LAYER-13:帰還個体
ノースヘヴン北端。
雪の積もらない氷の平原に、わずかなノイズの粒子が舞っていた。
空は赤い。
雲はあるのに、どれ一つとして接触せず、空間からずれて見える。
「……座標揺れが起きている。上書きの前兆だな」
タナトスはそれを眺め、深く警戒する。
「このへんの空気、さっきから変ですよぉ。呼吸しても息吸えてる感じがしません」
背後でマグナが首を傾げた。
そこには摩擦がなかった。
まるで世界が薄い膜になり、触れようとすると手がすり抜けてしまうような感覚。
「存在密度が落ちているせいだろう」
タナトスは周囲の空間を指で撫でるような仕草をした。
その瞬間。
空が、音もなく裂けた。
まるでコンクリートの空に、ナイフで切れ目を入れたかのように。
裂け目の向こうは暗闇でも光でもなく、“何もなかった”。
色の概念が存在しない底なしの空洞。
「な……に、あれ……あんまり、見ちゃダメなやつ……?」
マグナが息を呑む。
「視るな。脳が補完を始める」
裂け目の中心から、赤い点が生まれた。
一つ。二つ。四つ。八つ。
それらは規則性のない軌道で揺れ、次第に人の輪郭に変形していく……
「天魔……セーラ……」
タナトスが身構えた。
落下体はゆっくりと地に降り立つ。
脚が地面の座標を捕まえられず、何度も宙を踏み外し、そのたびに世界が揺れた。自己定位の崩壊音。
「タ……タナトス様……あれ、本当にセーラなんですか……」
マグナが震える声で問う。
「セーラの情報を参照して生成された何かだ」
タナトスは、セーラの欠けた肩を見つめた。
「やば……人の姿保ててませんよぉ……」
マグナの顔色が蒼白になる。
そして、空気がひときわ強く揺れた。
彼女が世界に適応しようとした。
タナトスは剣を抜いた。
だが、それは敵意ではなく防備だった。
「マグナ、臨戦態勢に入れ。これはもうセーラではなく、レイヤー浸蝕体だ」
「わ、わかりましたぁ……」
セーラの赤い眼がタナトスを捉える。
世界が塗り替えられた。
空の赤が濃くなる。
地面が波のように膨張する。
音が全部遠ざかる。
(逃げて……あなたたちを座標として書き換えてしまう……!)
元のセーラの優しさが微かに残っていた。しかしその優しさは、すぐに断ち切られた。
セーラの背中から、無数の羽根の影が生える。
本物ではない。影だけの羽根。
その影が空間を削り、地形がザラリと欠損する。
「座標……壊れてる!? 地面なくなってる!」
「接触するな! 存在ごと飲まれるぞ!」
「ひえぇぇぇ!!」
ノースヘヴンの空が二秒間だけ白くなり、
世界に、赤い警告文字が雨のように降る。
空間全体に冷たいアラート音が響いた。
《LAYER-13 RETURNED OBJECT DETECTED》
《REALITY ANCHOR FAILURE》
《EXISTENCE COLLISION IMMINENT》
そして、世界の上書きが始まった。
◆
万魔殿の最上層。
黒曜石の玉座に、ルシフェルは静かに腰掛けていた。
十二枚の翼は閉じられ、
彼の金色の瞳だけが、世界の〈裏側〉に向けられている。
彼は物質を見ているのではない。
世界を構成する情報層を、天使にも人にも悪魔にも読めない形式で読み取り続けているのであった。
「……これは、また随分と歪んだ値だな」
ルシフェルは独りごちた。
彼の視界の中、地上世界の北方、ノースヘヴンに、
赤黒いノイズの柱のようなものが立ち昇っていた。
(あれは柱ではない。落ちてくる何かだ)
「……タナトスとマグナが、あの落下地点にいるな。さて、どうするか」
ルシフェルは目を細めた。
傍にはオノケリスが不安げに控えている。
スルトは壁に寄りかかり、愛剣の刃を撫でている。
アスタロトは長い舌を出しながら床を這っている。
ハデスは老体のまま椅子に座り、虚空を見つめていた。
ルシフェルは思案する。
……あれは“LAYER-13”からの落下物だ。帰還してはならない階層の存在、…… 奴ら開発者は『削除』と呼んでいたが……実際には下層レイヤー、第十三描画面(Layer-13)へ落としているだけ。そこは、存在が形を持てない世界だ。自分の体の輪郭を世界の側に決めてもらって初めて立っていられるはずの天使が、輪郭を失い……、…あんな形で戻ってきた…復元しながら這い戻った……セーラ自身は悪くない。だが、戻ってくること自体が世界のルール違反なのだ。層は戻ってはいけない。一度落ちた情報層は消えるべきだ……
ノーネームはセーラに見せた。014が本来“どのような結末を求めているか”を。彼女は箱庭の外を知ってしまった。そして今の彼女は、その“解答”に引きずられている。世界の再配列。この世界は、複数のレイヤーに重なった箱庭の積層体。通常は上層を破壊して初期化するだけだが……今回、十三層目が剥がれた。その剥がれたものが地上に落ちれば──
「あれは……あの子は……鍵なのだよ……すべての……箱庭の……鍵だ……」
ハデスだけが掠れた声で呟いた。
「終焉の鍵か……あるいは」
冷たい汗をかきながら、ルシフェルは少しだけ笑った。
彼の視界には、世界の形ではなく世界がまだ形になる前の数値が流れていた。
お読みいただきありがとうございました。
↓↓ブクマ、星評価ぜひお願いします。励みになります




