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狂皇

「渦の底には、人格がある。

 異なる世界そのものがこちらを見ていた」


 崩れ落ちた渦の残骸が、冷たい砂埃となって空へ散っていく。

 中央の穴は静まり返り、ただ低く脈打つ光だけが、まだ終わっていない戦いを告げていた。


 セーラの翼は戦いの余韻で微かに震えている。

 白い羽根の先に、カイが消えた時の残光がまだ残っていた。


 今際のカイの、あの咽び泣くような声が、しばらく彼女の頭から離れなかった。


「……カイ」


 彼の消滅と同時に舞った光の粒が、セーラの足元へ降り積もる。

 触れたそばから消えてしまう、儚い残照。


 セーラはしゃがみこみ、震える手で光をすくいあげた。


「逃げたんじゃない……弱かったんじゃない……」

 光がぱらぱらと崩れる。

「最後まで……あなたは、人であることを捨てなかった……」


 セーラは初めて戦場でわんわんと泣いた。

 その涙は光に混じり、蒸発した。

 そして、ひとしきり泣き終えると顔を上げる。


「まだ……希望が全部、死んだわけじゃないんだ」


 その言葉は誰にも届かないまま、薄い空気に消えた。

 一枚だけ黒く染まった四枚の翼が、決意のように震えた。



 渦の反対側では、死神タナトスがひとり、黒い残滓の前に膝をついていた。

 アグラトが消えた場所。


 狂気に蝕まれ、もはや魂を救うことしかできなかった。

 残った影の粒子が、タナトスの掌でわずかに光る。


「……なぜ、そこまで私に」


 声は低く、冷徹さが消えていた。

 アグラトの最期の言葉が胸に残る。


 ───愛しています。


 あまりに真っ直ぐで、あまりに重く、あまりに幼い告白。


「駒でよかったはずだ」


 駒であれ。

 道具であれ。

 そう扱ってきたはずなのに。


 なぜ、あんな真っ直ぐな愛を向けられたのか。

 答えはもう永久に返らない。

 タナトスは拳を握った。黒い霧が溢れ、地面に落ちて花のように広がる。


「なぜだ。蒙昧な私に、教えてくれ、アグラトよ……」


 返事はない。

 影だけが風にほどけていく。

 その問いに返るのは、終わりかけた世界の風だけであった。


 黒い影の最後の粒が、風に溶けて消えた。


 その瞬間。


 タナトスの胸に、言語化できない空白が生まれた。

 空白はすぐに熱になり、熱は怒りへと変わった。


 死を具現化した神であるタナトスは、本来怒りも悲しみも持たない。

 だが、いま震えるほどの感情を初めて知った。

 本能も欲も捨てたはずの心臓が、初めて熱を帯びた。


「そうだ……」

 低い声に、怒りが滲む。

「奪われたのだ」


 タナトスは立ち上がると、

 誰も見ず、空も見ず、ただ穴の奥を見つめた。


「渦よ、世界の底よ」


 その目は深淵そのものを睨みつけていた。


「私がこのまま終わると思うな」


 次の瞬間、黒い疾風が走った。

 タナトスは怒りに突き動かされるまま、

 ひとり穴の最奥へ飛び込んだ。



 中央穴の内部は、天使も悪魔も異なる者も飲み込まれた混沌の坩堝と化していた。


 パトラとマグナは無数の狂気の囁きに蝕まれながら、背中合わせに敵を蹴散らす。


「アグラっち……死んじゃったのぉぉぉ!?」

 マグナは涙を滲ませ絶叫する。

「ちくっっっしょおおおお!!」


 彼女の感情が魔力と化し、巨大な雷球を形成する。

 それは中層へ抜ける道を塞ぐ『ノーネーム』と呼ばれる神の抜け殻の塊へ投げ込まれ、稲妻がその骨のような残骸を白く灼いた。


 そのノーネームに対して、ヨボヨボと腐蝕呪文を撒き散らすハデスは、あまり役に立っていない。

 復活した雑魚専門の黒騎士スルトは、パトラを守るように敵を裂く。


「久しぶりだな、パトラ!」

「お兄ちゃん、解呪できたのね…!」


 狂気と死と異形が渦巻く煉獄で、それでもまだ戦士たちは人の形を保とうとしていた。



 その最中、半ば引きずられた身体のままのアスタロトが、ゆっくり歩を進めるタナトスと対峙した。


 アスタロトの涙と狂喜が混ざった表情。

 それはもういつもの彼の顔ではなかった。



« 廃酸溶解獄アシッド・ゾーダス »



 アスタロトはいきなりタナトスに向けて暗黒魔術を放つ。

 空気中に漂う有害物を集めて形成された暗緑色の酸球が、獣のごとき咆哮と共に撃ち放たれる。

 大型生物をも瞬時に溶かす強力な破壊呪文である。


 だが、タナトスは二枚の黒い翼とシールドを展開、一瞬の閃光だけで、酸球を完全防御した。


 アスタロトはそれを見て、鼻から血を垂らしながら笑う。

 涙とも笑いともつかない声。

 理性の崩壊はほぼ確実であった。


 そのとき。


 渦の奥が、音もなく開いた。


 白い球のような眼が、ぱちりと光を灯す。


 空間そのものが震え、存在しているもの全てが一瞬、心臓を掴まれたように止まる。


 それは意志を持ってこちらを見ている。

 そんな錯覚ではなく、事実としての観測。


 セーラも、タナトスも、パトラも、スルトも、ハデスも、マグナも、ヒュプノスも。

 渦中のすべての者が、同時にそれに気づいた。


 アスタロトは悦楽に溶けた顔でそれを見つめる。


 一方で、ルシフェルは、焦りによって顔を歪める。

 悪魔を束ねる王の眼に恐怖が宿った。


「……これは……これは神ではない。唯一神のコードよりも古い、それは神が生まれる前の……」


 その刹那、

 ルシフェルが地上に降りてこないことに気づいたノーネーム達が、その眼から放たれた刺激に狂わされ、狂乱の群れとなってルシフェルへ殺到した。


 堕天した王の周囲に、死と憎悪と空白が渦巻く。


 渦の中心から迫る視線は、まだ名を持たないまま、世界の境界を揺るがしていた。


お読みいただきありがとうございました。

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