10
それから三日間大学の講義が終わってからソフィアがジョンの部屋を訪れると、彼はもう外出した後だった。ただ、真昼からいないようなので、首切り事件の調査ではないようだ。そのまま夜も帰ってこず、ソフィアは久しぶりに一人で食事をとることになった。なんだかんだで一日一度は顔をあわせていたので、寂しくないといえば嘘になる。
別の用事なら追いかけなくてもまあいいかと思っていたが、四日目についにジョンは調査に乗り出したらしい。
部屋の扉を叩いても出てこないので念のためフロントで確認すると、ソフィアが戻ってくる一時間前に外出したとのことであった。時間的には連続首切り事件の調査のためだろうと思われた。
「本当に大人げないんだから……」
ソフィアは呆れながら自分の部屋に戻った。
一体何が彼の琴線に触れてしまったのかがさっぱりわからない。ヒューゴとソフィアの仲が良すぎるといわれても、ジョンと比べれば付き合っている時間が全然違うんだから仕方ないだろう。
それについてこなくて良いと言われても世話になっている以上自分が許せない。
そのまま自室のソファに座り込んだ。ゆっくりと目を閉じる。
「なんなのあの人」
呟いて、ソフィアはジョンのことをまったく知らないことに思い至った。学者の卵。彼について知っているのはそれだけだ。どうやら裕福そうだ、どうやら賢いらしい、どうやら権力があるらしい、変人にしか見えない。
最後以外は全て見込みだ。
変人だけど……でも素直なところはあるかも。
ソフィアはそんな風に考えた。まさか頭に浮かぶとは思わなかったようなことに目を見開いてしまう。
殴りたい回数は日々増えているが、付き合うことが苦ではなくなってきた。ソフィアもジョンのことを知らないが、ジョンもソフィアの事はあまり知らないはずだ。でも信頼してくれている。
ああ、そうか。信頼してくれているんだ。
自分にはなかなかできないこと。
ソフィアは窓越しの街を眺めた。日が落ちるのは早く、すでに街の中は真っ暗で灯るガスライトと窓越しの明りだけが世界を照らしている。
「……危ないじゃない」
ソフィアは立ち上がって一度は脱いで掛けたコートを手にした。
「こんなに暗いのに出かけたら危ない」
ソフィアは部屋を出た。気がつけば小走りだった。ホテルを飛び出し、街に駆け出す。ジョンがどこにいるか具体的な場所は聞いていないが、おそらくヒューゴの診療所のあたりだろうと察しがついた。大通りは混雑しているので避けて、暗い裏路地を走る。
ヒューゴの診療所に顔を出して聞いてみようかと思ったが、時間が惜しい。
裏通りを体力任せにニ、三本走り回って、ソフィアは息を飲んだ。どこかで悲鳴が聞こえたような気がしたのだ。遠くない。ソフィアはあたりを見回してそれから全力で声の方向と思われる路地に走り出した。
覗き込んだその路地の暗がりで、壁に寄りかかる人影が在った。
ドレス姿だが、あの体格は間違いなく。
「ジョン!」
ソフィアは悲鳴を上げた。その時通りの向こうに消える人影を見たが、そちらをかまう余裕はなかった。湧き上がった「追いかけるべきか?」という己への問いを踏みつけて、彼女はジョンに駆け寄った。
以前よりは比較的ましになったとはいえ、またあの不気味な女装だ。化粧は控えめにしてくれたので多少衝撃は弱まったかもしれないが、いや見慣れただけかもしれない。しかしそんなことに頓着する余裕はなかった。
服に土がつくのもかまわずソフィアは跪き、横たわるジョンに顔を近づけた。
「ジョン!大丈夫?生きてる?」
見たところ、外傷らしい外傷は無い。血も出ていない。首筋に指を触れてみればきちんと脈が取れた。頭部の怪我が心配だったのでソフィアはあまり揺らさないようにと優しく彼の頬に触れた。
自分が彼を放り出してしまったせいでこんなことになってしまったと心が凍る思いだ。いろいろ腹を立てさせられることが多いこの青年だが、それでも死んだりするほどではない、けしてない。
彼の飄々としたマイペースに巻き込まれ、不愉快なこともあるがここしばらくソフィアはどちらかといえば愉快な気持ちでいたのだ。それにジョンは、ソフィアの祖父ですら応援してくれたかわからないことを当たり前のこととして受け入れてくれた。それだけでも大分ソフィアの気持ちは救われた。
ソフィアは少しだけ当たり前でない人生をおっかなびっくり歩もうとしている。ジョンは凡人からすればかなりどうかしている日々を歩みつつ揺るぎない。それはソフィアにとってうらやましいと妬みたくなるほどにまぶしく……だからこそ人生の指針のように憧れた。彼の傍若無人さはソフィアの自己肯定を後押しする。もちろん彼に言ったら調子にのりそうなので言うつもりは無い。
それに。彼の自己都合といえばそれまでなのだが、彼は市警すら及び腰のこの事件を懸命に追っているのだ。自分の危険も省みず。
「……わたしがついていればこんなことには」
守りきれたかどうかはわからないが、少なくともソフィアがいればもっとまともな戦いにはなったはずだ。
ソフィアは売り言葉に買い言葉で彼から離れてしまったことを激しく後悔した。彼を一人にするべきではなかったのであろう。といきなりジョンの手が動きソフィアの腕をつかんだ。
「えっ」
ぎょっとしたソフィアは自分を見つめているジョンの瞳の蒼に気がつく。
「ソフィア、来てくれたか」
「……もしかして襲われていないの?」
自分でも空恐ろしいほどに急降下した低音の声音で、ソフィアは尋ねた。
「いや」
けろりとした口調のジョンにいよいよ引導を渡す時が来たか、と物騒なことを考えているとジョンが腹筋を使ってひょいと半身を起こした。ソフィアの腕はつかんだままだ。
「いや、ちゃんと襲われた。しかしその一撃が予想よりも激しくて、一瞬で地面に倒れてしまった。額まで地面にぶつけたよ」
「ああ、青あざが。まあでもこの方がその無駄な美形っぷりに締まりがあっていいかもしれないわね」
「それで、思わず叫んだら、君が駆けつけてくれたというわけだ。しかしちょっと目を回してしまったよ」
「こんなにけろっとしているなら、少し遅れてもよかった。あなたの息の根が止まったころに来ても十分間に合ったわ」
先ほど発狂しそうなほど心配したという事実を自分の見えないところに放り投げてソフィアは微笑んだ。しかしその微笑にジョンは勘違いをしたらしい。
「なあソフィア、君はもしかして僕のことを好きなのか?」
「もしかしないわ。図に乗るな」
一言で斬り捨てて、ソフィアは彼の肩に手を添える。
「他に怪我は?」
「いや、本当に転んでおでこを少し打っただけだ」
一瞬だけよろけたものの、その後ジョンはゆっくりと立ち上がった。
「まいったよ。マデリーンの言う事は本当だな。とても人間とは思えないような力だ」
自分のことよりも事件のほうが大事のようである。
「一瞬で首に縄が巻きつけられてね」
ぎゅーっとね、とジョンは首の両脇に拳を置いて引っ張る真似をする。
「慌てたけど息があるうちにと叫んだんだ」
「そんなことして!」
「仕方ない。九死に一生だったが、真実を追うためには覚悟しなければならない犠牲があるんだ」
ジョンはソフィアの手を放して膝のほこりをはらった。
「しかし君が来てくれてよかった。命が助かったことももちろんだが、それ以外の部分でもなんだかほっとしたよ」
「それ以外って?」
「さあ。やはり卵の殻を向いてくれる人がいるのはありがたいということだろうか」
なんだろう、この今までに無い腹立たしさは。
ソフィアがむくむくとわいてきた感情に振り回されようとした時、ジョンはそれはさておきと話を区切った。
「しかし、まさか僕が襲われるとは」
「だって襲われたかったんでしょう?」
「でも僕はシナバーじゃないから難しいと考えていたんだ。でも襲われたことでわかったことがある。あれはやはり人間ではない。マデリーンはそこだけは間違っている」
ジョンは冷静に今の状況を判断していた。
「僕を襲ったものの悲鳴を上げられたことで慌ててあれは逃げ出した。そして君が到着するまでは本当にわずかな時間だ。それだけで逃げられるなど普通の人間ではあり得ない。あればシナバー患者に違いない」
「でもね、シナバー患者であれば、相手がシナバー患者かそうでないかはわかるのよ」
「そうなんだ、僕がただの人間ということはわからないはずがない……だとすると……」
ジョンは首を傾げた。
「犯人は一人ではないんだろうか」
「あなたを襲ったのはシナバー患者で、その背後に人間がいるってこと?それにしたってシナバー患者を襲う理由にはならないわ」
「……確かにそうなんだ」
ソフィアの指摘など、ジョンはとっくに到達していたらしい。その美しい黄金の髪をくしゃくしゃにする勢いで頭をかき乱した。
「おかしい。僕は間違いなく何かを勘違いしているのだが、それを突き止めることができない」
夜の町はまだ雪が降るには寒いが、体の芯まで凍えさせるような霧がかかっていた。その闇に二人の声は響く。
「ねえ、ジョン」
ソフィアはしばらくの間考えていたことを口にした。
「もし差し支えなければ、わたしが囮になったほうが早いんじゃないかと思うの」
「え?」
「相手はシナバー患者を襲うのよ。あなたよりわたしがうろうろしたほうが網にかかる可能性は高いと思うの」
「ダメだ!」
かなり強い口調でジョンは言った。それからその言葉に自分自身が驚いたのかふいに唇を噤んだ。
「もちろんあなたに助けてとは言わない。でも助けを呼んでくることくらいはお願いできるでしょう」
「ダメだ。君はおかしい。女性がそんなことを言うべきではないんだ」
「……なんだかジョンらしくないわ」
ソフィアは彼の本音をさぐるような目で言う。
「いつも男性も女性も関係ない。得意なほうがやればいいって言うジョンじゃないみたい」
「それは……」
自分の言ったことを言われてジョンは居心地悪そうにした。いつも傲慢なまでに自信たっぷりな彼の目が頼りない色を湛えて揺らめく。
「それはそうだ。確かに君の言うとおりだ。しかし僕はそれを不愉快に思う」
「ジョン」
「この話はもうよそう。僕の中でもどうしてつじつまが合わないのか説明することができない。きちんと自分の中でまとまったら話すから。それまでは我慢してくれ」
そっけない言葉にソフィアは肩をすくめた。
こうなってしまっては彼はけしてソフィアの催促など聞きはしないだろう。
「わかったわ」
「せっかく来たからヒューゴの診療所によっていこうか」
「そうね」
ソフィアは不満を隠して言う。そもそもいつものジョンのほうが大雑把なまでに大らかだったのだ。言うことが多少変質してもそれは仕方のないことだ。ソフィアが責めるべきことでもない。
ただ、少しがっかりしただけだ。
二人の間に気まずい沈黙が落ちる。ジョンが何を考えているかわからないまま、ソフィアは無言だった。
多分、用心棒と主人、ヒューゴの共通の友人、事件を追う者、そういう関係から変わりつつあるのだろうと思う。しかしジョンはもとより自分も他人と交流するのは苦手だ。だから親しくなりたいのになれなくて、ひずみとして気まずくなっているのだろう。
本当に言わなければならない事はもっと別に。
ヒューゴの診療所に近づいたところで、ソフィアは道に何かが落ちていることに気がついた。がさがさと風に音を立てているそれを拾い上げる。それはヒューゴの診療所の処方薬だった。袋には名前が書いてある。ペニーと。
「……もしかして」
ソフィアははっとしてあたりを見回す。
「どうしたんだ、ソフィア?」
これはフローレンス・ペニーの母親の薬だ。それを取りに行くのはフローレンスの役目だった。シナバーのあの子が。
そして、建物の上を見てソフィアは悲鳴を上げる。
レンガ造りの倉庫の上に人影があった。黒く長いマントでもかぶっているのかはっきりとしないシルエット。しかしその右腕のあたりに抱えられている小さな人影は、間違いなくフローレンス・ペニー。
「あれはさっき僕を襲った……!」
「小さいのはシナバーのおちびちゃんよ!」
叫んだソフィアはためらわなかった。
「ジョン!わたしに任せて!」
「ソフィア?」
そしてソフィアはあたりを見回す。自分のブーツの紐がきっちりしまっているかを一瞬で確認すると彼女は高い壁に向かって顔を上げた。と思えばふいに振り返ると軽い足取りでそこから離れていく。
「ちょっとまて、何を考えている」
ジョンが尋ね終わる前に、ソフィアは走り始めていた。距離をとったのは助走をつけるためだった。
ソフィアは塀の直前で思い切り地面を蹴った。建物の壁に突き出たわずかな張り出しをつかみ身を引き上げると、その下の窓枠に足をかける。足場というには頼り無さ過ぎるというのに強靭な足は安定した階段のようにソフィアを上に送り出した。それを繰り返し、最上部の屋上に手をかけるまで一瞬だった。
「ソフィア!」
最後だけ手を滑らせかけたが、ソフィアは不安定になる事無く屋上まで一気に上り詰めたのだった。立ち上がって一度だけ深呼吸をすると荒れた息使いさえ元に戻った。
下ではジョンがわあわあなにやら騒いでいるが、ソフィアはかまうことなく、ただひたすら辺りを見回した。夜の藍色の中、頼り無い町の光で必死に探す。
「……いた!」
はるか向こうの建物に上に、先ほどのソフィア同様恐ろしく敏捷に建物の屋上を渡っていく人影が見えた。脇には何か荷物を抱えているが、あれはまちがいなくフローレンス・ペニーだろう。
「逃がさない!」
ソフィアは屋上を走り始めた。建物の隙間を跳躍することですら怖いとは思わない。
……これは確かに、人と同じゲームには参加できないわ。
あらゆるスポーツで締め出されているシナバー患者のことを考える。それもまた仕方ないことだ。普通の人間は屋上まで軽々と登ったりはできないし、傾斜のある建物の屋根の上を地上と同じ速さで走りぬくこともできない。
「ああ、もう、邪魔なんだから」
今、ソフィアを苛立たせているのは自分の身体能力ではなく、それを妨げる長いスカートだった。膝下が丸見えになるのもかまわず裾をたくし上げる。両手が塞がれてもバランスが崩れることが無かった。シナバーになってから今までこれほど動き回ったことが無かったから知らなかったが、やはりこの能力は普通では無い。
人間とは違う強靭な体。
その意味が妙に間近に迫ってくる。
少しだけ怖く思えた。人が自分たちを恐れるのもわかるという不安だった。
気がつけば、相手との距離は徐々に詰まり始めていた。相手は五歳児を抱えている。その分ソフィアが有利だったのだろう。
「待ちなさい!」
相手はゆったりとしたフードつきマントを身に着けており、顔や体格はおろか髪の色すらわからない。
と、ふいに相手は立ち止まった。その勢いにソフィアもよろけながら足を止める。勢い余って建物の屋上から転がり落ちそうになったことに気がついた。広い屋上を持つ建物の上ではあったが、そこが終わりの場所だった。先に建物は無い。
ソフィアは相手が逃げられないように正面に回りこんだ。潮の匂いにふと気がつく。いつの間にか港まで来てしまったのだ。大きな客船が吐き出す煙が見えた。
「フローレンスを返しなさい!」
ソフィアはおもいきり声を張り上げた。屋上の端で、相手は黒いマントを風に揺らしている。
「一体あなたは何者なの?」
ソフィアは言うべきかどうか迷ったが口に出さないのも不自然だと気がつく。
「あなた、シナバーね」
ソフィアと並ぶほどの身体能力だ。聞くのも本来なら馬鹿馬鹿しい。問うのは「シナバー患者が同類を襲うのか」という混乱を整理したいだけだ。
相手の顔は見えないが、こちらを見つめている事は痛いほどわかった。視線が刺さるようだ。その腕のフローレンスはどうやら意識を失っているらしい。相手がしつこいソフィアに閉口しているのはなんとなく感じとれた。
ふと気がつく。ジョンが襲われたのは、事件を調べてまわっている彼が邪魔だったからではないかと。今日、フローレンスを襲う予定で、その周りを下手にうろうろしていたから彼は巻き込まれたのでは。
ふいに相手の手の向きが変わってソフィアは思案する余裕をなくす。相手はフローレンスのドレスの背中を強くつかんだ。何をする気なのかと見守っていたソフィアは意図に気がついてはっとした。相手の手はフローレンスを建物の外側に突き出したのだった。
もしその手が放されれば……。
ソフィアはためらう事無く走り出していた。相手が腕を大きく振り回し、弾みをつけてフローレンスを中に放り出した時、ソフィアも建物の屋上の床を踏み切っていた。
「フローレンス!」
建物は地上五階。
多分落ちて叩きつけられても、首の骨を折るとかしない限り即死は免れるだろう。いろいろ骨折してすごく痛そうだけど。
でもまだ小さいフローレンスは無事に済むかわからない。
一瞬でソフィアはそこまで考えた。
空中でフローレンスを抱きとめた時には、ソフィアは思い切り頭を下にして落下し始めていた。逆さまになりつつある世界を見まわしたソフィアは最後におもいきり横の建物の壁を両足で蹴飛ばした。地面に叩きつけられるより、海のほうがましだ。
少しだけさらに向こうに飛んだソフィアは……次の瞬間、激しい水の音を立ち上げた。水面の衝撃の後、身を切るような冷たさが布を通して染みこんでくる。
どちらが上か下か、一瞬でわからなくなる。もがくにも服が邪魔だ。
夜の海の暗さにソフィアは目を閉じた。




