アビス・パルス
世界が静寂に沈んだのは一瞬であった。
次の瞬間、ルシフェルを取り囲んでいたノーネームの群れが黒い塊となり、菌糸めいて絡み合い、巨大な球殻を形づくった。
爆光。
爆風。
黄金の閃光。
ルシフェルは十二枚すべての黄金翼を展開し、羽ばたきではなく爆縮に近い衝撃で、敵を内側から破壊した。
黒い肉片は地に落ちても死なず、微かにぴくりと蠢き続ける。
破片は地面へ降り注ぎ、しかし死んではいない。
まるで観測される限り再生し続ける呪いのようであった。
「……厄介だな。あれは個体ではない」
ルシフェルの眼差しは迷いなく地上中央の穴を見据えていた。
「記録媒体……いや、食う者か」
穴の奥で、渦がじわりと脈打っている。
形はない。
輪郭もない。
ただ、見ているとしか言いようのない気配だけが、世界の奥底から滲み出している。
「干渉した瞬間、何かを上書きするように動いた……捕食行動に近い」
ルシフェルの独白は誰に向けられたものでもない。
「箱庭の最奥に……こんなものを置くなど。これも開発者の予定調和か?」
黄金の瞳が細められた。
その名はまだ誰の口からも語られないが、最奥の渦は確かに名前を持たない恐怖として存在していた。
◆
渦の少し上層、空気が歪み始めた領域では、タナトスとアスタロトが衝突していた。
アスタロトの動きはひどく不安定で、狂った視線がタナトスを捉えたり逸らしたりしながら、口元だけが意味の分からない笑みを形づくる。
ぶつぶつと何かを呪文のように繰り返しながら、彼はタナトスへ拳を振り下ろす。
いや拳ではない。腕全体を捻じ曲げ、関節を逆方向に折りながら振るう。
身体までもが完全に壊れていた。
タナトスはその狂撃を受け流しながら、彼に言葉をかける。
「哀れなり。アスタロト、お前ともあろうものが」
たったその言葉で、狂気の空間が裂けたように感じた。
アスタロトはひきつけを起こして後退し、意味の持たない絶叫を上げる。
タナトスの地を割るかのような怒気が、狂気を一瞬押し返す。
そして次の瞬間、最奥の渦が、脈動した。
渦は脈動するたび、地面は呼吸をするように波打った。
大地の表面が柔らかい肉のように動き、そこから微細な黒い線がにじみ出る。
その線は触れた物体の情報を奪う。
岩は硬さを失って砂のように崩れ、木は形状のデータが消されて、ただの黒い棒に変わる。
情報階層の断裂……存在値の削除。ルシフェルの目にわずかな警戒が混じる。
空間の重力がねじれ、光が黒へ、黒が白へ、世界の根本が反転する。
アスタロトとタナトスの二人はその圧だけで吹き飛ばされた。
空間が震えては歪み、戦いの決着はつかない。
この場では、戦闘そのものが成立しなかった。
周囲の悪魔たちも加勢すら叶わず、ただ渦の圧に耐えるだけで精一杯であった。
◆
その中で、最も繊細に壊れていったのが、眠りの神ヒュプノスである。
「……ヒュプノス様? ねぇ、ヒュプノス様……?」
マグナがヒュプノスの顔を覗き込む。
だがヒュプノスはマグナを見ない。
目は虚ろ、頬は濡れ、呼吸は浅い。
そして、ひどく幼い子供のように、ぐじゅぐじゅと鼻をすすって泣いていた。
彼の記憶が、削られていた。
最奥の渦は眠りの神の夢を真っ先に侵食する。
「ヒュプノス様! 落ち着いてください、マグナです!」
マグナがそう言った瞬間。
ヒュプノスは自分で口を押さえた。
恐怖で手が震えている。
消えてゆく記憶の不安感に耐えられない。
それでも……彼は神であり、尊厳は残った。
神としての矜持。
失われゆく記憶の恐怖に押し潰される前に。
彼は自らの頭部を、右の拳で思い切り殴った。
(ガッ)
拳は頭の飾りを破壊し、髪を分けて肉にめり込み、血飛沫が飛ぶ。
もう一度。
(ズゴッ!)
「やめてくださいッ! ヒュプノス様!」
見かねたマグナが叫びながら、止めに入ろうとする。
「おい……」
スルトの声が震える。
パトラの足が崩れ落ちる。
ハデスでさえ眉をひそめる。
だがヒュプノスは止めない。
(ゴスッ……!)
マグナの静止を振り切り、三度目の衝撃で、ヒュプノスの頭蓋骨は陥没した。
彼の身体はぐったりと倒れ、そのまま動きを止めた。
あまりにも突然の凶行による衝撃に、静寂が辺りを支配する。
誰も言葉を発することが出来なかった。
◆
その瞬間、セーラの胸の奥で光が弾けた。
封印されていたミシェルの眠りが、ヒュプノスの崩壊とともにほころび始める。
(……セーラ……ごめん……わた…し……)
ミシェルの囁きは優しく、しかし深い悲しみを含んでいた。
誰かの死を感じるように、深く、深く。
胸の奥に、深い悲しみが注がれるのをセーラは感じた。
「ミシェル……っ!」
セーラの叫びに同期するように、封印が揺らぐ。
光がセーラの胸元から溢れ、世界を薄く染めていく。
ミシェル解放の前兆。
周囲の風景がかすかに震え、やがて、再び最奥の渦が脈動する。
ルシフェルはその脈動を見て、静かに呟いた。
「封印が……解ける……」
ミシェルの発する光が天へ伸びる。
そして、世界が音もなく揺れた。
揺れの中心で、渦に目が生まれた。
開いた目は、瞬きをしない。
まばたきという概念を持たない、観測そのものであった。
その視線がヒュプノスの亡骸へ向いた瞬間、彼の存在が薄くなる。
肉体の輪郭が、黒いノイズの中に吸い込まれていく。
「……遺体すら、データに還すか」
ルシフェルの呟きは怒りよりも冷たかった。
それは世界そのものを識別するように、ただ静かに見ていた……。
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