ライラックの雛 その1
朝食を終え台所でお皿を洗っていると、おもむろにリスカが質問してくる。
「ねえねえ、ここにはモコモコウサギ、ベオウルフ、ブルホーンの他にも魔物がいるの?」
「まだ産まれてないけど、ライラックの卵が俺の部屋に置いてあるぞ」
「ライラックの卵!? すごい! 魔物の卵って見たことがないから興味ある! 見に行ってもいい!?」
「ああ、二階に上がって一番奥の部屋にあるから勝手に見てきていいよ」
俺がそう言うと、リスカは嬉しそうに階段を上がっていく。
ライラックの卵は今朝も特に変化はなかったし、急に孵化するようなこともないだろう。
卵を見たり触ったりするだけなら危険なこともないし。
そんなことを思いながら使ったすべての皿を洗って、布巾で拭いていく。
最後の皿を拭き終わり食器棚に戻すと、便意が襲ってきたので俺はトイレに移動。
俺がホッとしながら用を足していると、急に二階からドタバタとした音が聞こえる。
何やらリスカが叫んでいるようだが、密閉されている空間のせいか声がくぐもって遠い。
少しだけ扉を開けて顔を出すと、リスカの声がはっきりと聞こえてきた。
「アデル兄ちゃん!? どこにいるの?」
なんだ? 俺がいなくて寂しがるような年齢や性格でもないだろうに、一体何を慌ててるんだ?
「いるなら返事して!」
返事したいけど俺は絶賛トイレ中なのだが。
妹みたいな存在とはいえ、年頃の少女の前でトイレなどというのも嫌だな。
とはいえ、凄く困っているような雰囲気なので声をかけるしかないか……。
「俺ならトイレにいるぞー」
「えっ、トイレ!? なら、後でいいや」
ああ、リスカが戸惑ったような声をしている。だから言いたくなかったのだ。
とはいえ、ライラックの卵を見に行っただけなのに、それほど興奮することがあったのだろうか?
不思議に思いながらトイレを済まして出ると、「ピイピイ」とした甲高い声が聞こえてきた。
おい、ちょっと待て! なんだ、今の鳥の鳴き声みたいなものは? まさか俺がトイレに行っている間に、ライラックの雛が生まれてしまったとかではないだろうな?
まさかと思いながら急いでリビングに戻ると、そこには小鳥の雛を手の平に乗せたリスカがいた。
「ああ、アデル兄ちゃん見て! ライラックの子供が生まれたの! ほら、見て。凄く小さくて可愛い!」
「ピイピイ!」
「……お、おお」
想定していた最悪の事態が起きてしまい、俺は思わず崩れ落ちる。
「ええ、どうしたの!? ライラックが生まれて嬉しくないの?」
「嬉しいけど……嬉しくない……」
「な、何で?」
リスカはライラックの特性を知らないのだろう。
まあ、無理もない。
普通の人は魔物の脅威を知っていても、生態までは知らないことが多いからな。
「あのなリスカ、ライラックの雛は…………産まれてから最初に見た生き物を親と認識するんだ」
「えっ!? そ、それじゃあこの子にとっての親は……あたしになるってこと?」
俺はしっかりと頷くと、事態を呑み込むことができたのかリスカが顔を青くした。
「試しにその雛を渡してもらってもいいか?」
「う、うん」
「ピイー! ピイー!」
リスカからライラックの雛を受け取ろうとすると、猛烈な勢いで鳴き声を上げ始めた。
俺の手には絶対に乗るまいと、か弱いながらにリスカの指にしがみついている。
「ど、どうしよう、本来ならアデル兄ちゃんが親になるつもりだったんだよね?」
「……そうだな」
見たところ、雛はリスカを親と認識しているようだし、育成計画は失敗したようだ。
思わずため息を吐いてしまうと、リスカが勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめん。あたしがライラックの卵が見たいとか言ったから!」
「いや、リスカは悪くないよ。許可を出したのは俺だし、ちゃんとそういう可能性もあるって知らせてなかったから」
兆候がなかったとはいえ、もうすぐライラックが産まれるかもしれないのはわかっていたことだ。俺がついて行っておけばこんなことには……。
「生まれたばかりの雛に親がいないと大変だよね?」
「いきなり親がいない状況は相当なストレスになるだろうな……」
いきなり親と離れ離れにされて、知らない人間に世話をされるのだ。生まれたばかりのライラックからすれば不安しかないだろう。
どうするべきか。レフィーアから教えてもらっていた育成計画では、自分を親と認識させるのが前提だったしな。
レフィーアとしては、今の状況も貴重なサンプルだとか言って喜びそうだが、引き離したことが原因で雛が衰弱でもしたら気分が悪い。
「だったら、あたしがこの子の世話をしてもいい?」
「リスカが? でも、毎日通うのは大変なんじゃ……」
「大丈夫。あたしもここに住む」
「ああ、それなら安心だな…………って、え!?」
「ここには空き部屋もたくさんあるんでしょ? この子が大きくなって落ち着くまで、あたしがここの飼育員として働く。ダメ?」
いきなり斜め上の意見を言い出すリスカ。
住み込みで働く? リスカが!?
いや、ダメではない。
ライラックを育てる上では、親が近くにいてやれることは一番いいことだし、俺も観察できる範囲にいれば研究データもすぐにとれる。
それに牧場経営の視点からしても、人手が増えるというのは大いに助かる。
いや、でもここは普通の牧場とは違う、魔物を育成する場所だ。危険だってつきもの。それにリスカには家の牧場だってある。
「……リスカにだって家の仕事があるだろ?」
「そこは何とかなると思うよ。うちの牧場は最近人手が増えて余裕もできてきたし。別に同じ村なんだから離れ離れになるわけでもないし、臨時のお手伝いみたいなもんだよ」
確かにそうだが、リスカの両親はどう思うだろうか。
「モコモコウサギやベオウルフはともかく、ブルホーンは怒ると突撃してくるぞ」
「うっ、ブルホーンの相手はアデル兄ちゃんに任せます」
比較的無害な魔物が多いから錯覚しそうになるが、俺が育てているのは魔物だ。普通の動物よりも危険性は遥かに高い。
それを忘れてしまっては困るので釘を刺す。
中途半端なことをしてリスカに怪我をさせてしまったら、取り返しがつかない。
「でも、大丈夫だよ。魔物が相手だって覚悟してるから。生き物を育てることに危険はつきものだよ」
まあ、牛や馬だって機嫌が悪ければ暴れたり蹴ってきたりするもんな。体格の小さな人間であれば、それだけで骨折や当たりどころによっては死にも繋がる。
日頃から牛や馬の世話をしているリスカも、それは十分覚悟の上か。
本人がそのことをきちんと理解しているのなら、今さらどうこう言う必要もないだろう。
「じゃあ、リスカの両親に確認しにに行こうか」
「えっ? 別にあたしだけでいいけど?」
「俺の親にブルホーンのミルクを持っていこうと思っていたし、お世話になっていたリスカの両親にも顔を出しておきたいから」
「ありがとう。父さんと母さんも喜ぶと思うよ」
そんなわけで、俺はリスカと共に村へ向かうことにした。




