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アビス・パルス

 世界が静寂に沈んだのは一瞬であった。


 次の瞬間、ルシフェルを取り囲んでいたノーネームの群れが黒い塊となり、菌糸めいて絡み合い、巨大な球殻を形づくった。


 爆光。

 爆風。

 黄金の閃光。


 ルシフェルは十二枚すべての黄金翼を展開し、羽ばたきではなく爆縮に近い衝撃で、敵を内側から破壊した。


 黒い肉片は地に落ちても死なず、微かにぴくりと蠢き続ける。

 破片は地面へ降り注ぎ、しかし死んではいない。

 まるで観測される限り再生し続ける呪いのようであった。


「……厄介だな。あれは個体ではない」


 ルシフェルの眼差しは迷いなく地上中央の穴を見据えていた。


「記録媒体……いや、食う者か」


 穴の奥で、渦がじわりと脈打っている。

 形はない。

 輪郭もない。

 ただ、見ているとしか言いようのない気配だけが、世界の奥底から滲み出している。


「干渉した瞬間、何かを上書きするように動いた……捕食行動に近い」


 ルシフェルの独白は誰に向けられたものでもない。


「箱庭の最奥に……こんなものを置くなど。これも開発者の予定調和か?」


 黄金の瞳が細められた。


 その名はまだ誰の口からも語られないが、最奥の渦は確かに名前を持たない恐怖として存在していた。



 渦の少し上層、空気が歪み始めた領域では、タナトスとアスタロトが衝突していた。


 アスタロトの動きはひどく不安定で、狂った視線がタナトスを捉えたり逸らしたりしながら、口元だけが意味の分からない笑みを形づくる。


 ぶつぶつと何かを呪文のように繰り返しながら、彼はタナトスへ拳を振り下ろす。

 いや拳ではない。腕全体を捻じ曲げ、関節を逆方向に折りながら振るう。

 身体までもが完全に壊れていた。


 タナトスはその狂撃を受け流しながら、彼に言葉をかける。


「哀れなり。アスタロト、お前ともあろうものが」


 たったその言葉で、狂気の空間が裂けたように感じた。

 アスタロトはひきつけを起こして後退し、意味の持たない絶叫を上げる。

 タナトスの地を割るかのような怒気が、狂気を一瞬押し返す。


 そして次の瞬間、最奥の渦が、脈動した。

 渦は脈動するたび、地面は呼吸をするように波打った。

 大地の表面が柔らかい肉のように動き、そこから微細な黒い線がにじみ出る。


 その線は触れた物体の情報を奪う。

 岩は硬さを失って砂のように崩れ、木は形状のデータが消されて、ただの黒い棒に変わる。

 情報階層の断裂……存在値の削除。ルシフェルの目にわずかな警戒が混じる。


 空間の重力がねじれ、光が黒へ、黒が白へ、世界の根本が反転する。

 アスタロトとタナトスの二人はその圧だけで吹き飛ばされた。


 空間が震えては歪み、戦いの決着はつかない。

 この場では、戦闘そのものが成立しなかった。


 周囲の悪魔たちも加勢すら叶わず、ただ渦の圧に耐えるだけで精一杯であった。



 その中で、最も繊細に壊れていったのが、眠りの神ヒュプノスである。


「……ヒュプノス様? ねぇ、ヒュプノス様……?」


 マグナがヒュプノスの顔を覗き込む。

 だがヒュプノスはマグナを見ない。

 目は虚ろ、頬は濡れ、呼吸は浅い。

 そして、ひどく幼い子供のように、ぐじゅぐじゅと鼻をすすって泣いていた。


 彼の記憶が、削られていた。

 最奥の渦は眠りの神の夢を真っ先に侵食する。


「ヒュプノス様! 落ち着いてください、マグナです!」


 マグナがそう言った瞬間。

 ヒュプノスは自分で口を押さえた。

 恐怖で手が震えている。

 消えてゆく記憶の不安感に耐えられない。


 それでも……彼は神であり、尊厳は残った。

 神としての矜持。

 失われゆく記憶の恐怖に押し潰される前に。

 彼は自らの頭部を、右の拳で思い切り殴った。


(ガッ)


 拳は頭の飾りを破壊し、髪を分けて肉にめり込み、血飛沫が飛ぶ。


 もう一度。


(ズゴッ!)


「やめてくださいッ! ヒュプノス様!」

 見かねたマグナが叫びながら、止めに入ろうとする。


「おい……」

 スルトの声が震える。

 パトラの足が崩れ落ちる。

 ハデスでさえ眉をひそめる。


 だがヒュプノスは止めない。


(ゴスッ……!)


 マグナの静止を振り切り、三度目の衝撃で、ヒュプノスの頭蓋骨は陥没した。


 彼の身体はぐったりと倒れ、そのまま動きを止めた。


 あまりにも突然の凶行による衝撃に、静寂が辺りを支配する。

 誰も言葉を発することが出来なかった。




 その瞬間、セーラの胸の奥で光が弾けた。


 封印されていたミシェルの眠りが、ヒュプノスの崩壊とともにほころび始める。


(……セーラ……ごめん……わた…し……)


 ミシェルの囁きは優しく、しかし深い悲しみを含んでいた。

 誰かの死を感じるように、深く、深く。

 胸の奥に、深い悲しみが注がれるのをセーラは感じた。


「ミシェル……っ!」


 セーラの叫びに同期するように、封印が揺らぐ。

 光がセーラの胸元から溢れ、世界を薄く染めていく。

 ミシェル解放の前兆。


 周囲の風景がかすかに震え、やがて、再び最奥の渦が脈動する。


 ルシフェルはその脈動を見て、静かに呟いた。


「封印が……解ける……」


 ミシェルの発する光が天へ伸びる。

 そして、世界が音もなく揺れた。


 揺れの中心で、渦に目が生まれた。

 開いた目は、瞬きをしない。

 まばたきという概念を持たない、観測そのものであった。

 その視線がヒュプノスの亡骸へ向いた瞬間、彼の存在が薄くなる。

 肉体の輪郭が、黒いノイズの中に吸い込まれていく。


「……遺体すら、データに還すか」


 ルシフェルの呟きは怒りよりも冷たかった。

 ()()は世界そのものを識別するように、ただ静かに見ていた……。


お読みいただきありがとうございました。

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