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「やあ、おかえりソフィア」
自宅……つまり質素な下宿に戻ってきたソフィアは、隣家である大家の家の窓から声をかけられた。大家は老齢の未亡人、ルイス夫人であるが、声をかけてきたのは張りと艶のある青年の低い美声だ。
またか!
またお前か!
声の主に心当たりのあるソフィアは、道路に面したその窓を、感情を決めかねた微妙な表情で見上げた。何が嬉しいのか、明るい顔で彼女を見下ろしてきたのは、夕日を受けてきらきら光るストロベリーブロンドの美青年だった。
「……ジョン」
ソフィアはこのところ三日とあけず顔を見ているような気がしている、いや実際見ている彼の名を呼んだ。ジョン・スミスという、役場の手続き申し込み用紙の書き込み例に使われていそうな平凡な名が彼の名前だ。そして全方位的に彼は平凡とは程遠い人間である。
「おかえり。今日も遅かったね。そういえばもうすぐ十月か。ゼミの実力確認試験がある頃か。図書館でエイミーと一緒に勉強してきたのかな」
なぜそんなにもわたしの行動を把握している。怖い。
「ところで今、ナンシーとお茶をしていたんだ。ミセスコーラル紅茶店の茶葉と百貨店のローストビーフサンドをお土産に持ってきたんだ。一緒にどうかな」
ソフィアには購入どころか店に立ち入ることすら難しいような名店の名前をさらりと挙げてジョンはソフィアを呼び込もうとする。彼の後ろからルイス夫人までが顔をだして満面の笑顔で援護射撃をしてきた。
「おかえりなさい。ジョンから美味しそうなお土産を頂いたのよ。でもソフィアが帰ってくるまでと思って待っていたの。上がってちょうだいな」
ジョンはともかくルイス夫人に言われてはなかなか反論もしづらい。それにローストビーフサンドなんて聞いてしまった時点でソフィアの負けだ。貧乏学生の弱いところをジョンは容赦なく付いてくる。
ソフィアはちょっとだけ笑顔をこわばらせながらも二人に向かって言う。
「えっと、ただいま」
ソフィア・ブレイクが、ジョン・スミスと出会ったのは今から三ヶ月ほど前の晩秋の頃である。偶然からジョンと知り合ったのだが、そのまま首都を騒がせていた連続首切り殺人事件に関わることになってしまった。
ソフィアはかつて、吸血鬼と呼ばれ蔑まれ、けれど今は特発性銀朱球増殖飢餓症候群、略称シナバーという疾患名を与えられた存在である。普通に人間としての権利を有するが、その人間を大きく勝る力で首切り魔と戦うことになった。そしてソフィアを事件に巻き込んだのはジョンである。
透き通る空色の瞳に、艶やかなストロベリーブロンドの髪。長身にバランスよく整った筋肉と脆弱さを感じさせない男性的な美貌を持つ、見た目は乙女の描く王子様像の具現化であるような美丈夫であるし、大学をあっという間に飛び級して終わらせるような稀有な頭脳を持ち、大アルビオン連合王国の中でも上位二十位には入り込みそうな大会社の御曹司であるが、中身は相当おかしい。控えめに表現したとしても、あいつどうかしている、としか言えない。
口にしてはいけないことを声にし、他人様を自分の都合に巻き込むことに罪悪感を覚えず、日常生活についての能力が皆無という変人である。ソフィアに言わせれば、毎回会うたびに殴りたいと思わせるような存在、ということになる。
ともかく連続首切り事件に巻き込まれ、ソフィアはひどい目にあった。巻き込んだジョンはさほどひどい目にあわなかった。
まったく世界は不公平にできていると一応聖堂で神様にこっそり文句は言った。
そしてソフィアの不運はまだ終わっていない。
なぜか、ジョンはソフィアに懐いたのだ。
いや、十七歳の自分より六つも年上で、社会的にも完全に目上な人間に対して懐くという表現はどうかと思うが、やっぱりそうとしか表現できない。
ジョンはいろいろ突拍子もないことやらかす人間である。規範や道徳をわからずにそうしてしまうこともあるが、実はわかっていてやっていることも多いのだ。一体何が気に入ったんだかわからないが、とにかくソフィアに関わろうとする。そしてそのための手段がまた的を射ている。
ソフィアは学費と教科書代と下宿代を支払ったらあまり余裕がない貧乏学生である。ぎりぎり飢餓状態では無いという状況下にあるわけだが、そこに美味しいものを見せびらかされたら悔しさに奥歯を噛み締めながらも「いただきます」というしかない。プライドは空腹に勝てないし、勝てなくてもいい、とある日ソフィアは意地を放り投げた。
『やあソフィア、夕食を一緒にしてくれないか』。
最初はそんな言葉から始まった。先日の首切り事件の御礼もしていなかった、となかなか断りにくい言葉で連れて行かれたのは、首都アーソニアでは最高の高級レストランであり、ソフィアはもちろん尻込みした。
『大体服装だってこんな質素なもので入れるわけ無いじゃない』『そうか、わかった。周囲の目が気になるなら個室に変更しよう』『今日はご馳走様。でもほんと次はいいから』『ソフィア、ドレスを作りに行こう』『どうしてそうなる』『なるほどドアトゥドアなら粗末な服でもいいわけか』『ぎゃー!学校になんで馬車で迎えに来る!?』『ソフィアは夕食を孤独に一人で食べる僕に同情をしてくれないのかい?』『孤独なんて気にするあなたじゃないじゃない』『……それはともかく、いい料理人が働き始めたらしいよ』『高級レストランはもう無理!』『じゃあ僕の自宅ならいいのかい?』『絶対イヤ』『家の人間には婚約者と紹介すれば気まずくないだろう』『気まずいどころかあなたの頭がさらにおかしくなったと思われる瞬間に立ち会いたくない』『君はわがままだな』『…………!!』
と、いう一月ほどに及ぶ噛み合わないやり取りの後、拉致連行はなくなったが、今度はジョンが下宿に押しかけてくるようになったわけである。ソフィアが微妙に断りにくい価格上限の手土産を持って。女性の下宿に男性は上げません、と断ったら、あっという間に大家のルイス夫人と仲良くなっていた。
多分、ジョンの本性を知ったらルイス夫人は卒倒するだろうから、実に上手にジョンが猫を被っているのだろうということは想像に難くない。
半年以上、わりと毎日考えていることを、ソフィアは今日も考える。
なぜ、わたしは彼と関わるという不運に見舞われたのだろう?
さすが名店のローストビーフサンドイッチ。美味しかった。
ああ、本当に本当に本当に美味しかった、とソフィアは自己嫌悪だ。自分は彼に懐かれている、でも自分のほうも彼に餌付けされている。
ルイス夫人の家はとても居心地がよい。すでに御主人は亡くなっているし、子供や孫も別の世帯だが今までの家族が居た温かな残り香が家に満ちている。
その素敵なダイニングでルイス夫人はスープを出してくれて、多少軽いが十分な夕食を三人で済ませてしまった。ルイス夫人も少し寂しいのだろうとソフィアは思う。子供や孫が遊びに来ているところもよく見るが基本的には一人だ。だから自分にも、そしてジョンにも優しい。
食後のお茶の後、ルイス夫人はテーブルから離れた窓際の椅子で、編み物をしている。その様子がソフィアには不吉なものをとして映る。なんというか……恋人達を二人にしてあげようという気遣いが感じられるのだ。
ソフィアは未婚の若い女性だから、完璧な二人だけにしたらそれは醜聞に繋がってしまうかもしれない。でもねえ、二人で話したいことだってあるわよねえ。どれどれ年寄りはちょっと離れていましょうかね、というルイス夫人の心の声が聞こえるようだ。
違うから!この人恋人じゃないですから!と言いたいが、そんな相手に美味しいものを食べさせてもらっている自分も情けなく、強い否定をするのもためらう……というソフィアの自己嫌悪の悪循環だ。
「ねえジョン、あなた仕事はいいの?」
先日の事件の際、ジョンが家業を放置して、社長であるところの父親が立腹したという話をもちろんソフィアは覚えている。
「いやだなソフィア。やるべきことは全て終わらせたよ」
「そう、じゃあお父様も喜んでいるでしょうね」
「『やれば三日できるんだから早くやれ』との言葉を頂いた。やれやれ、実力を発揮すればするほど期待値が上がって限りがない。世は無常だ。だが三日で出来るんだから別に慌てることもないだろうに」
この父子の意思疎通は大丈夫だろうか、と顔も見たことのないジョンの父親を想像してソフィアは思わず親子愛について心配をする。
「ところでジョン」
ソフィアはちょうどいい機会だと口にした。
「さっきあなたも言っていたけど、もうすぐゼミの試験が始まるの。わたし、奨学金も受けているからあまりひどい結果はとても出せないわ。進級は無事にできて二年生になれたとはいえ、ずっと努力が必要よ。だから勉強するので、学校からの帰りも遅いし帰ってからも勉強するからとても忙しい」
「そうか、頑張ってくれ。せめてもの応援に、毎日なにか差し入れに来るよ」
だめだ、この人、察しない。
「それはいいの。だって来てもらっても忙しいから話もできないでしょうし。試験が終わったら会いましょう?」
そう告げた時のジョンの顔は驚くべきものだった。晴天のような淡い青の目を大きくしばたかせて、その言葉の意味を考えている。予想もしない言葉を言われたかのようだ。
「話、できないのか」
どうしたジョン、なんだか片言になっているけど、と想定以上の激しい反応に戸惑いつつもソフィアはここでくじけてはならぬとばかりに畳み掛けた。
「ごめんなさい。余裕が無いわ」
ジョンは興味深い対象に見入る目で言う。
「なんでそんなに余裕が無いんだ?君は僕が考えるよりバカなのか?」
ここは怒っていいところだと思うけどどうかしら、とソフィアは一瞬悩み、それから一応怒りを飲み込んだ。とりあえず、いつか殴る回数に含めておく。
「ジョンにはわからないかもしれないけど、わたしが凡人だから」
さすがに自分をバカとは言いたくない。
ジョンが学門に対する才能という意味では本当に賢いことはソフィアも知っている。彼にとって試験などというものは受けたところでまったく試されていない代物だ。知識というものはすでに十分持っていて、彼の仕事は今までの知識からどうやって新しい何かをつくりだすのかというところにあるのだろう。
「……試験はいつ終わるんだ」
しぶしぶ、という様子でジョンが言う。ソフィアは頭の中で暦を思い浮かべた。
「一ヵ月後くらいかしら」
「……長いな」
ジョンはつまらなさそうに言う。しかしこの人わたしの他に友達いないのだろうかと思わず心配してしまいそうだ。
「まあ仕方ない。学生の本分であるのだから。エイミーにも頑張るようよろしく伝えてくれ」
エイミー。
本当に、それも頭が痛いことだ。エイミー・グリーンはソフィアの同級生だ。女性が少ない国立医科大学の中で唯一の友人と言ってもいいが、彼女はルイス夫人以上にジョンがソフィアの恋人だと信じている。なるべく頑張ってこの一ヶ月で誤解を解いておこうと考える。なんそんな勘違いが生まれてしまったのかといえば、ジョンが馬車に乗って食事に誘いに来た場面を目撃されてしまたからだ。
顔だけ見ればジョンが王子様であることがソフィアにとっては不幸した。
試験以外にもなんとかしなければいけないことが多すぎる、とソフィアは頭痛の種を思い浮かべてみたりしたのだった。
「ソフィア」
翌朝、エイミーといつもどおり大学校で会った。同じ講義を受けるのだが、今朝の教室は一番小さな教室だ。人気のない講義だからである。ソフィアとエイミーの他には数えるほどの学生しかいない。その理由は明白だ。
恐ろしく厳しい教授だからである。
愛想もなく、講義の内容は極めて専門的であり、医学基礎知識があるものという前提の上で進んでいく。試験の内容もかなり難しく、教授も手心を加えない。正直、ソフィアもエイミーも自由選択の中ではこの講義を取るつもりは無かったのだ。だが人気の講義はあっという間に埋まっていく。最終的に人数の問題があればくじ引きで決まるのだが、なぜかソフィアもエイミーもあまり運が無かった。多分……多分そこに、学内の男性優位の思想が混じっているのでは無いだろうかと思うが、確証がない故に抗議も出来ない。
そんなわけで選択式の講義ではこれを取らざるを得なくなってしまったのだ。入学してからこの半年間、この講義に関しては全力で取り組むことを余儀なくされ息が抜けない。
ただ、悪いことばかりでもない。
「おはよう、エイミー」
「ねえ、予習してきたよね。私、ちょっとわからないところがあったの。相談乗ってくれる?」
「わたしもよ」
教科書を出したソフィアとエイミーに、同じ講義を受けている男子生徒も気が付いた。
「ちょっと待ってくれ、混ぜてくれ」
「僕も」
全員が教科書を持って二人の周りに集まる。ソフィアと同じ二年次が三人。三年次が四人。総勢七人がこの講義を取っている全てである。もちろん出席率はとてもいい。出席率が悪ければ試験を待つまでも無く即死で単位を落とすからだ。予習復習も律儀だ。くだらない女性差別をする余裕はこの講義を取っている全員にない。お互いにわからないことがあれば、教えあったほうが合理的である。
つまり、この講義を取っている全員は、なんとなく仲が良いのである。
戦友、に近い。
全員で今日までにわかっていなければならない要点、および読んでおくべき文献のまとめについて様々に語り合った。もうあと三分ほどで教授が来る、そうソフィアが気が付いた時だった。
講義室の扉が開いた。ぎょっとしてその方向を全員が見る。
「おはよう、学生諸君」
感情の読み取れない声で言ったのは、予定より来るのが早いんじゃないかと思われるその講義の持ち主だった。
アンソニー・クイン教授である。
まだ四十歳には手が届いていないはずだが、その優秀な頭脳と数々の論文を持って、驚異的な速度で教授までに上り詰めた。ぎょろりとした大きな目に、もじゃもじゃの栗色の髪がまるで魔法使いじみた印象を与える長身痩躯の男性である。顔立ちそのものはわりとハンサムであるとも言えるが、どうも不摂生からくるらしい顔色の悪さもあってか、不気味さが先にたつ。
「少し早いが、講義を始めてもよいだろうか」
鋭い瞳でわたわたと席に戻る学生を眺めてから彼は言った。
「全員そろっていることだし」
まさかそれに意義を唱えられる人物はここにはいない。




