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キスと弾丸  作者: 蒼治
1 首都連続首切事件
16/53

16

 ジョン!と目で叫んだソフィアは今の状況がけして良いことだとは思えず、逆に焦った。

 用心棒のソフィアは薬で情けなく横たわっているのがやっとだし、マデリーンは今更人間の一人を殺すにためらいは無いだろう。そしてもちろんジョンにマデリーンと戦うだけどの力は無い。

「あら、坊や」

 マデリーンは、焦る事無く入り口のジョンに顔を向けた。その美しい金髪は午後の長い日差しに輝く。


「首切り事件に夢中だったようだけどお勤めはよろしいの?」

「今は部下に任せてある」

 ソフィアには理解できない会話だ。そういえばまたジョンの素性を聞きそびれたことに気がつく。


「ソフィア・ブレイクを殺すのか!」

「いいえ、ただ食事をするところよ」

「お前がケイトを殺したんだな。私欲のために」

「私欲の何が悪いの」

 マデリーンは今までになく様な凍りついた表情で固い声をして告げた。


「わたくしはわたくしのしたいことをするだけよ。それに、誰もがあの方法で不老を手に入れられるとは限らないわ。不完全な方法ですもの。それができたわたくしは選ばれた者なのよ、他とは違うわ!」

 いけない、とソフィアの脳裏に警報が響く。

 このままではマデリーンにジョンが殺される。


 ジョンのことが好きなのかと聞かれれば、そうでもないと答えたい。こんな身勝手で偏った知識ばかりの、非常識な男などと係わり合いになりたくない。

 それでも。

 今、ソフィアの頭にはジョンのことだけが走っていた。八割がたがろくでもない思い出なのは愛嬌というところにして、そのなかの一際輝いた記憶がふいにふってくる。いろいろ問題のある男だが、それを補って余りある魅力も備えているのだ。


 何よりも彼は。

『別にらしいらしくないとかではなく、己のしたいことをすればいい。しかも向いているんだろう、学問が。それは誇っていいことだ』

 そう言ってくれた。

 今まで誰もソフィアに言ってくれず、それなのにソフィアが最も望んでいた言葉だった。救われた、とまでは行かないがどれほど気持ちが楽になったか。


 だから今、ソフィアがすべき事は一つしかない。

 マデリーンからジョンを助ける。

 それもジョンよりも自分のほうに適正があることだ。

 ソフィアは躊躇しないで手を振り払うとマデリーンに飛びかかった。まだ痺れは残っているが、先ほどより大分動ける。


 床を蹴ったソフィアはマデリーンを床に押し倒した。しかしそれも一瞬で反撃される。ソフィアの襟首は掴まれ、そのまま思い切り突き飛ばされた。シナバーの一撃は激しい。ソフィアは吹っ飛ばされて壁にしたたかに背中をぶつける。ソフィアが床に崩れ落ちると同時に、その衝撃で壁にかかっていた絵画が一気に落ちた。部屋に豪華さを与える肖像画がとどめのようにソフィアの頭にぶつかる。絵はともかく額縁が凶器だ。


「うっ」

 なんとか立ち上がりかけたものの、頭をぶつけてめまいがする。

「ソフィア、君はおとなしくして……」

 ジョンの言葉にソフィアはなんとか焦点をあわせ彼を睨みつけた。

「うるさい!」

 言いながらマデリーンの手をかろうじて避ける。平手打ちを食らったらただでは済むまい。


 でもここではだめだ。いつジョンが人質になってもおかしくない。

 ソフィアは自分を捕まえようとするマデリーンの手を思い切って捉えた。幸いここは……窓際だ。

 マデリーンの手を放さず、そのままソフィアはガラス窓に体当たりした。マデリーンの悲鳴が聞こえる。そのまま割れたガラスと共に階下に二人そろって転がり落ちる。張り出し窓に一度ぶつかり、屋敷の外を飾る潅木に突っ込んで地面に叩きつけられた。


「あうっ」

 いくらシナバー患者が頑丈だといっても一応怪我はする。治癒力が尋常じゃなく高いだけで、痛いものは痛い。

「死ぬほど……痛い……もうやだ……」


 ソフィアは呻いた。間違いなく肋骨の一本や二本折れてしまっている。息をすると激痛が走った。

 それでもなんとか立ち上がろうとした。上階の割れた窓からジョンが何か怒鳴り散らしているが、気にしている暇は無い。目の前で伏しているマデリーンも身を起こし始めていた。

切った額から目に血が垂れてきた。初めての感覚が酷く不快だ。無造作に手で拭ってソフィアはそこによろめきながら立った。


 正直怖い。馬鹿力で有名なシナバーと言っても、ソフィア自身はこれまで人を殴ったことはおろか、口論すらろくにしたことはないのだ。それなのに、今ここで命がけになって戦っている。こういう土壇場で、秘められた凶暴性でも発動してくれればいいのにと思うが、相変わらずソフィアは少し皮肉屋なだけの臆病者だ。

 それでもソフィアは震える手を握り締めた。


 マデリーンはぐらぐらと、奇妙に安定感のない立ち上がりかたをしていた。首が振り子のように揺れている。それをみてソフィアは息を飲んだ。


 マデリーンの首は折れている。マデリーンが本来ならシナバー患者ですら即死であろう怪我をしていることもわかったし、それを負ってなお、まだ生きていることも明白だった。

彼女の屋敷の庭は晩秋ということであまり花の姿は無い。ただ枯れかかった茶を帯びた葉の色を芝生も潅木も纏っている。その中でゆらゆらと揺れて立つマデリーンはそのきらびやかなドレスの色もあって、一輪の花のようだった。

 何か毒を帯びた、見知らぬ奥地の花。


「いけなぁい、子、ねええ」

 マデリーンは奇妙な抑揚で言う。しらず、緊張感から唾液を飲み込んだ自分の喉の音に怯えそうだった。あり得ない角度に首を曲げたままマデリーンは笑った。今までのどこまでも上品で控えめな微笑ではなく、正気を失ったようなけたたましい笑いが響く。


「だめよお、こんなことをしてええええああああああああいけなあいい悪い子ねええ」

 めりめりという音がした。湿った固い物を折る音が不気味にソフィアの耳に届いた。マデリーンは美しい女の姿から変容しようとしていた。ドレスを破り腰から一対の手とも足ともつかない関節を持つ長いものが出てくる。大きく開いたマデリーンの口は、ぱっくりと開け放ち長い牙がずらりと並んでいるのが見て取れた。せっかく立ち上がったというのに新しい器官のためにバランスを取れず彼女は地面に伏した。しかしその三対の肢を使って彼女は上手に這うとこちらを見た。


 恐怖で歯が鳴っているに気がついて、ソフィアは食いしばった。

 生き死にがかかるということは、これほどに恐ろしいことなのか。

 マデリーンは、人でもシナバーでも、それを超えた不老の者でもない、まったくみたことのない生き物になっている。マデリーンも先ほど語っていたが、赤い革表紙の書物に記された不老の方法は完璧では無いのだろう。思いもよらない結果をもたらすことだってあり得るのだ。マデリーンの場合は、限界を超えた怪我をきっかけとして変わった。


 ソフィアは今のマデリーンを形容する言葉を一つしか知らない。

 化け物。


 ソフィアはその瞬間、何か武器になるものを探そうとしたが、一瞬遅かった。マデリーンが突進してきたのだった。新しい姿だというのにまったく戸惑うことがない。

「血お、おおまえの血!」

 開け放たれた口ではうまく言葉も紡げないようだった。しかしその牙が逃げようとしたソフィアの足に噛み付く。

「ああっ」

 鋭い痛みにソフィアは叫んだ。そのまま転んで芝生に叩きつけられてしまう。


 だめだ、こんなものを外に出すわけには行かない。

 それでもとっさに思いついたのはそんなことだった。

 マデリーンが屋敷の外に出れば、どうあっても被害者は増えるばかりだ。そしてこの姿を見た人々は……きっと、シナバーを恐れる。

 建国王がその土台を作り、今でこそ社会の中で生きることを容認されているシナバーだが、それが理解不可能な……そして人々に仇なす存在であると認識された瞬間に、三百年の寛容はいとも簡単にふっとぶだろう。シナバー患者同士のいざこざでは話はすまない。


 ここで、なんとかしなければ。

 ソフィアは半身をまげて、手につかんだ土をマデリーンの顔にぶつけた。目潰しとなって苦痛を感じた彼女は悲鳴を上げて口を離す。ソフィアは血が流れるのもかまわず彼女の下から這い出る。そして、ようやく武器になりそうなものを見つけた。

 庭の葉を全て落とした木の根元にあるのは。

 ソフィアは立ち上がりながらドレスをたくし上げる。そして離れた場所にあるその場所まで必死に走り出した。噛まれた足も折れた肋骨も冷や汗が浮かんでくるほどに痛い。自覚していないだけでもっとあちこち怪我しているだろう。しかし、ひたすら走った。後ろからマデリーンが言葉になっていない声をあげて追って来るのがわかる。


 飛びつくようにしてそれを……木を切り倒す斧を、つかんだ。

 そして振り返りながら、一撃をふるう。

 首を、首を落とさなきゃ。

 一体何が弱点なのかわからないが、本能のようにそう思った。


 とても医学生にして十八歳の乙女が祈ることとは思えない。しかし次の祈りがあるとすれば、ジョンをぶん殴りたいですああ神様、な自分はきっとそういうぶっそうな運命なのだ。

でも。

 マデリーン・レノルズという存在を……その人間を思う。優雅で穏やかで向上心を絶やさない彼女のことを。今、目に前にある恐ろしい存在と、マデリーンを結び付けてしまえば思う事は一つだ。

 ……誰かを殺したくなんてない。


 手ごたえはあったが、目的は達せられなかったことに気がつきソフィアは青ざめた。肩から胸にかけて袈裟懸けに切ったにすぎなかった。最後の一瞬のためらいが、ソフィアの力を弱めてしまったのだ。

 これではまずい、と思ったのは、実際にマデリーンに張り倒され、その鋭い爪で同じように大きく胸元をえぐられてからだ。みっともないと思いつつ絶叫してしまう。自分の吹き出た血で視界が赤い。

 血どころかまるごと食べられてしまいそうだとへたり込んだソフィアは荒い息をつきながら思う。しかしマデリーンも体が小刻みに痙攣していて瀬戸際なのだと感じられた。


 あともうちょっとだったのに。

 ソフィアはマデリーンの横にむなしく落ちている斧を見ながら考える。あれがもうちょっと奥に入っていたならば。でも出来なかった。マデリーンを哀れんだ自分は愚かだとわかっているが、どうしても殺せなかった。

 そのときだった。なんの前触れも無く大きく鋭い音が聞こえ、マデリーンの頭ががくんと揺れた。相変わらずのがくがくした動きで彼女は横を見る。

 つられてそちらを見たソフィアは、銃を構えながら駆けてくるジョンを見つけた。


 全六発の銃。聞こえた音は、最初の一発。

 そして続けざまの三発。


 その間にジョンはあっというまにマデリーンに近づいていた。今更頭部を撃ってもマデリーンは死なないだろう。しかし動きを詰めることには役に立っているようだ。ついにジョンが正面に立ちふさがっても、まだ回復は追いついていないようだ。

「僕は!」

 挨拶代わりに一発打ち込んでジョンは怒鳴った。


「らしいとからしくなとか、そんなものはどうでもいいと思っている。亡くした妻を忘れられない男の女々しさも、女だてらに医者を目指す思い切りのよさも実に好ましい。しかし、ソフィアが僕を庇って傷つくのはものすごく不愉快だ」

そしてジョンはさらに一発をマデリーンの額に打ち込んだ。ぐらぐらと頭を揺らしているマデリーンに聞こえているのかは定かでは無い。

 ジョンはポケットから一弾を取り出した。アーサーからもらった銀の弾丸。それを慣れた仕草で弾倉に押し込んだ。ためらい無く限界まで近づき、彼女の額の中央に銃口を向けた。


「ソフィアを庇うのは僕の役目だ」

 自分でも納得できないのだ、とばかりにジョンは吐き捨てた。己の人生観と今の感情のそぐわなさに彼自身が困惑しているようだ。しかし行動に迷いは無い。

 彼は銀の弾丸を放った。

 普通のシナバー患者相手であれば、通常の弾丸以上の働きをしないはずの銀の弾丸。


 しかし、今、それは驚異的な効果をもたらした。マデリーンの目が見開く。苦痛のためか声をあげようと口は開いたが、それはすでに声にならなかった。先ほどまでが嘘のような静寂をまとって彼女は地面に伏した。体重に反してあまりに軽い音だった。

『だが化け物には効果がある』……アーサーの言葉をジョンは思い出す。

人ともシナバー患者ともまったく違う、一気に枯れてしまうような崩壊をマデリーンの死体は始めていた。生前の美しさなどまるで嘘のように、風が一吹きするごとに朽ちていく。一瞬ごとにからからになっていくその姿は、遠い砂漠の国の木乃伊を思わせる。それよりもっと脆く、粉々の破片となり風に散る。


やがて中身を失ったマデリーンの赤いドレスが風に頼り無く揺れた。

「ソフィア!」

 マデリーンの最後を見届けると、ジョンはソフィアに向き直った。マデリーンからそう離れていない場所で彼女は血まみれで倒れ伏している。

 折れた肋骨が肺に刺さってソフィアは血を口の端からこぼしていた。ごほっとむせて溢れた血で息苦しい。


「ソフィア、血を飲め!」

 ジョンは迷う事無く言っていた。シナバーの治癒力を上げるのは人の血だ。

「その怪我では死ぬぞ」

「……血は……配給血……今もって無いの……」

「ならば僕の血を」

 ジョンはむしりとるようにして自分のシャツをはだける。首筋がむき出しになった。

「……」

 ソフィアが絶望的な表情をしてかすれた言葉で何か言うのを彼は顔を近づけて聞く。

「人血の……直接採取は…………一年以下の懲役、または百万リブラ以下の罰金……ほんとムリ」

 世界が終わるような深刻な顔をして、ソフィアは言う。命は惜しいが前科も罰金もごめんだ。

「そのくらい僕が払ってやるから飲め!」

 ジョンは怒鳴った。ソフィアを抱きとめるようにして首筋に彼女の頭を押し当てる。


 ……ああ、美味しいものの匂いだ。

 ソフィアは皮膚の下にある香りをすんと鼻を鳴らして吸い込む。

 びっくりするほど素敵な香り。

 わたしがとっても欲しかったもの。

 甘くて美味しいものだわ。

 でもでもでもでも、いいのかしら、もらって。


「ソフィア!」

 叱咤されるように呼ばれ、ソフィアは一人微笑む。いつも冷静で、自制心が強く、欲を恥じるソフィアですら、強烈に惹き付ける他人の血。

 もらっていいみたい。

 腕を持上げて、彼の肩に手を添えて、そして彼女は大きく口を開けた。いつもは歯茎に埋め込まれている鋭く長い犬歯がすうっと伸びた。

 ぷつりと牙が食い込む一瞬前に唇がジョンの肩口に触れる。

 まるでキスみたい。なんて思った。

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