神の降りた盤面
万魔殿。
ルシフェルは、珍しく指を止めていた。
箱庭電子地図に流れるログは正常。
レイヤー構造も、数値上は破綻していない。
それでも、世界の重さが、どこか変わっていた。
「……なるほど」
小さく、息を吐く。
セーラが選ぶ最終解は、想定していた。
人格を統合し、Layer13へ再接続する。
そのうえで世界を書き換え、存続させる。
それが、この壊れた箱庭に残された唯一の現実的解には違いない。
視線が、深度表示に留まる。
14。
正確には、13.999…。
整数化を拒む数値。
「Layer14への同化、か」
ほんの一瞬だけ、思考が止まる。
「だが、それだけだ」
声は静かであった。
致命的な誤差ではない。
計算式の中に存在しない空白がある。
そこにセーラが落ち、そして、消えた。
神となった存在は、往々にして動かない。
管理者は盤面を眺める側に回る。
それは、これまで幾度となく見てきた神々の末路であった。
「動くのは、我々だ」
ルシフェルは歩きながら、理解していた。
レイヤー14が開かれた今、
世界の最深部に存在していた“圧”が消えている。
神が落ちたのではない。
神が、盤面から降りたのだ。
現実世界への扉を開くには、これ以上ない好機。
境界は脆く、薄く、世界そのものが次の段階を拒めずにいる。
──数刻後。
ノースヘヴン西区に火の手が上がった。
革命軍の拠点が、静かに崩壊を始めた。
スルトが暴れ、マグナが弩雷を落とし、
魔導回路が焼き切れ、
結界が意味を失い、
抵抗は、ほとんどなかった。
瓦礫の奥。
燃え落ちる旗の下で、革命軍の指導者格の男が、
膝をつき笑った。
「セーラ様……結局……神がいなきゃ、革命もただの夢だった……な…」
血を吐き、言葉の途中で、喉が裂ける。
視線だけは天を睨んでいた。
そして炎が全てを呑み込んだ。
兵士の男は叫ぼうとした。
だが声になる前に、喉が死を理解した。
彼の存在は地面に影すら残さず消えた。
タナトスは、鎌を振るわなかった。
ただ通過した。
その瞬間、半径三百メートルの生命活動が停止した。
血は流れない。悲鳴もない。
人間の心臓が、理由もなく止まった。
“死ぬ”という判断すら、許されない。
生と死の境界が、彼の足元で再定義されていた。
人間だけでなく、炎も、魔力も、思考も死んだ。戦意も湧かない。
革命軍の兵士は、自分が倒れた理由を、
最後まで理解できなかった。
「……ルーテの反応はない」
ハデスは、空からそれを見下ろしていた。
「もう、あの、位置には、おらぬ」
そう冷たくハデスは言い捨てた。
瓦礫の向こうで、スルトは人馬一体の黒騎士となり輝剣を携え立っていた。
「……逃がすな」
中級悪魔どもに低く、命令する。
「お兄ちゃん!」
パトラが叫ぶ。
スルトは振り返らない。
一瞬。
黒い影が揺らいだ。
「神は去った。もうここに価値はない」
そのスルトの言葉が、パトラの胸を深く抉った。
人類最期の希望であった革命軍は、
為す術もなく悪魔の軍勢に殲滅された。
それは戦争ですらなかった。
ただの整理だ。
パトラは暴れる兄スルトを尻目に
マリアを守ることに徹し、
勝ち目のない戦いから逃げた。
マリアの祈りは届かず、声も返らない。
「……セーラ……」
背後で、パトラは唇を噛みしめていた。
その視線は、自然と天を仰ぐ。
───世界の中心。
かつてアナンタが鎮座していた穴。
レイヤーとレイヤーを貫き、
現実世界へと最も近い、致命的な歪点。
床一面に、淡く光る魔法陣が浮かび上がる。
それは単なる魔術式ではない。
数式でも、祈りでもない。
箱庭電子地図そのものを、三次元的に展開した立体回路だった。
ルシフェルはその中心に立つ。
「……さて」
ルシフェルは、床に刻まれた古い陣へと歩み出た。
箱庭電子地図が、
彼の足元で静かに展開する。
地図は地形ではなく、因果を示していた。
都市、血脈、レイヤー、観測点、失敗ログ……
それらが一斉に重なり、回路を形成する。
──干渉キー、強制展開。
──観測制限、上書き。
──神性バッファ、臨界接続。
箱庭全域が、低く唸る。
まるで巨大な機械が、軋みながら回転を再開するように。
一瞬、視界が歪んだ。
ルシフェルは、わずかに眉をひそめる。
(……反発、か)
現実は、簡単には扉を開かない。
神性が削られ、演算が遅延し、
柱に細かな亀裂が走る。
だが、止まらない。
指先をかざす。
同時に、箱庭電子地図が応答する。
──ログ同期開始
──権限:不正
──警告:世界負荷上昇
──警告:神性侵蝕率、許容値超過
「構わぬ」
低く、短い詠唱。
「我が名において命じる。
世界を閉じる理を解け。
観測と管理を切り離し、
箱を、ただの通路に落とせ」
魔法、
科学、
AI、
神性。
あらゆる体系が同時に起動する。
血が流れた。
ルシフェル自身のものだ。
神性が摩耗し、
黄金の翼の根元に、見えない亀裂が走る。
世界が、軋む。
空間が裂ける。
向こう側に、確かに現実が見えた。
何物かに押し返される。
「……まだだ」
足元の魔法陣がひび割れ、
箱庭電子地図の一部がノイズに沈む。
完全侵出には至らない。
だが、
確実に、境界は薄くなっている。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
視線を感じた。
──在る。
それだけで、世界を成立させている何か。
観測ではない。
敵意でもない。
祝福ですらない。
ただ、そこに在るという事実。
それだけで、
世界を成立させている何か。
「……」
ルシフェルは、喉の奥で
ほんの僅かに息を整えた。
それでも、笑みは崩さない。
「動かぬか、セーラ」
その声には、苛立ちも恐怖もない。
あるのは、
想定を超えた相手と向き合う者だけが抱く、
静かな高揚だった。
「ならば、こちらも進めよう」
世界の中心の穴が、ゆっくりと拡張する。
現実世界侵出は、失敗していない。
まだ途中なだけだ。
神が盤面に手を出さぬのなら。
王は、好きに動かせてもらう。
中央で、
ルシフェルは箱庭電子地図と完全同期し、
それが示すがままに、
その回路の内側へと、意識を沈め始めた。
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