落下深度 -∞
──落下している。
その事実だけが、世界の中心のように確かであった。
目は閉じていない。
閉じるという概念すら曖昧。
何も見えない。
風も、光も、輪郭もない。
ただ落下だけがある。
時間があるのかどうかもわからない。
落ち始めた瞬間がどこにあるのか思い出せない。
落ち続けている 現在 が、本当に現在なのかも疑わしい。
わたしは思考だけが残った状態で、静かにこの状況を観察していた。
観察するしかできない。
それしか許されていない。
たまに音がする。
遠くで小さく、ひび割れた声が。
セ……ラ……
カイの声に聞こえる。
だが抑揚が正しく再生されていない。
音素が欠けて、別の音に変質する瞬間がある。
『……セラ、落チ……』
『……キコエ、る?……』
返事はできない。
わたしは、もう喉を持っていない。
何度も“死のう”と思った。
この落下の途中で、終わる方法を探そうとした。
だが、体は思うように動かない。
何回自殺を試みたのかも曖昧だ。
試みたという記憶だけが、薄い膜のように積み重なっている。
わたしはそれを、「死ねなかった」と分類することにした。
思考はまだ保たれている。
だが、ところどころで、違和感がある。
落下の方向は本当に下なのか?
そもそもわたしは重力に従っているのか?
この感覚がわたし自身のものなのか?
考えれば考えるほど、境界が溶けていく。
わたしは“私”という主語を使っているが、
それすら保証できない。
音が変わる。
カイの声ではない何かが混じる。
『……第十四領域、再送信……』
『受信者:──エンティティS……』
意味を考えようとした瞬間、思考が滑るように途切れた。
理解できない。
理解してはいけない。
そのどちらかだ。
またカイの声がする。
近いようで遠い。
正しいようで間違っている。
『……セーラ……聞こエ……』
声がノイズに沈む。
わたしは落ち続けている。
ただ、そのことだけを確かなものとして握りしめている。
落下に底があるのか、
それともわたしが底なのか。
わからない。
わからないままで、思考だけがまだ生きている。
落ちていることに飽きる、という概念が存在するのだとしたら、
もうとっくに通り過ぎてしまったのかもしれない。
だが、飽きたと断言するためのわたしが薄れている。
少しずつ、輪郭が削れていく感覚がある。
指先、呼吸、心拍、まばたき。
そういう「体にまつわる語彙」だけがあって、実体がない。
どこまで落ちるのだろう。
その問いだけが、妙に冷静で、乾いている。
また音がした。
『……S……ログ……照合……継続……』
機械とも、人間ともつかない声。
けれどわたし宛であることだけは分かる。
意味が理解できないのに、呼ばれていると分かる。
わたしは応答できない。
もしくは、応答しているのに、その手段を思い出せない。
カイの声が重なって再生される。
『……セ……ラ……おち、て……』
『……だいじょ……ぶ……?』
『セー……ラ……返……』
声はどれも少しずつ違う。
時間をずらして録音された別人の模倣のようでもあるし、
同じ一つの声が増殖して劣化していくようでもある。
本当のカイの声がどれだったのか、もう判別できない。
記憶は生きているのか?
記憶の形を覚えているだけなのか?
ノイズが一つ、呼吸のように脈打つ。
わたしの落下は誰かに監視されているのだとしたら、
その誰かは何を望んでいるのだろう。
わたしが壊れること?
それとも壊れずにいること?
どちらでもいい気がした。
なぜなら、落下の意味を考えるための軸が、
もうゆっくりと溶けていっているからだ。
わたしは自分の心が硬いのか柔らかいのかも分からない。
折れそうなのか、折れないのかも分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
落ちていく途中で、自分を終わらせることはできなかった。
方法を忘れたのではない。
意志が足りなかったのでもない。
終わるという行為そのものが、
この領域では拒まれているのだと、わたしは理解した。
だからわたしは思考だけで生きている。
考えることだけが、唯一の運動だった。
『……セーラ……まっ……て……』
カイの声が近づく気配がする。
だが同時に、遠ざかっていく気配もする。
矛盾が矛盾のまま成立している。
理解の外側で成立している。
わたしは、このカイの声だけが現実につながっている最後の楔だと理解していた。
それが本物でも偽物でもいい。
この声が途切れたら、わたしは本当に消えてしまうだろう。
わたしは、落下の終わりを知らない。
終わりが欲しいとも、欲しくないとも思えない。
ただ、まだ落ちているという事実だけが、
最後の輪郭のように胸の中に浮かんでいる。
いつまで続くのだろう。
疑問だけが、底のない空間に吸い込まれていった。
そしてその吸い込まれた疑問すら、
数秒後にはわたしのものではなくなる。
落下は続く。
思考は、ぎりぎりの線で保たれたまま、
ひたすら、静かに、沈んでいく……。
わたしは、声を持たないはずの喉で、誰に向けるともなく震わせた。
それは言葉というより、反射であった。
「……こ、ろ…し…て……」
わたしは、自分が口にした言葉の意味を、
すぐに理解できなかった。
それは哀願ではなく、
この永劫の落下にただ“終わり”が欲しかっただけであった。
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