17
「忙しいのに、よくも呼び出してくれたな」
午後四時半、王立美術館の閉館時刻まであと三十分だ。平日ということもあって、来訪者の姿はまばらだった。
王立美術館展示室番号十五、展示作番号四十七の前で再びジョンとアーサーは向かい合っていた。マデリーンが死んでから一週間ほど立っていた。
「しかも遅刻とは」
アーサーは大げさにため息をついて肩をすくめた。戴冠式の巨大絵画の前で彼はジョンを迎えたのだった。あの狼の飾りがついた杖で一度だけカツンと床を突いた。もちろん悪びれる事無く遅れてきたジョンは挨拶も無しに話を進めた。
「一体どうやって連絡を取ったものかわからなかったのだが、ためしに美術館に連絡してみてよかった。受付の人間は貴様の名前を出しても困惑していたが、無理やり上司に相談しろと言ったら、貴様に繋がることができた」
ジョンのすることだから相当ごねたのだろうと察して、アーサーはため息をついた。
「僕もホテルを引き払ったし、ソフィアも下宿に戻った。これが最後だ。だから貴様は僕に言うことがあるんじゃないか?」
ほら、と仏頂面でジョンは催促する。
「……ありがとう」
アーサーは半ば覚悟していたかのようにあっさりと言った。
「マデリーン・レノルズを終わらせてくれてありがとう」
しかしその言葉にジョンは不愉快そうな表情を隠さない。
「どうして僕達を使った?」
戴冠式の絵画を見上げアーサーは黙った。
ほぼ等身大で百人近くの人物が書かれたこの博物館でも屈指の巨大絵画。
その中にアーサーがいることを今のジョンは感づいている。
今の白い髪の毛を短くした彼ではない、艶やかな黒髪を長く伸ばした姿だが、それだけでまったく別人のように見える。アーサーを良く知り、この絵画を飽きるほど見なければ気がつかないであろう。
「なあ、建国王よ」
冠を頭上に抱くアーサーは、確かに王だった。三百年前、この大陸の四つの国をまとめた国王。シナバー患者であり、同胞の未来を切り開いた男だ。彼は王位について三十年後に亡くなったとされている。
おそらくごまかすことはできた。私をマデリーン・レノルズと一緒にするのかい?どこにそんな証拠が、とアーサーは言えたはずだ。三百年生きて、何一つ穢れたところがないというのもあり得ない。彼が嘘をつくにためらう理由もそこにはない。どうせジョンも強気でカマを掛けてきているだけだ。
「……たとえ三百年近く生きても、恋ぐらいする」
だからアーサーがジョンにまともに答えたのは、単純に誠意の問題だったのだ。それは貧乏くじを引いたジョンとソフィアに対する慰労かもしれないし、アーサーと同じくなろうとしたマデリーンへの憐憫かもしれない。
「マデリーンに?」
ジョンの追及に彼はか細い微笑を返した。
「違う。アンジェリーナ・スミスに」
その言葉にジョンはさすがに言葉をなくした。しかし曾祖母の名に思い当たったようで彼はかすれる声で言った。
「我が家にあの本を与えたのは、あなたか!」
「……私はわりと達筆だろう?」
アーサーは道化た様子で肩をすくめる。
「ちょうど、国も落ち着き始めた頃だったかな。私はよく国の中を見てまわっていたんだ。自分が作った国がどう動いているかは気になることだからね。そして少し遠出をすることもあって、そこでまだ若いアンジェリーナに出会って恋をした」
アーサーは彼女の面影を探すかのように、ジョンを凝視する。そして妙に子どもっぽいすねたような顔をした。
「君はどこもかしこも曽祖父にそっくりだな。血筋というのは皮肉だ」
「なるほど、曾祖母にはふられたわけか」
「曽祖父殿はもうちょっと人に気を使うことができたぞ」
言葉ほどにはアーサーは不愉快に思っていないようだった。
「君の曽祖父のジョンはその頃非常に良く効く胃腸薬を作って行商を始めていた。アンジェリーナの幼馴染でね。出逢った時から最後の別れまで、首尾一貫してアンジェリーナは君の曽祖父から心を動かさなかった。そして曽祖父もアンジェリーナ一筋だったよ」
「私の曾祖母のアンジェリーナはシナバーだったと聞いている。あなたのほうが自分に近しく、生きやすい人生を与えてくれそうだったのに、彼女は曽祖父を選んだのか」
「まだまだシナバーへの差別と恐怖心が抜けない時代だったからね。君の曽祖父も大変だっただろう。それでも彼女を守りきったようだな。ジョンとアンジェリーナの息子が血液の保存薬を完成させたのは、両親の苦難と愛情を見ていたためだろう」
アーサーは曽祖父のジョンについてはそっけない口調だが、もしかしたら彼もアーサーにとっては友人であったのではないかと思われる懐かしさを帯びた言葉だった。
「素敵なドレスに宝石、都にある屋敷、シナバーへの理解に富む人々、都会での芝居や舞踏会などの華やかな生活。そして私自身。あらゆるものを捧げる誓いをしたのに、アンジェリーナは結局ジョンを選んだ。それでも、未練があったのは私の方だ。もし嫌になったらいつでも私と永遠に生きよう。その可能性を提示するために、あの事を教えた」
「同族であるシナバーの血を飲むことで、永遠の命が得られるということをか?」
「そうだ。もちろん、危険性も提示した。嘘は嫌だからね。私は最初の一人だけでこの体を手にしたが、マデリーンのように不完全な状況に陥った者も沢山見たよ」
マデリーンがアーサーのように永遠の若さを手に入れることができなかった事はジョンも良く知るところだ。同じことをしても皆が皆アーサーのようになれるとは限らない。だからこそ、彼は銀の弾丸の価値を知っていた。
「私がどうしてこの永遠を選ぶことになったのか、それは君が興味を持つことでは無いだろう。ただ幾つか責任があってこの世に残らねばなるまいと考えただけだ。もちろん当時の仲間も私を共にあることを選んでくれたが、結局こうして生きながらえることができたのは私だけだった」
その時だけ、アーサーは酷く老いた目でうつむいた。
皆、マデリーンのようになってしまったのか、それとももっと安らかな終わりであったのか、あるいはもっと悲惨だったのか。どちらにしても確かにそれを問うつもりはジョンにはない。
アンジェリーナは悲劇を予感して不老の方法を恐れたのだろうか。それとも。
「……アンジェリーナは強い女だった。恐れなどではためらわない。彼女を有限の生に押し留めたのはただひたすらに、君の曽祖父への愛だ。一緒に生きて老いて死んでいくことを選んだだけだ」
アーサーはにやりと笑った。
「つまり私は生涯に渡って彼女にふられ続けたというわけだ」
白髪以外はまだ三十歳そこそこの見た目のアーサーは、今が男盛りと言ってよかった。彼に恋をする女も多いだろう。どんな手段を使ってか、今も権力と財産はある程度保っている様子だ。充分魅力的と言っていい。
「また恋でもするといい」
珍しくジョンの的確な指摘にアーサーは微笑んだ。
「ああ、でも、もう二度と、秘密は教えないよ。今回だけでこれほど大きな事件になってしまった」
その点にアーサーは深く責任を感じているようだった。百年以上前の話であり、しかも情報の流出には直接今回は関わっていない。それでもその一端が確かにある事は否定できない。
「……あなたが国をまとめたのは、もしかしてこの事実を消し去りたかったからだけなのか?」
「正確には違うな。シナバーが、やたらと恐れられず迫害されず人を憎まないで済む世界を作りたかっただけだ。我々は皆、幸せになりたいと願っているだろう?君もソフィアも、もちろんマデリーンも私も。そこに違いは無いさ。だからその一貫として、シナバーが延命できる方法は消し去るべきだと考えた」
建国王にもいくつか残されている失政の一つ、古代からの貴重な書物の焚書。それはこうした明確な目的のための行われたものだった。しかし国民の多くはその理由を知ることは無いだろう。目的が明確になれば彼が隠したかった秘密も明らかになってしまうのだから。
「人々が恐れさえしなければ、シナバーは人ときちんと共生できる。私が成したかったのはそれだけだ。だからシナバーを特別なものとしない……対策がある普通の疾患に貶めた」
「……貶めた」
「正直なところ、我々は確かに人よりも優位にある状態だとは思っているよ」
「まあそうだろう。僕はソフィアに殴られたら死ぬからな」
ジョンの言葉にアーサーは少しだけ笑った。
「ソフィア・ブレイクはなかなか魅力的な女性だな、小僧」
「やらんぞ。スミスの男に二度も女を取られるのが嫌なら手を出すな、じいさん」
ジョンも珍しく人の悪そうな笑顔を浮かべる。
「……なあソフィア、そう思うだろう」
ぎょっとしたアーサーは、太い柱の影から出てくる娘を見つけた。黒い髪に緑の目、あまり他人の目を引かないような、整ってはいるが地味な顔立ちの長身の娘。
「……ジョン、どうして彼女を……シナバー患者を連れてきた。こんな話まで聞かせて!」
「そもそも彼女が当事者だ。マデリーン・レノルズと戦って、斧を振り回して、傷つけ傷ついた人だ。起きたことを知る権利はあると思う」
「私は彼女を殺すかもしれないんだぞ!」
秘密を守るために、とアーサーは怒鳴った。
「それは御容赦頂きたいと思います、建国王」
アーサーの言葉にソフィアは淡々と答えた。
「知らなければよかったと思われるでしょうが、特にこの秘密はわたしに何か影響をあたえることはありません。それに誰かに説明したいとも思いません」
アーサーは眉根を寄せた。狼の飾りがついた杖を握る力が強くなる。
「赤革の表紙の書物は焼きました」
ソフィアの言葉にアーサーは目を見開いた。
「……あれには、比較的生き残る可能性が高いやり方と思われる採取方法も書いてあって……貴重な財産だと思うが」
「それでもマデリーンは失敗しました」
ソフィアの言葉にジョンは口を挟まなかった。
「毎日科学は進歩しています。あの書物がなくても秘密はいつかまた人々の知るところになるかもしれません。でもそれは今の時代のわたし達の問題です。心配してくださってありがとう、アーサー」
アーサーはじっとソフィアを見つめていた。彼のその淡い紫色の瞳からは何を考えているのかをうかがい知る事はできない。
やがて彼は杖にこめていた力を抜いた。ゆっくりとソフィアの前に歩み寄る。
「今の者に全てを任せるべきだとわかっていても、時々口を挟みたくなるのは老人の悪い癖だな」
あの伊達男の表情を取り戻し、ソフィアの手を取ると身をかがめ、その甲に彼は口付ける。それこそまるで絵のような、優雅な動作だった。
「なにかあったら私を呼びたまえ。出来ることなら力になろう」
それから彼は手を振って立ち去っていった。そのまっすぐ伸びた背中には今だ老いを感じさせない。それがなおさら彼を孤独に見せていたが。
「ねえジョン」
彼を見送ってからソフィアはジョンを見上げた。
「一つ言っておきたいんだけど、わたしはあなたのものじゃないわ」
先ほどアーサーを牽制するためにジョンが使った言葉を捕らえてソフィアは反論する。
「そうなのか?!」
「何で驚くのよ……」
「僕が君のものになってもか?」
「超いらない」
ジョンは渋い顔をした。その様子が子供っぽく少しだけ可愛らしく思えて、ソフィアは笑った。
「ごめんね。超いらないなんていうのは嘘よ。でもわたし達は別に誰のものでもないわ。自分が自分の主人なだけでしょう」
「傷に塩を乗り込まれた」
「プロポーズみたいな冗談言うからよ。さ、いいかげん美術館を出ましょう」
ソフィアはまばらな来館者の間をぬうように歩き始めた。その背中を見ながらジョンも歩き出す。彼が、冗談じゃないのになあという顔をしていたことはソフィアも知らない。ソフィアの知る限り、ジョンは恋愛感情とは空前の隔たりがある人間だからだ。
「僕の血だってあげたのに」
「それには感謝するわ。とっても美味しかった」
あの日、マデリーンによって負った怪我は、彼の血を採取したことで目に見る速さで治癒したのだった。ソフィアが自身のことであってすら言葉を失ってしまうほどに。
半ば忘我の状態で、ジョンの血を飲み下したことについて、ソフィアはすぐに我にかえって自分を恥じた。体が治癒するほどに、その羞恥心は強くなって、顔を上げられなくなる。
しかしジョンは噛まれた傷口を真っ白なハンカチで押さえながら、「素晴らしい!」と能天気に叫んだのだった。更に続けての「さすが僕の血!」発言。
ジョンのその自慢げな様子に、ソフィアがうっすら感じていた罪悪感も吹き飛ぶ。感心すべきはそこではない。
とにかく、保存薬の入っていない人血はものすごい美味しさだが、もう二度と手をださないとソフィアは決めている。怪我をしていたとはいえ、あんなに惹きつけられてしまうなんて逆に怖い。
「僕の健康状態によるが、君が望むならいつだって」
「やめてよ。この間は運良くばれなかっただけ。人を前科者にしないで」
相変わらずの会話を続けながら、二人は美術館出口の大階段をゆっくり降りきった。
「ソフィア、君に伝えたい言葉がある」
美術館をでたところで立ち止まって、ジョンは言った。
「君は、いつか僕に言った。確かフローレンス・ペニーを助けて海に落ちた夜だ」
十日ほどしかたっていないはずなのに、随分前の話に思えた。でもその時に話した事は忘れていない。弱音を吐いてしまったという後悔として。
「君は、自分が医師になりたいのは自分のことしか考えていないからだと言った」
「……そうね」
改めて繰り返されて恥ずかしい。
「僕はそうは思わない」
ジョンの明瞭な声は夜に響いた。
「君は僕の事は実によくわかっているの、どうして自分の事はわからない?君はフローレンス・ペニーを守るために海に落ちた。二度と犠牲者を出すまいと自分から事件に関わり始めた。ヒューゴのこともいつだって心配していた。他人を傷つけることを嫌がった君なのに、僕を助けようとマデリーンと戦いまでしただろう。そしてそのマデリーンにすら同情した」
ジョンの言葉をソフィアは息を止めて聞き入る。まさか彼がこんなふうに言ってくれるとは思いもしなかっただけに心に響く。
「君は他人を助けようという気持ちは充分にもっている人だ。その手段について医師という道が適切なのかまでは僕にもわからないが、少なくとも一つは言える。君は進もうとしている道に対して極めて誠実だ。今はまだはっきりしていなくとも、君は選んだ道で必ずや自分自身の誇りと目標をみつけるだろう」
ソフィアはジョンをまっすぐに見つめた。
「君は自分のことだけを考えている人間では無いよ」
ジョンも人のことを慮ることが苦手な人間であることをソフィアはよく知っている。その彼がここまで言ってくれるということはよほどソフィアを見ていて、そして考えたということだろう。
僕は人間づきあいが苦手だという彼。でもジョンがソフィアに会うことで少し変われたなら良いと思う。
「ジョン」
ソフィアは右手を差し出した。
「ありがとう。事件はとても大変で怖くて、もう二度とあんなことに関わるのはごめんだけど、あなたと知り合えた事は嬉しかったわ」
ソフィアの差し出された手を握り返して、二人は握手を交わす。
「さようなら」
「さようならとは寂しいな」
「だってもう用心棒は終わったわ」
「ヒューゴのところになら君は行くのか?」
「ヒューゴの仕事の邪魔をしたら許さないから」
「相変わらずだな」
ジョンは手を放し、肩をすくめる。
「そういえば、ヒューゴがシンシアの遺体を埋葬したことを知っているか?」
「ええ。あなたがこっそり役場に手を回してくれたんですってね」
数日前にヒューゴからその話は聞いていた。
シンシアの今はもう失われてしまった美しい遺体のことを思い出す。ヒューゴの悲しみと共に。彼がその全てをふりきったとは思えないが、少なくとも一枚、辛い過去という分厚く重い外套を脱ぐことはできたはずだ。どうか、いつか誰か別の人と知り合って、温かな家庭をもう一度築いて欲しいと友人として切に願っている。
いよいよ話すべきことがなくなってしまったという顔でこちらを見ているジョンがおかしい。一緒に居たいなら、今夜はとても寒いですね、なんてつまらない会話でもいいのだが、彼はそんなこと無意味だと考えて気がつかないだろう。
じゃあね、とソフィアは言った。身を翻し、落ち着いた足取りで歩き出す。
振り返らなかった。




