執念《拒絶を踏み砕く者》
世界は拒んでいた。
かつてアナンタシェータが鎮座していた中央の穴は、もはや裂け目と呼ぶには足りず、
現実と箱庭を無理やり縫い合わせようとした傷口のように脈打っていた。
向こう側に見えるのは、確かに現実世界の光。
魔力でも、神性でもない。
重力と粒子と因果だけで構成された、冷たい白。
──あと、半歩。
ルシフェルは理解していた。
計算は終わっている。
演算も、権限偽装も、世界改変も、すでに“成立条件”は満たしている。
それでも、通らない。
裂け目が、きしむ。
空間が、戻ろうとする。
まるで世界そのものが、扉を閉じる筋肉を持っているかのように。
「……拒絶」
低く呟く。
その声に、苛立ちはない。
あるのは、事実確認だけだった。
これは防壁ではない。
封印でもない。
裁定ですらない。
世界が「通さない」と判断している。
セーラの意思ではない。
だが、セーラの在り方が生んだ結果だ。
レイヤー14。
管理者不在によって脆くなったはずの境界は、
逆説的に、これまでよりも厳密に世界の条件を定義し始めていた。
「神が消えたのではないな」
ルシフェルは裂け目を見つめたまま、静かに言う。
「神が……世界そのものになった」
箱庭電子地図に、
これまで見たことのない警告が奔った。
──侵出率:臨界未達
──現実側反発:指数関数的上昇
──神性消耗:不可逆域突入
通常なら、ここで引く。
撤退が最適解だ。
だが、
ルシフェルは、一歩、前へ出た。
「……ならば」
裂け目に、手を突っ込む。
瞬間、皮膚が裂けた。
音もなく、だ。
現実側の因果が、彼の存在を異物として削り取る。
血が噴き出す。
床に落ちる前に、因果に焼かれて蒸発する。
翼が、悲鳴を上げた。
黄金の羽根が、一本、また一本と、
根元から、もぎ取られる。
引き裂かれるのではない。
不要として、世界に剥がされていく。
「……くっく」
ルシフェルは、笑った。
肩から血を流しながら。
背中はすでに、翼の半分を失っている。
「拒むだけで、殺しには来ないか」
さらに一歩。
今度は、顔だった。
現実側の位相が、彼の顔面をなぞる。
次の瞬間──
皮膚が、剥がれた。
ベリ、と嫌な音がした。
頬から顎にかけて、皮膚がめくれ、
白い骨と、赤い筋肉が露出する。
それでも、ルシフェルは目を逸らさない。
剥き出しの口元で、確かに笑っていた。
「なるほどな……」
声は歪まない。
痛覚は、とっくに演算の外だ。
「通す気はないが、消す気もない」
世界は、彼を殺せない。
なぜなら彼は、まだ箱庭の管理体系に属する存在だからだ。
完全侵出前の彼は、
世界にとって「削れるが、排除できない異物」であった。
だから──
削る。
翼を。
皮膚を。
神性を。
それでも、ルシフェルは進む。
三歩目。
今度は、胸だった。
肋骨が砕け、心臓が一瞬、露出する。
鼓動が、見えた。
現実の因果が、神の心臓を物理現象として認識しようとする。
それは、失敗した。
理解不能。
分類不能。
だが、拒絶は続く。
「……ここまで、か」
ルシフェルは、ようやく足を止めた。
裂け目は、これ以上広がらない。
むしろ、ゆっくりと閉じ始めている。
これ以上進めば、侵出ではない。
自壊だ。
彼は、静かに手を引いた。
皮膚のない顔で、
翼のない背で、
血まみれのまま。
術式解除。
因果回路の畳み込み。
箱庭電子地図が、悲鳴のようなノイズを吐きながら収束する。
裂け目は、閉じた。
完全な失敗ではない。
だが、成功でもない。
世界が示したのは──
明確な「猶予」だった。
「……時期ではないか」
ルシフェルは、崩れ落ちることなく立っていた。
皮膚が、ゆっくりと再生を始める。
翼の断面から、淡い光が滲む。
だが、完全には戻らない。
神性は、確実に削られた。
それでも。
彼の笑みは消えない。
「良い」
低く、満足そうに。
「拒絶されたということは、
触れたということだ」
セーラは、止めていない。
裁いていない。
命じてもいない。
ただ、在る。
それだけで、
神と世界と現実の関係が、書き換わり始めている。
ルシフェルは、万魔殿の奥へと戻る。
血を引きずりながら。
それでも、歩調は崩さない。
「次は……条件を揃える」
現実世界侵出は、終わっていない。
拒絶されたのは、今この瞬間だけだ。
世界が“許す条件”は、確実に存在する。
そしてそれは、
神が動かない世界が完成した、その先にある。
レイヤー14。
観測不能域。
そこで在り続ける存在を前提に、
世界は、静かに狂い始めていた。
お読みいただきありがとうございました。
↓↓ブクマ、星評価ぜひお願いします。励みになります




