第109話、あるネコの物語―二度と戻らないチーズ―【異聞禁書の語り部】
【SIDE:狂える異界大魔猫王暴走譚】
魔王に幼女に四星獣。
北の英雄に、英雄の末裔。そしてヴェルザに住まう魔猫達。その他諸々も参加する宴の中。
異聞禁書ネコヤナギは一冊の魔導書を開いていた。
それは『狂える異界大魔猫王暴走譚』というタイトルの逸話魔導書。
大魔王ケトスの人生を絵本として綴るアイテムだった。
異世界からやってきた魔猫の目的が、その書によってわかるというのだ。
絶世の銀髪美少女ネコヤナギが、白銀の陶器を指で弾くような――凛とした声音で語りだす。
『それじゃあ、読むわよ――これは昔のお話です』
世界管理者による読み聞かせが始まった。
◆◆
これはこことは違う、外の世界のお話。
盤上世界外の物語
楽園の神々が内戦で滅んだあと、人間たちがそれぞれの世界、それぞれの大陸で暮らし始めた――神々が死んだ後の世界の話です。
その魔猫は普通のネコとして、とある世界、地球と呼ばれる遠き青き星から転生してやってきました。
魔猫は元人間。
生まれ変わる前の記憶もあまりありません。
気づいたときには既に、魔猫は独りぼっち。人間たちの世界の片隅、猫魔獣として冷たい路地裏でゴミを漁って生きていました。
ネコとしての素質があまりなかったのでしょう、ネコとしてはとても頼りない野良猫でありました。今でこそその白いモフモフは巨体、大きなネコでしたが当時はろくにご飯も取れません。かつて人間だったせいでしょう、狩りがあまり得意ではなかったのです。
魔猫はパン屋の前で、じっとおいしそうな酵母の香りを眺めていました。
湯気まで美味しそうなベーコンの香りもします。
パンの上はパラダイス。脂の乗った肉の上に更にチーズを乗せて、バターをたっぷり塗って――人間たちは美味しそうに食べています。
特にとろけるチーズの香りがたまりません。
けれど魔猫は食べられません。なぜなら魔猫はネコ魔獣。
魔物なのです。お金もありません。奪うだけの力もありません。だから、人間たちが捨てていったゴミ、包み紙を齧って何とか飢えをしのぎます。
そんなある日。
やせ細った魔猫は、人間たちの残したゴミを漁っている内に一匹の野良猫と出会いました。
はじめ魔猫はその野良猫の事がパンに見えていました。なぜならそのネコの手の先が焦げたパン色のような、愛らしくて美味しそうな手をしていたからです。
とてもツンとした、けれど愛らしいメスネコでした。
焦げたパン色、黒いグラデーションがとても魅力的な、ふわふわなネコでした。
焦げパン色のキミが言います。
あなたって、本当にダメね。また狩りに失敗したの? 昨日は人間に見つかってご飯を取り上げられてたし、一昨日だって他の猫に横取りされてたし。
え? なぜ知っているのかって? そりゃあ、あなたみたいなノロマな野良猫、とても目立つもの。
そう。そんなにお腹が空いているの。仕方ないわね、ついてきなさいよ、あたしの狩り場を教えてあげるから。だってしょうがないでしょう、さすがに目の前で野垂れ死にされるのは御免だわ。
なによ。その顔。あなた、変な猫ね。まるで人間みたいな表情をしているわ。
魔猫は焦げパン色のキミの助けを得て、初めて上手に狩りができました。
路地裏に廃棄されたゴミ。かびたパンでしたが、とても美味しく感じました。その日の寝床は同じ冷たさの筈なのに、なぜだか少しだけ温かく感じました。
焦げたパン色のキミが一緒に寝ていたからです。
次の日も、なぜか焦げパン色のキミが待っていました。彼女が言います。
あなたって本当にあたしがいないとダメなのね。また今日も狩りに失敗したんでしょう?
図星でした。魔猫は少し恥ずかしくなりました。けれど焦げパン色のキミが言います。
誰だって最初はそうよ。あなた、お母さんに狩りや人間から食料を盗む方法をちゃんと習わなかったの? え? そう……、あなた、ネコなのに変わっているからちゃんと育ててもらえなかったの。仕方ないわ、野良猫社会は弱肉強食。お母さんも育ちそうもない子は切り捨てるのよ。だって、仕方ないでしょう、そうしないと生存確率が下がっちゃうんですもの。でも、そうして死んだ子供が鳥の餌になって、その鳥が地面についた植物の種を拾って、どこか遠くで種を落として――その種から植物が生まれるの。その植物が今度は果実を実らせて、小動物を育むわ。その小動物を、あたしたちは美味しく食べるの。だから、あなたのお母さんは間違ったことはしていないのよ。可哀そうだけれどね。
どう、あたしって賢いでしょう? どうせこんな難しい話、誰も分からないでしょうけど。と、焦げたパン色のキミがいいます。
魔猫は元人間でした。
だから焦げたパン色のキミがいった言葉も理解できます。
魔猫は理解した上で、彼女の言葉を肯定しました。それが食物連鎖と呼ばれるものだと説明します。
けれど、魔猫はしゃべりすぎました。ネコなのに、ネコじゃないような難しい話をします。
魔猫はハッとしました。
やってしまったと思いました。
いまのような賢さが、魔猫のお母さんにはまるで不気味な存在に思えたのでしょう。だからお母さんは魔猫を捨てました。じゃあ目の前のこの子も?
魔猫は思いました。ああ、この子にも見捨てられてしまうのか、と。けれど、焦げパン色のキミはくすりと笑っていました。
へえ、あなたって元人間なんだ。転生っていうのね。信じるのかですって? だって、信じるしかないわ――あなたみたいなノロマなネコ、みたことないもの。それにあたしのうまく説明できない言葉も理解して、説明までしてくれたじゃない。でも、それなら人間の習性にも詳しいのよね? だったら、あたしと手を組みましょうよ。あなたがうまくあたしに指示を出しなさいな。あなた、頭だけは悪くなさそうだし、あたしが代わりに人間の棲家から持ってきてあげるわ。でも、取り分はあたしが七であなたが三。どうかしら?
魔猫は頷きました。
初めて仲間ができました。
恋も知りました。
けれど、愛だけはうまく理解できません。魔猫がネコだからでしょうか。
魔猫と焦げたパン色のキミはこの後、野良猫の間で有名になります。
元人間という言葉に嘘がなかったからです。
魔猫は知恵を駆使しました。焦げたパン色のキミも指示通りに動きます。するとどうしたことでしょうか。今日も美味しいご飯がたくさん食べられました。
魔猫はチーズが大好物になりました。
それを見ていた野良猫達が集まってきます。
二匹はたちまち、町のリーダーネコになりました。魔猫が頭脳担当で、焦げパン色のキミ達が実行します。話を聞いて、野良猫仲間が次々と増えていきます。それはまるでネコの大盗賊団。全てがうまくいくのです。今日はお肉を取ってきました。夜はハンバーグを確保できました。次の日には美味しい魚を丸ごと持ってくることができました。次の日も、その次の日も――。
けれど、うまくいきすぎていました。
ある日魔猫は言いました。
そろそろ場所を変える必要がある。しばらく、蓄えた食糧で賄って別の街に行こうと言い出したのです。
ネコ達は訝しみます。
賢い魔猫は言いました。
あまりにもうまくいきすぎて、人間たちに警戒されている。自分たちはネコ魔獣。人間にとっては魔物の一種、これ以上暴れると討伐隊を出されてしまうだろうと。
既にリーダーだった賢い魔猫に、みんな頷きます。
けれど、焦げパン色のキミだけは頷きません。早起きだった彼女は、もう狩りにでかけていたのです。
今日は出会ってちょうど一年。焦げたパン色のキミは、魔猫を喜ばせようと大好物のチーズを取りに行っていたのです。
魔猫は慌てました。
とても嫌な予感がしたからです。
路地裏を駆けました。レンガの道を駆けました。人間たちの市場を駆けました。
ネコの心臓が痛みます。肉球の裏が、とても痛くなります。それほどに早く駆けました。
けれど。
間に合いませんでした。
焦げたパン色のキミは魔獣討伐の冒険者の足元で、動かなくなっていました。
銜えていたチーズが、踏みつぶされています。
焦げパン色のキミが言います、逃げて……と。
魔猫の心は揺れました。毛も揺れました。
魔猫は憎悪に駆られました。
瞳が真っ赤に染まっていきます。
憎悪が魔猫に魔力を与えたのです。
あの子を助けようと奮起し、必死に冒険者たちに挑みました。けれど魔猫はあっさり殺されます。レベル差のせいです。けれど不思議なことに、魔猫は何度でも立ち上がります。
それは転生特典と呼ばれる現象のせいでした。魔猫は人間から転生した際に、不老不死と呼ばれるアビリティを修得していたのです。
冒険者たちは死なぬ魔猫にだんだんと怯えてきます。隙をつき、やっと焦げパン色のキミを連れ帰り――魔猫は安堵します。
そこは最初に出会った路地裏。
魔猫は焦げパン色のキミの手を舐めます。
さあ、もう大丈夫だよ。怖い人間はいなくなった。追い払ってやったんだ。だから、もう大丈夫だよ。
魔猫は焦げたパン色のキミの手を舐めます。
冷たく硬くなったその頬を舐めます。動かなくなった額を舐めます。
初めての勝利を、彼女に褒めて欲しかったのでしょう。
けれど。
焦げたパン色のキミは動きません。
すごいわ、と褒めてくれません。
元人間の魔猫には分かっていたはずでした。それが死だと。
けれど、魔猫は魔猫でした。もう人間ではないのです。死など分かりません。いえ、分かりたくありませんでした。
だから魔猫はずっと、動かなくなった焦げパン色のキミに寄り添います。
温めていれば、また動いてくれる。キミが笑ってくれる。魔猫はいつまでも焦げパン色のキミの手を舐めます。冷たく硬くなった体を温めます。
けれど、焦げパン色のキミが動くことはありませんでした。
もう二度と、ありませんでした。
元人間だったころの知恵が、魔猫に言います。
彼女は、死んだのだ――と。
魔猫は信じませんでした。
けれど、どうしても涙が零れます。思い出が次々と襲ってきます。動かないキミを抱いて、肉球で抱き寄せ、大声を出していました。
人間だった時も、こんなに泣いたことがありません。
きっと、愛を知らない人間だったのでしょう。
だから魔猫はそのとき初めて知りました。焦げパン色のキミへの想い、それこそが愛だったのだと。
だから。
魔猫はわんわん泣きました。
生まれて初めて泣きました。
けれど、その鳴き声のせいでしょう。猫魔獣のリーダーを追っていた冒険者に見つかってしまいます。
魔猫は必死に戦います。焦げパン色のキミを守るため。冒険者は討伐した証を欲します、それはきっと、あの子の手。焦げたパン色の、優しいキミの手。
だから魔猫は戦います。
それでも魔猫はとても弱かったのです。
ただ不老不死なだけで、どの猫よりも弱かったのです。
だからあの子の遺骸を守れませんでした。魔猫自身も不老不死の魔獣という事もあり、人間たちに捕まります。魔導実験なのでしょう、色々な酷いことをされました。不老不死を欲する魔術師が多くいたのでしょう。
何度も魔猫は死にました。けれど、魔猫は死にません。不老不死なので、死ねません。
檻の中。
魔猫は人間が嫌いになりました。大嫌いになりました。
魔猫は人間を呪いました。憎悪しました。
そんなある日、いつものように魔猫が魔導実験を受けていると、人間たちの悲鳴が聞こえてきます。誰かに生きたまま燃やされたようです。それは魔猫がいつも受けている仕打ちでした。
魔猫の檻に、光が射します。
そこに、人間の姿をした――魔族がいたのです。
魔族は魔王を名乗っていました。並々ならぬ憎悪を察知し、助けに来たのだと言いました。
魔王が言います。
可哀そうに、もう大丈夫だよ。ワタシもね、不老不死なんだ。君さえよければ、一緒にくるかい?
魔猫は頷きました。
なぜなら魔王を名乗った男が、とても寂しそうな顔をしていたからです。
そうして魔猫は魔王に拾われ、魔族となりました。
巨鯨のように大きな存在になることを願われ、ケトスと名付けられ、魔王の下で成長していきます。
魔猫はとても強くなりました。
愛されて育ちました。
溺愛されて育ちました。
大好きな主を得て幸せになりました。
主の魔王は万能な存在でした。まるで楽園に住まう神々のように、なんでもできる存在でした。
だからある日、魔猫はお願いします。
あの焦げたパン色のキミを蘇生させてほしい、と。
けれど、主の魔王でもそれだけはできませんでした。
外の世界と、この盤上世界とは法則が異なります。
蘇生のルールも違います。
強ければ強いものほど蘇生は容易く、弱ければ弱いほど蘇生はしにくい――魔力も持たないただの野良猫はもちろん蘇生の対象にはなりません。
それでも魔王は言いました。
もし君が、もっと強くなってワタシよりも強い魔族……大魔王といえるほどに強くなれば、あるいは可能性も見つかるかもしれないね、と。
魔猫は大好きな主の言葉を聞き、もっともっと強くなることを決めました。
厳しい修行も受けました。
魔王軍の幹部とさえ、対等に戦えるようになりました。
魔王軍幹部となりました。
いつのまにか、魔王軍幹部の中で誰よりも強くなりました。
それでも、あの子を蘇らせることはできませんでした。
人間の蘇生も、魔族の蘇生も、時には神と呼ばれる存在の蘇生さえも、できるようになったのに――。
大好きなあの子の蘇生だけはどうしてもできませんでした。
ふわふわで気丈なあの子。
路地裏の冷たい世界で共に身を寄せ合ったあの子だけは、どうしても取り戻せません。
なぜなら焦げパン色の足袋を履いたあの子はただのネコ。やはり、どうあがこうとも蘇生ができる存在ではなかったのでしょう。
魔猫はとても寂しくなりました。
けれど、魔猫はもう昔の魔猫ではありません。
独りぼっちじゃないからです。
魔王様がいるのだから寂しくても平気です。
とても寂しいけれど、大丈夫です。
何年も経ちました。百年が過ぎ、二百年が過ぎ――そして魔猫は主人を守る軍団、魔王軍の中でも最高幹部と呼ばれるほどに成長していました。
魔猫はとても強くなりました。
魔術もたくさん覚えました。誰と戦っても負けなくなりました。大事なモノを守るため、今度は絶対に死なせないのだと、魔猫は本当に強くなったのです。
けれど、魔猫が四百歳ぐらいになったころ。
人間と魔族との大きな戦争が起こってしまいました。人間の中に、勇者と呼ばれる特殊個体が発生していたのです。魔猫は戦いました。力いっぱい戦いました。
けれど、魔王を倒すことが勇者の運命。
魔猫が大好きだった魔王は滅ぼされました。
勇者によって滅ぼされた魔王の蘇生はできません。不老不死を破壊する勇者に殺された魔王様も、もう二度と蘇りません。
大事なモノを二度も奪われてしまいました。守れませんでした。大事なモノはみな……肉球の隙間から、ポロポロポロと零れていくのです。
耳を下げ、尾を下げ、髯を下げ――魔猫はこの世界を睨みます。
赤い瞳で睨みます。
魔猫は世界を呪いました。
大事なモノを奪い続ける世界を恨みました。憎みました。憎悪しました。
けれど、それ以上に悲しくなりました。
大好きなあの子も、大好きなご主人様ももういないからです。もう二度と、取り戻せないからです。
魔猫はわんわん泣きました。
涙は世界を覆いつくし、全てを破壊してしまいました。
全てを飲み込み、憎悪で洗い流しました。
誰も魔猫を止められません。
憎悪が力となって、誰よりもなによりも強い魔族となっていたからです。
もはや勇者も相手ではありません。
それでも、魔王様は蘇りません。
焦げパン色のキミも戻りません。
だから魔猫はいつまでも泣き続けました。
世界を破壊するほどの涙を瞳から零し続けて、全てを破壊しました。
既に魔猫はこう呼ばれるようになっていました、魔王が滅び去った後に現れた魔王よりも強い魔族。
すなわち。
大魔王ケトス――と。
大魔王ケトスの物語は続きます。
大事なモノを奪い続けた世界を憎悪する魔猫の物語は続きます。
けれどそれは、この書物とはまた別のお話です――。




