15
少し時間は遡る。
ジョンは先日訪れたばかりの国立演芸劇場を再び訪れていた。しかし今日の目的はマデリーン・レノルズではない。
「君がダニエル・リードか」
マデリーンのように個別の楽屋など持っていないまだ若い俳優に用事があったのだ。真昼の劇場では夜の華やかさはすっかり薄まっていた。支配人に頼んでダニエル・リードを呼びだしてもらうと、ひんやりとした廊下で彼はその自分と同じくらいの年頃の若い俳優の顔を眺めた。
「何の用ですか?」
ダニエルはちらりと廊下の奥の稽古場の方を見た。自分だけ出来が遅れるのが嫌なのだろう。すらりとした肢体に舞台栄えしそうな華やかな顔立ち。確かに彼は俳優を目指すに相応しい美男子ではあったが、それだけのようにジョンには思えた。
自分が芸術的センスに乏しいという事はよく知っている。しかしマデリーンにあった後では役者としての格の違いというものが多少鮮明に見えた。ダニエルにはマデリーンのようなはっと人を惹き付けるような力には欠けるような気がした。もちろんまだ彼は若い、これから身に着けていく可能性もあるが、今のところはそれほど俳優としては興味を引かない相手だ。
ジョンの興味は別のところにある。
「君はマデリーン・レノルズの愛人か?」
「なんだお前は!」
ダニエルは頭に血が上った様子で怒鳴るが、確かにいきなりこんなことを言われて平気な人間はいまい。ダニエルは舌打ちしてから吐き捨てた。
「どいつもこいつも」
「君がマデリーンの強い推薦によってこの劇団に入れたという噂を聞いたもので」
ジョンはソフィアから聞いた事を首切り事件に結びつけたのだった。
マデリーンは今までそんなことを一度もしたことが無いというのに、自分の知人を無理やり売り込むような真似をしたという。その知人こそダニエル・リードだ。
「俺は別になにもしていない。小さい劇団に属していただけだ。この国立演劇団の試験だって確かに受けて何度も落ちている。でも別に俺自身がズルして入ったわけじゃないんだ。ある日突然、誘いが来たんだ」
「疑問には思わなかったのか?」
ダニエルは眉をひそめた。
「俺をバカだと思っているのか?そりゃあ思うさ。でも俺にはどうしてもきっかけが必要だった。このままじゃいつまでたってもうだつが上がらないままで、恋人と結婚だってできない。多少怪しげな話でも乗るに決まっている」
国立演劇団に入りたい俳優女優は確かに山ほどいる。何か裏を感じとっても、それを無視するくらい機会を欲しがっている者にとっては大したことでは無いだろう。
「ではマデリーンとは関係ないのか?」
「この劇場内で数回挨拶したくらいだ。あの人は俺なんて目もくれないよ。まあいいさ、必ず俺をここに入れたことを納得させてみせる」
ダニエルは苦笑まじりだが確固とした意思を持って言う。確かに彼は自分の立場を良く理解している。自分の俳優としての才能だけではない理由で自分がここにいること、そして、周囲から妬まれていること、何より確かにまだ自分には技術が充分でないことも。
卑下ではなく的確な現状把握であることは悪くなかった。
バカでは無さそうだ。そしてまっすぐな野心もある。本当に、彼はあっという間に成長して行くかもしれない。
ふとジョンはソフィアを思い出した。
彼女もここは自分の場所ではないのかも知れないと怯えつつ、それでも現実と格闘して自分の居場所を見つけようとしている人間だ。もしかしたらダニエルとは話が会うかもしれない。
……だから?
自分の考えに何故かむっとしてジョンはその考えを押し込めた。ソフィアが他の誰かと気があっている様子はあまり楽しくなかったのだ。
「ではマデリーンとは関係が無いのだな」
ジョンは目的を口にした。
先日のヒューゴの家での一件でジョンは一つの確信にたどり着いていた。
首切り事件の犯人は間違いなくシナバー患者だ。ソフィアと相対したときの身体能力からして間違いない。今まではシナバーは互いを襲う理由がないと考えていたからそれが混乱の元だった。
しかしシンシアの遺体のように、シナバーの血液には同族に対して何か効能があるのかもしれない。もし理由があるのならシナバー患者が間違いなく犯人。
……そうなるとまた帳尻が会わなくなる。
どうしてマデリーン・レノルズは、「襲ったのは人間」なんて嘘をついた?
だからジョンは被害者の一人であったマデリーンを奇妙に感じて、彼女を探っているのだった。
だが、このダニエルはあまりその理由には結びつかなかった。
「時間を取らせて悪かった。ぶしつけなことも聞いた」
「いや……ああ、うん……まあそうだな」
ダニエルは笑顔を見せないで言う。
「確かにあんたは失礼だ。何か聞くなら別の相手にやらせたほうがいい」
「今度はそうするよ」
ジョンは軽く頭を下げた。
「ではこれで失礼するよ。月並みな言葉だが、君の成功を祈っている。頑張りたまえ。恋人ともお幸せに」
その瞬間、ダニエルは一瞬だけ大きく顔を歪めた。
「なんだ?僕は今、またぶしつけなことを言ったのか?」
「いや……今のは俺の問題だ」
ダニエルは目を伏せる。痛みに似た悲しみを抑えているようだった。
「……俺がなんであんたと話そうかと思ったかというと、あんたが首切り事件を追っていると聞いたからだ。俺の恋人はもういないんだ」
ゆっくりとダニエルは息を吐き出す。そして小さな声で言う。
「最初の犠牲者、ケイト・クラークが恋人だったんだ」
「……なんだと!?」
自分の姉のように感じていたケイトに恋人がいたなど想像したこともなかった。しかしケイトは妙齢……若干このご時勢では嫁き遅れに近い女性だった。恋人がいてもおかしくない。
だが今は、ジョンにはケイトに思いを馳せている余裕は無かった。
ダニエルを間に挟んで、マデリーンとケイトが繋がったのだ。
「どうしたんだ?顔色が悪いぞ」
「……今日はマデリーンは」
「休みだと聞いているが」
「……ありがとう、ダニエル・リード」
ジョンは一度だけ目を閉じた。それから口を開く。
「君の成功を本当に願っている。どうか、ケイトのためにも頑張って欲しい」
そしてあっという間に身を翻した。長い楽屋裏の廊下を歩き出す。
彼が国立演劇団に入れたのは間違いなくケイトの力があったからだ。そのために、ケイトはきっと命を落とした。そこまでは想像していなかっただろうが。
「ケイトは書物を奪うために殺された。残りはその書物の内容のために襲われのか」
ソフィアに調べたことを話さなければ、と慌ててホテルグレイシアに戻ったジョンは、彼女が出かけたことをそこでようやく知ったのだった。ちょうどソフィアがマデリーンとの昼食を始めた頃だった。
床に伏したままソフィアはかすれる目でマデリーンの姿を追った。
「どういう……?」
体がびりびりと痺れて不快なだけでなく身動きができない。こちらを見下ろしていたマデリーンがゆっくりと歩み寄ってきた。
「責任を取ってもらわなくちゃ」
マデリーンの緋色の唇だけがひどく鮮明に見えた。微笑の形を保ってそれは言葉を放つ。
「あなたのせいでフローレンス・ペニーを取り逃がしてしまったのよ」
「……フロー……ス」
喉の奥まで痺れてうまく声を発することができない。それでも名前を繰り返して、ソフィアはそれが辛くも五人目の犠牲者となるのを免れた少女だということを思い出した。それを……その名をそんな風に使うということは。
気がついた事実にソフィアは目を見開く。床の複雑に模様が織り込まれた毛足の長い敷物を握り締めようとするが、ただ指先は震えただけだ。それ以上の力が出ない。
「あなた、が」
「そう、わたくしが首切り事件の犯人なの」
マデリーンは優美と言っていい仕草でかがみこんだ。ソフィアの少しだけ崩れた結い髪に触れる。
ではマデリーンが襲われたというのは。
「……狂言?」
ソフィアの問にマデリーンは頷く。
「二人目のローズ・ボイルが死んだ後、シナバー患者が疑われていることを新聞で知ったわ。予想できたことだから、自分も襲われたことにしたの。その後にシナバーの患者が何人も襲われて警察は混乱しているみたいね」
マデリーンは満足げだった。
「フローレンス・ペニーのことはウィルシャー先生から伺ったの。先生は注意深く詳細を伏せていたけど、彼の近くにいることだけわかれば、あとはいくらでも調べようがある。貧困街の子供に聞いたらすぐ教えてくれた」
それなのに邪魔が入って、とマデリーンは苛立ちを一瞬だけ露わにする。しかしそれをすぐに伏せた。
マデリーンはジョンとソフィアにヒューゴに目を向けさせようとしていたのだ。ヒューゴが二年前に書いたシナバーの紹介状……でもあれはマデリーンだって中身を知っていたという意味では同じだ。でも彼女の言葉が先だったがためについ惑わされそうになった。
ジョンを襲ったのも、事件を混乱させる一貫だったのかもしれない。今度は人間、しかも男性が襲われればますます共通点が無くなっていく。たまたまソフィアが間に合い、ジョンも軽症で済んだ。
「あなたのことはなんとなく気に入っていたから、見逃そうと思ったのに。フローレンス・ペニーの代わりになってもらうわ」
どうして、とソフィアは尋ねた。言葉にはなっていなかっただろうが、ソフィアの考えることなど予想がつくのか、それとも震える唇の動きを読んだのか、とにかくマデリーンは答えた。
「どうしてわたくし達が同じシナバーの患者の血は求めないのか、それをご存知?」
「……まず……い」
「そうね。けして美味しいものではないわ。いいえはっきり言って毒としか思えないほどに不味い。多分不用意に口にすればしばらくは間違いなく寝込むことになる。それにわたくし達はシナバーに罹患すると同時に学ぶのよね。同類の血を求める事は畜生にも劣る行為であると。そして多くのシナバー患者は何も疑問に思わないわ、それを」
それを、彼女は疑問に思ったのか。
マデリーンの手は優しくソフィアのおくれ毛を指に絡めて遊んでいた。マデリーンのその余裕は絶対の優位からくるものでありソフィアはそれが恐ろしい。
同じシナバー患者だ。ソフィアが本気を出せば勝てるかどうかはともかく少なくとも逃げることぐらいできるだろう。しかしこの身動きもできない状態では、マデリーンの良いようにされてしまう。
「かつて」
マデリーンは静かに語り始めた。
「かつて一人の男が、一つの真実を人生をかけて覆い隠した。知る者を消し、書物を焼き捨て、それを不必要とする世界を作り、疑問と思う心も失わせた。だからこそ、シナバーは人の世で存在を許されたのね。とても長い時間をかけて彼はわたくし達の居場所を作った。それには感謝しかないわ」
ソフィアにはその言葉の意味は判らない。
「でもわたくしはその隠された事実にたどり着いた」
それでもソフィアは諦めずに、懸命に指先を動かす。諦めてしまったら終わりだと。
「シナバー患者の血は同じシナバー患者をより完璧にするの」
……聞いたこともない話にソフィアは息を飲んだ。
「ケイトがとても悩んでいたことを知るものはあまりいなかったでしょうね。彼女もとても自信家でプライドがあったから。彼女の恋人は才能のあまり感じられない俳優でね。ケイトが貢いでいた。だからね、私は約束したの。もしケイトがその秘密について書かれた書物を私に預けてくれたら、彼を舞台監督に紹介するって」
だからケイトはスミス家を裏切ったのか。でも。
「……ケイトを殺したの」
多分全てを声には出来ていなかっただろう。しかしソフィアの質問を理解したマデリーンは頷く。
友達なのに?ソフィアの視線に抗議が含まれていた事がマデリーンはわかった様だ。彼女はそこで一度唇を引き結んだ。
「死ぬのなんて全然怖くない。でも老いるのはだけは嫌。やっと演じるということの意味がわかってきた。面白くなってきたところなの。それなのに、最近信じられないくらい容色が衰えてきた。急によ!ねえどうしてくれるの、わたくしはこれからだというのに。退屈な人生もまっぴらだけど、成すべきことを成しえずに死ぬなんていうのもまっぴら。人に醜く老いた姿を曝すなんて悪夢だわ!」
「人は……みんな、年を取って死ぬん……だって」
「いいえ、わたくしはそうならない。書物の指示に従ってシナバー患者の血を飲み始めたら衰えは止まったわ。一人当たり一ヶ月ほどしか持たないのが難点だけど。本当に体質が一致すれば、一人でもいいはずなのにわたくしは継続的に取らなければならなかったのが残念よ」
ソフィアはそこで初めて、マデリーン・レノルズに対して身震いするような恐ろしさを感じた。一月に一度殺人を繰り返すようになっても良心の痛みを感じていない。
化け物だ。
ソフィアは恐ろしさのあまりからからになった喉でひきつったような声をあげる。
いつ、この美しい人はこんな化け物になってしまったんだろう。
心がないから不老を求めたのか、不老になったから心をなくしたのか。どちらにしてもこの人は捕まらない限り人殺しを続ける。
マデリーンはシナバー患者を人と見ていない。だから苦しみを感じないのだろうか。
ヒューゴのことを思い出した。彼もやっていたことは、亡き妻の遺体の保存という常軌を逸した行為だ。それでも彼はなるべく人に迷惑をかけないように努力していたし、自分が関わったローズ・ボイルとハンナ・コールの死に心を痛めていた。
マデリーンは何一つ心の痛みを覚えていない。
「だめ、です」
ソフィアは床に爪を立てた。先ほどより力が戻ってきたように思う。マデリーンが語っている間に少しずつ薬の力が弱くなってきたようだ。
「だめ。これ以上は……」
「いいえ、可愛いソフィア。わたくしは今ここでひくわけには行かないの。ね」
そしてマデリーンの指はソフィアの首に伸ばされた。
「首を切ったのは別に猟奇事件に見せるつもりだけだからじゃないのよ」
ソフィアもその理由は思いついていた。首に残ったシナバー患者の牙のあとが見つかればシナバー患者が確実に疑われることになる。自らも襲われたというふりまでしたマデリーンにしてみれば、自分が疑われる事は避けたかったのだろう。
しかし、マデリーンの返事はそれとはまったく違うものであって、なおかつ無味乾燥なまでに実用的だった。
「保存薬はケイトから流してもらったものがある。だから首を切って逆さにつって血を回収するのが、一番効率が良いの」
まるで鳥の血抜きだ、とソフィアはもともと白い肌を更に青ざめさせた。
そうか、死体が見つかった場所は現場では無いのだ。ここで血を抜いてから放置した。女優マデリーン・レノルズから声をかけられれば説得次第でついていってしまうだろう。現にソフィアもここに来てしまった。
マデリーンはソフィアの襟首をぐっとつかんだ。どこに連れて行かれるのかわからないが、まあろくなことにはならないだろう。足を踏ん張ろうかと思ったが、そこまで自由は戻っていない。
その時、書斎の扉が弾かれたように開いた。
「そこまでだ!」
急に扉を蹴り開けて入ってきたのはジョン・スミスだった。




