11
まぶたを開けて、ソフィアは自分が横たわっていることを知った。
海に落ちて……フローレンスを抱えて……それから?
はっとしてはじかれたように体を起こした。そしてそこが見知った場所であることに気がつく。
そこはヒューゴの診療所兼住居の住居部分だった。それほど広くない部屋に椅子と古びたテーブル、そしておそらく寝台代わりのソファ。
そのソファに彼女は横たえられていたようだった。掛けられていた毛布が腰の辺りに落ちて引き上げようとしたソフィアは自分がほぼ全裸だということに気がついて悲鳴を上げた。着ていた服は身に着けておらず、羽織っているものは一番下の下着以外は男物の大きなシャツだけだ。
「落ち着いて聞くように」
突然声をかけられて、また飛び上がるほど驚いた。振り返ってみれば、なぜか壁を向いて座っているジョンがこちらに顔も向けずに話しかけてきているのだった。
「じょ、じょ、ジョン、これはいったい……!」
「一分で話し終わる。落ち着け。海に落ちた君を引き上げたのは僕だ。君はフローレンス・ペニーを抱きしめて海に浮いていた。なんとか引き上げたものの、君もフローレンスもびしょ濡れだ。どうしたものかと思案して、とりあえず一番近くて気の置けない場所ということで、ヒューゴの家に連れてきた。ああ、フローレンスは診療所のほうのベッドで寝ているよ。で、問題は君の服だ。濡れたものを着ていては風邪をひく。ちなみに、ここは大事なところだが、君の服を脱がせたのは僕やヒューゴではない。隣家の夫人に来てもらって脱がせて貰った。さすがに代わりの服はとりあえず持ち合わせがないし、着せるのは脱がせることの数倍大変だ。したがって起きるまではその姿でいてもらうことにした。ここで君が起きるのを待っていたのも別に疚しい何かが在ったわけでは無い。急に体調不良になるのが怖かっただけだ。以上。服を着たら合図をくれ」
息継ぎすら惜しい様子でジョンは一気にまくし立てた。その勢いにおもわず圧倒される。
ジョンも誤解が怖かったということだろうか?もっと淡々と「大丈夫だ。着替えさせたのは僕だが、僕もその小麦が良く実りそうな気の毒な平野にはあまり興味がない」というかと思ったが。
「ああ、着替えはとりあえずそこにおいてある。着ていた物はまだ乾いていないので代わりだ」
「……ありがとう」
ソフィアはテーブル上に置かれた服に手を伸ばした。それはペチコートなどもあって大きな山を作っていた。手元に引き寄せるとごそごそと身に着け始める。一体どこでこれらを調達してきたのかは謎だ。ドレスこそ、質素なものだったが、靴下やペチコートなどは総絹の高級品だ。
一体ジョンは何者なのだろうという疑問がまた湧いてきた。
「お待ちどうさま」
「ああ」
ジョンは振り返った。そこで初めてジョンの髪もまだ湿っていることに気がつく。ソフィアとフローレンスを助けるためにジョンも海に飛び込んだのだろう。そういえば彼も着ているものが違う。女装を解いているが着ている服の胸や腕が少し窮屈そうだ。ヒューゴのものを借りたのかもしれない。
「ねえ、この服」
「服の下に身に着けるものはまだ店が開いていたのでなんとか購入できたが服はダメだった。一応用意することはできたが間に合わせだ。いずれ代替品は必ず渡す」
「いいよ。ただ濡れただけなんでしょう。洗濯すれば元通りだし。それに身に着けるものがあまりにも高級品すぎて気がひけるんだけど……着ておいて何なんだけど、お金で返せるかわからないわ」
「いや、必要経費だから。返金は不要だ」
ジョンは頑なに拒んだ。ようやく立ち上がってソフィアのほうに歩いてきた。
「まあなんだ」
ジョンはぶっきらぼうに言った。
「無事でよかった」
ソフィアは少しだけあっけに取られてしまった。ジョンがこんな風に素直に人の安否を気遣うなど想像できなかったのだ。
「心配してくれたんだ」
「海にぷかぷか浮いている姿を見れば誰でもこうなる」
「フローレンスも助けてくれたのね」
「……助けたのは君だ」
ジョンはソフィアを切なそうな顔で見下ろした。ソフィアは女性にしては背が高いほうだがそれでもジョンにはやすやすと見下ろされてします。
「君が命がけで救ったんじゃないか」
「でも、あいつは逃がしてしまったわ」
「しかたない。人質がいたようなものなのだから」
ソフィアはうん、とちいさく頷いた。あの時はフローレンスを助けることで精一杯だった。
「でも確実なことがわかったわね」
「ああ」
「あいつはシナバーだわ」
意外なことだがそれは真実だった。ソフィアはあのローブの者と接近した時に仲間の匂いを感じた。
科学の発展が目覚しくなり人々の知識も広がり行くこの時代でも、シナバー患者への根拠の無い恐れはまだ息づく。それに留まらず、恐れが憎しみに至る人間もある程度の人数はいる。
この事件、ソフィアはそういった偏見を持つ人々が起こしたのではないかと思っていた。マデリーンは一人だと言っていたが、もしかしたら何人かが組んでいるのかもしれないとも。けれど今日、人間だけで無くシナバーが関わっていることがはっきりした。
……理由は想像もつかないが、そういった思想に協力するシナバー患者がひとりでもいれば、事件はとても単純だ。
同族で襲い会う光景はぞっとするが。
「君がいてよかった」
ジョンは静かに言った。
「僕だけでは今日の事件はどうしようもなかった。フローレンス・ペニーは死んでいただろうし僕も無傷ではすまなかっただろう」
「……そうね」
「しかし、君のこともこれ以上危険に曝すわけには行かない。君の限界も見えてしまった」
告げられた意外な言葉にソフィアは彼を見つめた。
「君は優しい。もしかしたら他人を守るために自分を傷つけてしまうかもしれない。そういう人に用心棒は頼めない。今日ここであの依頼は解消しよう。ああ、もし行くところがなければ下宿に戻れるまでホテルにいることはやぶさかではないよ」
ジョンの言葉をしばらく考えていたソフィアだが。やがてゆっくりと目を伏せた。
「ジョンはいつだって勝手ね」
「え?」
そしてソフィアは顔を上げてまっすぐにジョンを見た。
「わたしがいつやめるなんていったかしら。そりゃあ今日の午後までは思いっきりこの事件から手を引きたかった。なんでこんなことに関わってしまったのかしらって自分の運の悪さとあなたの傍若無人さを呪っていたわ」
「僕の傍若無人さは呪うに値するだろうが、君の運の悪さは僕のせいじゃない」
そこは認めるのか!と、呆れながらソフィアは続ける。
「……でもね」
ソフィアは診療所に繋がる扉を見た。
「フローレンス・ペニーはまだたったの五歳なのよ」
「何?」
「あんな小さい子供が、理不尽な死にさらされたなんてわたしには許せない」
「ソフィア?」
「彼女が首を切られて死んでいるなんて見たくないのよ。だからわたしはもう少し頑張ることにしたの」
「まだ続けるのか……?」
「ええ、絶対犯人を捕まえる。フローレンスが再び危険にさらされたりすることがないように」
「君は……」
「わたしは積極的に事件に関わるわ」
ソフィアはぎゅっと拳を握り締める。正直今でも、なんでこんなことに関わってしまったのか……と思う気持ちはなくなったわけではない。あの時は無我夢中だったが、建物の屋上から飛び降りるという無茶をしたことに今更ながら恐ろしさが湧き上がる。
でもあの時はああするしかないと思ったのだ。
「ソフィア」
「ああ、ジョンが止めても無駄よ。私だって引き下がれないことはある。それに……」
本当は言うつもりなどなかった言葉をソフィアは放っていた。
「それに」
ソフィアは俯く。声がわずかにかすれた。
「……そうでもしないと、わたし、ずるいから」
ジョンにとってはかなり意外な言葉だったらしく彼はその美しい蒼の目をしばたかせた。
「ずるい?」
「わたし、自分のことばっかりなの」
祖父にもヒューゴにも言えないソフィアの罪悪感。それが今、声となった。
「シナバーに配給血が渡されるのはわたし達の人権の他にも治安の維持という観点があるのよね。シナバーが勝手に人間を襲い始めたら社会は混乱する。皆それは理解して配給血に協力してくれる。でも国民にとってわたし達はやっぱり厄介者なんだと思う。それでも存在を許されているのは『有事の際、シナバー患者は一律軍所属とする』っていう法があるからよね」
「武力攻撃事態発生時特発性銀朱球増殖飢餓症候群患者徴集法か」
長い法律をすらすら答えるジョンに感心しながらソフィアは頷いた。
「わたし達は強い。大アルビオン連合王国を作ったのもシナバーだし、いつかなにかあったら敵を倒してくれることをわたし達は期待されている」
ソフィアは激しく瞬きをした。今までずっと怖かった。こぼれそうになる涙を堪える。
「わたし、誰かを殺したくない」
みんなそう思って生きているのに、どうしてわたし達はいざという時にそれを強制されるのだろう。もちろんその意を受けて戦いに出て、英雄になったシナバーも沢山いる。
でも自分はそんなことしたくないのだ。わがままであっても。
「ソフィア」
「だからね、医師になるの。医師であれば軍所属になっても医師として参加できるかもしれないでしょう。そうしたら殺さないで済むじゃない」
一度口火を切ってしまえば言葉は溢れるばかりだ。ジョンは表情を決めかねて呆然としている。
「医科大学校の皆は誰かを助けたいという立派な志を持っている人ばかりなのに、わたしだけ自分のためなの。自分の都合で医師になるんだ」
だからエイミーがまぶしくて後ろめたくて友達になれなかった。ソフィアを立派だと褒める声には罪悪感すら覚えた。自分のことしか考えていない自分が誰かを頼るなんて、できなかったのだ。『女性のくせに』『吸血鬼め』なんて暴言より、自分しか知らないずるさがソフィアを苦しめていた。
「ひどいね」
ソフィアは笑顔を作ったがそれは何か痛みを堪えているような表情だった。
「僕は」
ジョンは何か言いたそうだった。しかしうまい言葉が出てこないのか、ひたすら言いかけては口籠るということの繰り返しだ。言いたいことを言い切ったソフィアは、うまく涙を抑えることができた。
言ってしまえば後悔だった。同情を引きたいような発言を恥じ入る。だからソフィアはジョンの返事など待たなかった。そのまま部屋の扉に向かう。扉を開けながら振り返った。本当に今言うべきなのはこちらの言葉だ。
「言い忘れていたわ。助けてくれてありがとう」
その言葉に、ジョンはきょとんとした。まるで筋違いな御礼を言われたような顔で。実際彼の理屈で言えば言われる筋合いではないのかもしれない。巻き込んだのは彼であるわけだから。
御礼を言いたい自分の気持ちを説明するのも馬鹿馬鹿しく、ソフィアはそのまま部屋を出て診療所に入った。
自分の愚痴を、ジョンが早く忘れてくれるように願う。
「ヒューゴ」
ソフィアが部屋に入って声をかけた瞬間、ヒューゴははっとしたように振り返った。診療所の診察台の上に横になっているフローレンスの前から一歩下がった。背中に回して隠した左手に何かを持っていたような気がするのはソフィアの見間違いだろうか。
「ヒューゴ、どうしたの?」
「あ、ああ。よかった。目が覚めたんだね。特に何事もなさそうでよかった」
ヒューゴはいつもの微笑を浮かべた。
「フローレンスはどう?」
「先ほどは低体温だったが、だいぶ戻ってきた。命に別状は無いだろう。念のため補液剤を点滴しておいたよ」
そして彼は左手に持っていた注射を自分の机の奥に置いた。
「さて、ソフィアも少し体調を見させてもらおうかな」
「わたしは大丈夫よ」
「とはいえ、このまま帰したら私はジョンに怒られてしまうよ」
ヒューゴは苦笑いだったがソフィアの後から診療所に入ってきたジョンはなぜか焦っていた。
「おいヒューゴ」
「びしょぬれの君とフローレンスを抱えてジョンがここに飛び込んできてね。まだ急患を見ていたのに、その人を追い出しそうな勢いで君を診察しろと怒鳴ったんだよ。私は今までに彼の発する頭のおかしい発言はいろいろ聞いてきたけど、あんな慌てた様子ははじめて見たよ」
「別にそれは人として当たり前のことであって……」
「私が知る限り、君は常識とは一線を画している変人だ。そこに若い青年らしいところが出てきたのは良いことだよ。まあしかし、私にとってソフィアの御祖父様は恩人だからね、ソフィアに言うとすれば、ジョンにたらしこまれないような気をつけたまえ、という点だな。ジョンではソフィアが苦労する」
ヒューゴはおかしそうにニヤニヤしながらソフィアに言った。その言葉にソフィアは唖然として背後のジョンを見る。
「やだ、ジョン。あなた、たらしこむ、なんて高等な人間づきあいができるなんて思われているわよ。褒められてよかったわね」
「……ソフィア、君はジョンの影響を受けすぎだ」
ヒューゴはなげかわしいとばかりに手で顔を覆った。それからソフィアの手を取る。
「まあ冗談はさておき、少し君を診察させておくれ」
おとなしくソフィアは椅子に座る。その耳にはジョンの「……たらしこむ、か」という興味深げなジョンの独り言は入らなかった。
ただ、ソフィアは疑問を抱くばかりだ。注意を引かないようにその場所から目を逸らしつつ頭はそのことでいっぱいだった。
『念のため補液剤を点滴しておいたよ』
フローレンスについてヒューゴはそう説明した。
それならばなぜ、先ほどヒューゴが机の奥に隠すようにして置いた注射器には、真っ赤な新鮮な血液が入っているのだろうか。
彼がフローレンスに行ったのは、補液ではなく、彼女の血の採取ではないのだろうか?




