別れかけ
お日様が砕けた鏡のように、木々の隙間から振りおろしてくる。足の先で影と日のふちをなぞりながら、息を吐き、ベンチの背もたれに体重を乗せかけた。
昼下がりの公園は、子どもたちの遊ぶ声であふれていた。雲一つない空の中で、曇りのない笑いを浮かべている姿は何よりも幸せそうだ。
「はあ~……」
そんな子どもたちとは対照的に、眉間に軽くしわを刻み、汗を垂らしながらため息を吐く。何も入っていない腹からぐるるっと虫が鳴く。
昨日、クロモと買い物に行ったのはいい。楽しかった。ただ、俺、結局何もやってなくね? 何しに行ったのかすっかり忘れてたよな?
自分を責める言葉がリピートする。
「……飯食うか」
足に力をこめ、一気に立ち上がる。久しぶりに動かした足に血液がともる感覚に、ずっしりとした重さを感じた。脳をやけこがすような日に目を細めながら、公園の外に出た。
空とアスファルトの両側から照らされ、頬に汗が伝う。家に帰って食べようと思っていたが、この調子では途中でぶっ倒れそうだ。
仕方なく近くの商店街に逃げ込み、屋根の日陰の下で一息をつく。初めて入る商店街だが、どこかから肉を焼いたようなにおいが漂ってくる。
「……こっちか?」
商店街の入り口から一つ目の角を曲がったところに、ふんだんに黒コショウをまぶした焼き鳥を売っている屋台が目に入った。砂糖にたかるアリのように一目散にかけよろうとした瞬間、ビタッと足が止まった。
「えっ」
「ん? ……なんでここに」
俺より頭ふたつは小さな身長に、キューティクルのかかった長い黒の髪。おしろいを塗りたくったような白い肌が、黒い髪の色をさらに際立てている。
右手に持った焼き鳥をほおばった、クロモのお母さんがそこに立っていた。
「……とりあえず、どっか入る? ここは邪魔だし」
「あっ、はい」
焼き鳥を一気にほおばり、くしをゴミ箱に捨てる。それから体躯に合わない大きな歩幅で歩き、俺の前をすたすたと歩いていった。
思考をぐるぐると回しながら後をついていくと、商店街の奥のほうにある、木製の馬がチャームな落ち着いた雰囲気の喫茶店についた。彼女は店頭に置かれたメニューに目もくれず、すっと中に入っていく。
「行きつけなんですか?」
「初めてだけど」
なら値段ぐらい確認してもいいんじゃ。なんてことは口が裂けても言えるはずなく、店員に案内されるままに窓の近くの席に座る。
「そういえば……なんで入ってきたんだっけ?」
「えぇ?!」
「冗談冗談、なんでも頼んでいいよ。適当におごるから」
「……はい」
三つ折りのメニューを開き、軽食とコーヒーを二つ頼む。運ばれてきたコーヒーはかなり苦く、シュガーの袋を一本溶かして飲んだ。彼女はシロップも砂糖も使わず、余裕な表情で飲んでいる。さすが大人だ。
コーヒーを飲み終え、窓の外を眺める彼女。軽く頭を下げながら、おごってもらったご飯に手を出した。
「どこか行ってたんですか?」
俺が軽食を食べている間、窓の外をずっと眺めている彼女に問いかけた。すると、視線をこっちに向けることなく、淡々とした声で答えた。
「病院。」
「えっ? あぁ、すみません。お仕事帰りなんですか」
「いや違うよ。私が受診してきたの。精神病院ね」
精神病院?
その単語に反応して手の動きを止めると、彼女がおかしそうに口の端を上げる。それからこっちに向き直していった。
「精神が剥離しかけてんのよ。二重人格みたいな感じ」
「は、はぁ……」
「わかってないというか、信じてなさそうね。薬見る? マーブルチョコみたいよ」
断るすきもなく、クロモのお母さんがカバンの中から薬を取り出す。ジップロックにまとめられた薬は、確かに色とりどりで、明らかにやばそうな雰囲気をかもし出していた。
声を潜め、問いかける。
「その、剥離しかけてるってどういうことですか……?」
「声を潜めるなんて優しいね。別に気にしなくていいけど。
私、名前変えたって言ってたでしょ。けど、名前変えただけじゃダメでしょ? 話し方とか、目つきとかも元の自分から変えていくうちに、精神が二つに別れちゃったのよ。笑える」
まったくもって笑えません。
急すぎる事実に頭があまり追いつかないが、俺がどうこうと口を出していいほど簡単な問題じゃなさそうだ。
机上の上に無造作に置かれた薬を手で隠し、すーっと滑らせて彼女のカバンの中へ押し戻す。瞬間、パチっと小さな手のひらで薬を押す手を叩かれた。
「逃げようとすんじゃない。別に、あんたに全く無関係な話ってわけでもないのよ」
「……え?」
「クロモ。あの子も放っておくと、私と同じようになるわよ」
彼女が、右腕の服の裾を軽く上げる。
そこには痛々しいほど深く刻まれた、白い肌に似つかわしくないピンク色の古い切り傷が何本もあった。
喉がぎゅっと締まり、言葉が出なくなる。彼女はすぐに裾を戻し、軽く謝った。
「食事中に悪かったわね。でも、一応言っておきたくて」
「クロモもこうなるってどういうことですか?」
すぐに問い詰める。彼女は数秒目を閉じ、ぽつぽつと小雨のような音量で話した。
「完全に剥離すればまだマシなのよ。私みたいにどっちつかずになると、人格がうまく入れ替わらなくて、突然気分がハイになって笑いだしたり、こんな風に自傷行為をするようになるの。記憶の混濁もかしら。
クロモの過去は知ってる?」
「はい。」
「……あの子、昔はよく笑う無邪気な子だったのよ。
それが、今はずっと敬語口調で、ずーっと控えめな態度で……。多分、もう兆候が出てるんじゃないかしら? 妄想が激しくなって過剰な暴力行為に及んだりとか」
あった。というか、それで一度刺された。だが、別に言う必要のないことだろう。ぐっと唇を引き締めると、クロモの母親が察したように目を閉じた。
「あったみたいね。
わかるかしら? 昔の人格と今の人格、別れかけてるのよ。」
「ちょっと待ってください。人格が別れかけてるっていうのは分かったんですが」
「完全に別れさせたほうがマシだっていいたいの?
……最悪の事態がどっちつかずだってわけで、一つの人格が二つに別れることはいいことではないわ。脳みそを二つに割って、生きてるから大丈夫!とはならないでしょ?」
コーヒーから立っていた湯気はおさまり、すっかり冷えてしまっている。食べかけの軽食は色あせ、レンジで温めても再び食べられそうにはなくなっていた。
静かな空気を薙ぎ払うように、彼女が軽く頭を振った。それから頬杖をつき、話す。
「強制的にあんな風にならざるをえなかった環境に置いてったことは……悪かったと思ってるわ」
「……どうすればいいんですか?」
「は?」
「どうすればクロモの、その、人格の剥離っていうのを防げるんですか?」
そういうと、彼女は驚いたように目を見開いた。口の端を軽く上げ、にやけた顔でこっちの目を見る。
「意外ね。てっきり私はどうでもいいって流すか、どうしてそんなところに置いて行ったんだって怒るかと思ったけど」
「逃げるのは誰でもすることですよ。俺には責めれません」
「優しいわねえ。いや、甘ちゃんかしら?
……確実な対処法は元の、昔の人格を引き出して受け止めることかしらね。多分逃げたりするかもしれないから、疲れてて、なおかつ逃げられないところで」
疲れて、なおかつ、逃げられないようなところ……すぐには思い当たらない。顎に手を当てて、とにかく候補の場所を手当たり次第につぶしていく。
そんな思案を巡らせる姿に、彼女がフッと鼻を鳴らして笑った。カバンの中から一冊の絵本を取り出して机に置き、立ち上がる。
「何ですか、これ」
「絵本。私の好きな作者の奴。あげる」
それを手に取り、パラパラとめくる。いつか読んだ、クマが最後に殺されるあの絵本だ。少し顔をしかめると、彼女がおかしそうにクスクスと笑う。
「いい彼氏を持ったわねーあの子も。ま、頑張んなさいや」
「ちょ、この絵本……!」
「だいじょーぶ大丈夫、ただの願掛けみたいなもんよ」
この内容のどこが願掛けなんだろうか。どうみてもバットエンドしか待っていないような内容だが。すぐに返そうと立ち上がったが、彼女はお金だけ払って店の外へ出てしまっていた。
席に座り直し、冷え切ったコーヒーを口にする。シュガーを入れてもまだ少し苦いそれは、頭の中をちょっとだけスッキリさせた。
……頭が追い付かないが、なんとなく、これを乗り越えられるかがとても重要なことのような気がする。いや、きっとそうだ。コーヒーの苦みを舌で回し、頭の中のやる気を絞り出す。
腰ポケットの中に手を突っ込み、電話を取り出す。それから、電話をかけた。
「……もしもし」




