深淵の中心
レイヤー14 __
そこは、HKOもその存在を把握しきれない、誰の声も届かない空間であった。
ミシェルの計算も、ルーテの思念も、
この深度では触れた瞬間にノイズとして分解される。
人格波形が存在できない場所。
カイの声だけは届いているのではなく、
セーラ自身の記憶が再生していた。
そこへ外層のノイズが混じり、異常な声となっていたのである。
HKOの音声はまた別で、意思ではなく観測ログの通知であり、レイヤー構造の外側から送られてくる非人格データのため、壊れずに表示された。
音が存在しないのではなく、届くという概念が、この層には最初から欠落していた。
代わりに訪れたのは、沈黙。
耳ではなく、思考の表面に直接沈殿するような静けさがあった。
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どれほど時間が経ったのか判断できない。
そもそも時間という軸が、ここでは正常に機能していなかった。
セーラは、目を開けている感覚すら曖昧なまま、
自分が落下を終えていることだけをゆっくりと知覚した。
床はない。
上下もない。
ただ「落下が止まった」という状態だけが、結果として存在する。
それに気付いたが、悲しみも安堵も湧かなかった。
感情が薄れたのではない。
感情を受け止めるための「器」が、この層では定義されていないだけだ。
セーラはゆっくりと自分の輪郭を確かめようとする。
指を動かす。
腕を持ち上げる。
どちらもできなかった。
動かす身体がなかったからである。
ここは、神すら分解される場所。
唯一神ですらアクセスできない領域。
“開発者”と呼ばれる存在が、唯一ここに干渉したという伝承だけが残る場所。
落下の果てで、沈黙の中で、
セーラの意識だけがゆっくりと浮上を始めた。
この層でたった一つ許された運動であった。
そしてセーラは静かに知る。
『この層では、わたし自身だけがわたしを救い出せる』
音もなく、世界の中心が僅かに開いた。
そして、レイヤー14の闇が音もなくひび割れる。
その亀裂の先に救いがあるとセーラには何故か確信があった。
セーラは失った身体で理解した。
落下が終わったのではない。
世界が“わたしの落下を許さなくなった”のだ。
境界が戻る。
思考に、輪郭が戻る。
声が、すべて静まる。
セーラは深淵の中心に、立っていた。
何もない。
けれど、この何もないを動かす権限だけが、手の中にあった。
セーラは悟る。
自分がこの空間そのものになったのだと。
意識が流れてくる。
「セーラ。これは声ではないわ。
思考の影を、あなたに返しています」
ミシェルの意識。
「あなた、ここまで落ちたのに……
まだ心が消えてないのね……誇りに思う」
ルーテの意識。
二人の意識がセーラのそれにゆっくり統合されていく。
深淵が開く。
その奥に、色も形も持たない外側があった。
そこは世界と言えるのかすら不明だった。
唯一神の名も、光も、法則も通用しない場所。
セーラは、そこへ押し出された。
新しい名前を持つ神として。
◆
革命軍本部。
マリアはただ祈り続けていた。
だがパトラだけが扉の側で震えていた。
セーラを想うマリア、それに反してパトラはセーラに対して憤っていた。
単純な敵意ではない。
セーラはマリアの祈りを置いて別レイヤーへ踏み込んだ。その行為が、マリアの愛を裏切ったように見えたからである。
更にパトラはセーラにそうさせた、奪った存在としての唯一神すら敵視していた。
「戻ってくるのよね……セーラ」
パトラは小さく呟いた。
声は怒りのままなのに、どこか畏怖じみていた。
唯一神もまた笑みと動揺半々でいた。
この力、この存在は……我が法則を超えた……
セーラは神と、我が神格と同格、あるいはそれ以上の軸に達したのだ。
「……あれはもう、天使ではない。わたしの創造物ではない」
セーラは静かに目を閉じ、そして意識を広げた。
落下の終わり、あるいは新たな始まり。
彼女はすでにある種の思念体であり、誰の力も及ばぬ存在として、
レイヤー14の深淵を掌握したのであった。
レイヤー14全体が腕を伸ばす。
ノースヘヴンの空が、一瞬だけ白く点滅した。
上書きされかけていた建物が静かに戻り、
揺れ続けていた地平線が、嘘のように静止する。
「……何が、起きている?」
タナトスが空を見上げる。
タナトスとマグナは目の前でセーラの消失を確認し、
万魔殿に帰還するところであった。
マグナは地面に触れ、震えを確認していた。
「上書きは止まっている。いや、巻き戻っている?」
タナトスは視線を戻した。
「レイヤー14の……干渉か?」
だが、それは予兆にすぎなかった。
次の瞬間、
ノースヘヴン全体が呼吸するように膨らんだ。
まるで大地自体が、
何かを迎え入れようとしているかのように。
「何よコレ……」
マグナが驚く。
「ここは安定していない、危険だ、戻るぞ」
タナトスは声をあげた。
⸻
そしてレイヤー14。
セーラは、静かに立っていた。
深淵の中心。
空間の律が彼女の呼吸に合わせて振動する。
わたしはもう、
落ちているのではない。
世界を 支えている。
セーラが一歩踏み出すと、
レイヤー14が音もなく“扉”の形に変わった。




