。


「馴染みの骨董品屋が閉店するときに、あるだけの古書を買ったらおまけにつけてくれた」

 もらうんだ……!これ……。

 ソフィアは思わず唖然として白熊剥製をまじまじと見てしまう。本当は観察したいのはクイン教授なのだが、さすがに怖い。


 エイミーは遠慮なくお茶を頂いている。

 エイミーはいつも穏やかで優しい、でもちょっと気弱かも、と思っていたが、ソフィアが考えるよりずっと肝が座っているのだとソフィアは友人に惚れなおす。エイミーを好きな男子生徒が一定数いることは気がついていたが、それも納得である。

 エイミーのまっすぐで優しいところを自分と比べてしまい落ち込む時もかつてはあったが、今はさほどへこまない。見習いたいと思うくらいだ。

 そうやって自分が前向きになれたのは、先日の連続首切り事件であったジョンのお陰といえばお陰なのだが……。

 って!わたし今日何回彼のこと考えた?

 あまりの事実に、今ここがどこかを忘れて衝撃を受ける。


「茶は飲んだか」

 抑揚のない声でクイン教授が言う。顔をあげると、

「よし、これで借りは返した。では帰れ。今回の一件、感謝はするが試験に手心は加えない」

 とぶすっとした表情で言う彼が居た。

 ……わあ、噂以上に授業外でも感じわるーい!

 と愕然としたソフィアだったが、やれやれと視線を落とした先に、あっと驚くものを見つける。


「教授!これ持っていて下さい」

 ほぼ空になったカップを彼に無理やり渡すと、ソフィアは部屋の端に積んであった本の山の前に飛びつくように座り込んだ。

「すごい!はじめて見たけど、これもしかして、ニューマンの解剖学じゃないですか?」

「え、ほんと?教授、これもお願いします!」

 ソフィア同様、エイミーも教授にカップを預けてソフィアに並ぶ。


 この部屋に入った時から、すごく沢山本が有るけど、何が置いているのかしらとずっと気になっていた。医学書に留まらず様々な種類の書物があるようだと思っていたが、一度その気になって眺めてみれば、本当に宝の山であることに気がつく。古今東西の医療系、あるいは歴史書などとてもソフィアには手が届かないような稀少な本が積みあがっていたのだ。


「見て!薬学の歴史書もある」

「こっちは」

 図書室に行けば見ることはできるが、持ち出し禁止のものばかりである。図書室にすら置いていないものまで見つけて、二人は目を輝かせてしまう。エイミーとてソフィアよりマシとはいえ裕福ではない。

「女学生諸君」

 不機嫌そうな咳払いの音に、はっとここがどこだか思い出した。まずい、と顔を見合わせて二人は立ち上がった。

 空のカップを両手に持って、クイン教授が二人を見ている。


「ここは私にとって我が家同然。勝手に荒らさないで頂こう」

 ……仰るとおりです。

 先日、ジョンに心のうちにずかずか踏み込まれた経験のあるソフィアは、その一喝でしゅんと縮こまってしまう。


「それほどに見たいのなら、期待に応えたいようにも思うが、君達だけ特別扱いにするわけにもいかない。私は学生諸君と馴れ合う気は無いのだ。わかったら帰りたまえ」

 あまりにも沢山の本を見てしまい、頭に血が上ってしまったわと反省したソフィアだったが、それはどうやらエイミーも同じだったらしい。しょんぼりしながらすごすごと研究室から出て行こうとしたときだった。


「相変わらずだな。アンソニー」

 明るく力強い声がした。いつの間にか、扉が開けられていて、入り口には男性が一人立っていたのだった。

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