表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/105

第70話/Cat

第70話/Cat


夜の事務所には、俺だけが残されていた。


「……あら、ユキ。まだ起きてたの?」


「ん?ああ、アプリコットか」


一人ソファに座る俺の所へやって来たのは、キャミソールにガウンを羽織ったアプリコットだった。


「どうしたんだよ。眠らないのか?」


「その言葉、そっくりそのまま返すわ」


「ははは。俺は今日は、特になにもしてないからな。疲れたのはきみの方だろう?」


「ん~、まあそうだけどね。気疲れというか、精神的に堪えたわ」


精神的……肉体的には、そんなにということか?男一人をねじ伏せたはずなのに?

俺はアプリコットをまじまじと見つめた。見たところ、体に傷はない。本当に怪我一つなく、あの場を切り抜けたのか……


「えっち」


「え……あ、いや、そうじゃないぞ!」


俺の視線に気付いたアプリコットが、半目で俺を睨んでいた。


「……あはは、冗談よ。わかってるわ、どうやってラミーの口を割らせたのか、でしょ?」


「……!」


ずばり、だった。やはり彼女は、ひどく頭が切れる。


「気になるわよね、分かってる。ちゃんと教えるわ……けどね、正直言うと、あんまりいい手段じゃないの。あんたやウィローみたく、豪快でもなければ、かっこよくもないわ」


「……別に、無理に言うことはないぞ。きみが嫌なら」


「ううん。隠し事はしたくないの。特にユキ、あんたにはね」


アプリコットは深く息を吸うと、キッと俺を見つめた。


「だけど、見たいと言った以上、責任はとって。絶対、目をそらさないでちょうだい。どんなものであっても」


「……わかった、約束するよ」


アプリコットはにこりと微笑むと、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。


「……?」


アプリコットが俺の目の前に立つ。刺青を見せてくれるのか?

……あれ。その時になって思い出したが、アプリコットと初めて出会った時、俺は裸の彼女を見てるじゃないか。そしてその時、彼女の背中はおろか、どこにも刺青なんかなかったぞ……?


「えい!」


バサ。

アプリコットが、キャミソールの裾を思いっきりまくり上げた。

……え?


「どわ!ななな、なにを!」


「目をそらさないで!ちゃんと見るっていったでしょ!」


ぐっ。確かにそう言いはしたが……

アプリコットは軽くうつむいて、上目がちな目で俺をにらみつけた。ふーふー息をする彼女の手は、心なしか震えて見える。


「……お願いよ。その後だったら、どんなに嫌っても、気味悪がってもいいから。見もしないで、そんなこと言うのはやめて」


後半の言葉は、俺というよりは、過去に語り掛けるような口ぶりだった。

俺が逃げ出さないのを確認すると、アプリコットはさらに俺に近づく。そしてそのまま、ソファの上にのし上がった。


「お、おい……」


「黙って」


今や、彼女の股間が目と鼻の先にあった。下着に刻まれた細かなレースの模様までくっきり見える距離だ。


「いい?ゆっくり、ゆっくり右脚を見て。そう、その腿の付け根のところよ……」


俺は言われるがまま、そろそろと視線を向ける。

彼女の内腿、下着と肌の境目の所に、何かが刻まれてる。

刺青だ。複雑な模様で描かれた、猫の刺青がそこにあった。


「……っ!」


ドクン!

心臓がどくりと跳ねた。

体中の血が湧きたつ。顔から火が出るように、カーッと熱が集まっていくのを感じる。


「な、んだ、これ……」


沸騰する頭の中で、はっきりとわかることは一つだけ。


目の前の女性が、愛おしくて堪らないということだった。今すぐ抱きしめて、彼女を感じたい。彼女の愛を受けられるためなら、冗談抜きでなんだってやれる。

そして、それと同時に、耐え難い衝動が俺の理性を襲った。

目の前の彼女を無茶苦茶にしたい。彼女に欲望の丈をぶちまけて、彼女を汚してしまいたい。きっと彼女も許してくれる。それでこそ、彼女の愛を受けることができる……


「ハッ……ハッ……!」


俺は夢遊病者のように、ふらふらと手を差し伸べた。

目の前の彼女は、聖母のような慈愛に満ちた笑顔で俺を見つめてくれている。きっと俺が何をしたって、きっと彼女は受け入れてくれるだろう。

俺は彼女の絹のような肌に、手を這わせ……


「っ!」


……ようとした。

まて。俺は何をしているんだ。目の前の彼女は、俺のよく知る女は、そんな一時の劣情に流されていいような女だったか。

そうだ、彼女の名は……


「アプリコット!」


はじかれたように目が覚めた。


「……おどろいたわ。この刺青が効かないのは、あんたで二人目よ」


ぴょんと、アプリコットがソファから飛び降りた。キャミソールの裾を戻すと、ぽんぽんと手で整える。


「な、なにが……おこったんだ……?」


俺は全力疾走の後のように、ぜぇぜぇと荒い息をしていた。


「これが、あたしの刺青の能力。魅了の(チャーム)よ」魅了の(チャーム)よ」


チャーム?吸血鬼や夢魔が持つっていう、あれのことか?


「じゃ、じゃあ……俺は、それに掛かっていたのか?」


「そう。どうだった?あたしのこと、すっごく抱きたくならなかった?」


「だっ……!いや、それは……」


「あら、そうでもなかった?ふつう、一度この刺青に掛かったら、よほどのことが無い限り理性を失うんだけどね。あんたは自力で脱出できちゃったから、あんまり効かなかったのかしら」


襲い掛かる一歩手前だったとは、なかなか言いづらかった。あれは強烈だった……


「けど、これでわかったでしょ……あたしが、どうやってラミーの口を割らせたのか」


そうか。アプリコットは、この刺青を使ってラミーを倒錯状態にさせたんだ。


「猛烈な情欲と承認欲求でふらふらになった人間は、赤子も同然よ。手を捻るのなんてわけないわ」


だろうな。それに、あれは一種の催眠のような効果も持っているはずだ。アプリコットの頼みなら、なんだって聞いてしまうような……


「……汚いやり方でしょ。あたしはこうやって、何人もの人間をたぶらかしてきたの。そのくせ、自分の体は汚さないままでね」


「え……」


「驚いた?あたし、実は自分の体を売るようなことはしたことないのよ。たぶん処女じゃないとは思うんだけど、小さなころのことは覚えてないから」


「……」


「この刺青に掛かると、最終的には夢を見ているみたいになるの。相手は勝手に都合のいい夢を見て、目が覚めた時には勝手に満足してくれてるのよね。後はあたしが隣でおはようって言ってあげれば、一夜を過ごしたんだと信じて疑わないわ」


「じゃあ、チャックラック組は……?」


「ああ、ファンタンね。あいつはひどく用心深かったわ、さながら猫を恐れる鼠みたいに」


俺は、あの小太りの男の、痩せた鼠の刺青を思い出した。

あの時、ファンタンは言っていた。『ワタシは直接手を出してはいない』と……


「刺青のカラクリに気づいたのか、絶対にあたしの肌を見ようとしなかった。部下にあたしを痛めつけさせるだけだったの。けどその様子は必ず他の組員にも見せて、上下関係をはっきりさせてた。もし少しでも欲を出してれば、あの首に噛みついてあげたのに……食えない奴だったわ」


「そうだったのか……」


「この猫の刺青はね、相手が興奮してないと効果が薄れるの。自分から股を開いても、警戒されてちゃ通用しないわ。ほんと、どうしようもない力……」


アプリコットは俺の隣に腰掛けると、ひざの間に顔を埋めた。


「……勘違いしないでほしいんだけど。あたし、自分の体を使うのをとやかく言いたいわけじゃないの。むしろ、肯定的に捉えてるわ」


「……ああ」


だって彼女は、“風俗街のボス”だから。


「プラムドンナの子たちも、風俗街のみんなも、そこで働いてたルゥだって、否定する気はない。自分の体で稼いで、自分の魅力を武器にする。みんな好きでやってるわけじゃないかもしれないけど、生きるために一生懸命よ」


自分の性を売り物にする彼ら、彼女たち。その在り方を否定するのは、彼らの居場所を奪うことと同義だ。


「それをモラルだとか、常識だとかいう、恵まれたやつらが一方的に押し付けてくるクソみたいな価値観で!…………ごめんなさい、頭に血が上ったわ」


アプリコットは、ふーっと、長い息を吐いた。


「とにかく、あの子たちは立派よ。ちゃんと自分の体で、額に汗水たらして頑張ってる。けれど、あたしはどう?この呪いみたいな力で、一人だけ楽してる。一線を越えるのが怖くて、結局踏み出せずにいる臆病者よ。風俗街のボスが、聞いて呆れるわ」


「……アプリコット。そんなふうに自分を言うな」


「ううん……やっぱりあたしは、ずるい女よ。あたし、あのままユキが抱いてくれればいいのにと思ってた」


「ぃえ!?」


「そうすれば、みんなと同じになれるんじゃないかって……最低よね。ユキのことまで利用して」


「いや、なんというか……」


「しかも断られるし……」


「それはしかたないだろ!?」


俺は鼻の頭をぽりぽりかくと、ゆっくり口を開いた。


「アプリコット。きみは、在り方を否定するのは間違ってるって言いたいんだろ?」


アプリコットは顔だけ持ち上げて、こちらを見た。


「俺だって、ルゥやレットを否定する気はないよ。けど、ルゥが嫌だっていうなら、ルゥを風俗で働かせはしない。もし否定するなら、それしか選べない状況そのものが間違ってるんだ」


「……けど、それが世間一般ってもんだわ」


「そうかもな。だから、俺たちで変えていくしかないんじゃないか」


アプリコットは、なにも言わない。


「きみが自分を否定しちゃ、俺たちだって変われないだろ。だから、そんなことは言うなよ」


「……そうね、そうかもしれないわ」


アプリコットは、すとんと立ち上がった。


「もう少し考えてみるわ。いますぐぱっと変えられるような、かわいい性格してないから」


「ああ。知ってるよ」


「あら、ひどいわね」


アプリコットはくすくす笑うと、くるりと背を向けた。


「……あ、そうだわ。一つ聞きたいんだけど」


「うん?」


「あんたって、もしかして不能なの?」


「……」


すごい流れの変わり様だな。


「……なんでそうなるんだよ?」


「だぁって、こんないい女が誘ってるのに襲わないんだもの。それかすごい変な性癖とか?」


「バカ……俺だってギリギリだったさ」


「あ、そ、そうなの?……ふぅん」


アプリコットはなにかごにょごにょつぶやくと、ごほんと咳払いした。


「でも……結局、あたしも誰かに愛されたかっただけかもしれないわ」


「愛、か?」


「ええ。そういうのって、究極的な愛の形じゃない?」


「えぇ?そんな刹那的な……」


「そりゃ、全部が全部そうじゃないでしょうけど。あんたなら……ね」


……ん?それってどういう……


「ま、けど踏みとどまってくれてよかったわ!あんなだまし討ちみたいなんじゃ、のちのち後悔しそうだしね」


「ん、それはそうだな。ちゃんといい相手を見つけろよ」


「そうね。こんどは真っ向勝負で突き崩してあげるから、覚悟なさい。それじゃ、おやすみ!」


アプリコットはたたたっと二階へ駆け上がっていった。

……最後の会話、微妙に食い違っていたような気がするんだが、気のせいだろうか。


「……ん?」


かたん。小さな物音がした。視界の端に、ちらりと何かが映る。

今……誰か、いたか?そういえば、この前ここで幽霊じみたものを見たような……


「けど……」


さっきの人影、見間違いじゃなければ、ウィローに見えた気がしたんだが……?


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ