狂皇
「渦の底には、人格がある。
異なる世界そのものがこちらを見ていた」
崩れ落ちた渦の残骸が、冷たい砂埃となって空へ散っていく。
中央の穴は静まり返り、ただ低く脈打つ光だけが、まだ終わっていない戦いを告げていた。
セーラの翼は戦いの余韻で微かに震えている。
白い羽根の先に、カイが消えた時の残光がまだ残っていた。
今際のカイの、あの咽び泣くような声が、しばらく彼女の頭から離れなかった。
「……カイ」
彼の消滅と同時に舞った光の粒が、セーラの足元へ降り積もる。
触れたそばから消えてしまう、儚い残照。
セーラはしゃがみこみ、震える手で光をすくいあげた。
「逃げたんじゃない……弱かったんじゃない……」
光がぱらぱらと崩れる。
「最後まで……あなたは、人であることを捨てなかった……」
セーラは初めて戦場でわんわんと泣いた。
その涙は光に混じり、蒸発した。
そして、ひとしきり泣き終えると顔を上げる。
「まだ……希望が全部、死んだわけじゃないんだ」
その言葉は誰にも届かないまま、薄い空気に消えた。
一枚だけ黒く染まった四枚の翼が、決意のように震えた。
◆
渦の反対側では、死神タナトスがひとり、黒い残滓の前に膝をついていた。
アグラトが消えた場所。
狂気に蝕まれ、もはや魂を救うことしかできなかった。
残った影の粒子が、タナトスの掌でわずかに光る。
「……なぜ、そこまで私に」
声は低く、冷徹さが消えていた。
アグラトの最期の言葉が胸に残る。
───愛しています。
あまりに真っ直ぐで、あまりに重く、あまりに幼い告白。
「駒でよかったはずだ」
駒であれ。
道具であれ。
そう扱ってきたはずなのに。
なぜ、あんな真っ直ぐな愛を向けられたのか。
答えはもう永久に返らない。
タナトスは拳を握った。黒い霧が溢れ、地面に落ちて花のように広がる。
「なぜだ。蒙昧な私に、教えてくれ、アグラトよ……」
返事はない。
影だけが風にほどけていく。
その問いに返るのは、終わりかけた世界の風だけであった。
黒い影の最後の粒が、風に溶けて消えた。
その瞬間。
タナトスの胸に、言語化できない空白が生まれた。
空白はすぐに熱になり、熱は怒りへと変わった。
死を具現化した神であるタナトスは、本来怒りも悲しみも持たない。
だが、いま震えるほどの感情を初めて知った。
本能も欲も捨てたはずの心臓が、初めて熱を帯びた。
「そうだ……」
低い声に、怒りが滲む。
「奪われたのだ」
タナトスは立ち上がると、
誰も見ず、空も見ず、ただ穴の奥を見つめた。
「渦よ、世界の底よ」
その目は深淵そのものを睨みつけていた。
「私がこのまま終わると思うな」
次の瞬間、黒い疾風が走った。
タナトスは怒りに突き動かされるまま、
ひとり穴の最奥へ飛び込んだ。
◆
中央穴の内部は、天使も悪魔も異なる者も飲み込まれた混沌の坩堝と化していた。
パトラとマグナは無数の狂気の囁きに蝕まれながら、背中合わせに敵を蹴散らす。
「アグラっち……死んじゃったのぉぉぉ!?」
マグナは涙を滲ませ絶叫する。
「ちくっっっしょおおおお!!」
彼女の感情が魔力と化し、巨大な雷球を形成する。
それは中層へ抜ける道を塞ぐ『ノーネーム』と呼ばれる神の抜け殻の塊へ投げ込まれ、稲妻がその骨のような残骸を白く灼いた。
そのノーネームに対して、ヨボヨボと腐蝕呪文を撒き散らすハデスは、あまり役に立っていない。
復活した雑魚専門の黒騎士スルトは、パトラを守るように敵を裂く。
「久しぶりだな、パトラ!」
「お兄ちゃん、解呪できたのね…!」
狂気と死と異形が渦巻く煉獄で、それでもまだ戦士たちは人の形を保とうとしていた。
◆
その最中、半ば引きずられた身体のままのアスタロトが、ゆっくり歩を進めるタナトスと対峙した。
アスタロトの涙と狂喜が混ざった表情。
それはもういつもの彼の顔ではなかった。
« 廃酸溶解獄 »
アスタロトはいきなりタナトスに向けて暗黒魔術を放つ。
空気中に漂う有害物を集めて形成された暗緑色の酸球が、獣のごとき咆哮と共に撃ち放たれる。
大型生物をも瞬時に溶かす強力な破壊呪文である。
だが、タナトスは二枚の黒い翼とシールドを展開、一瞬の閃光だけで、酸球を完全防御した。
アスタロトはそれを見て、鼻から血を垂らしながら笑う。
涙とも笑いともつかない声。
理性の崩壊はほぼ確実であった。
そのとき。
渦の奥が、音もなく開いた。
白い球のような眼が、ぱちりと光を灯す。
空間そのものが震え、存在しているもの全てが一瞬、心臓を掴まれたように止まる。
それは意志を持ってこちらを見ている。
そんな錯覚ではなく、事実としての観測。
セーラも、タナトスも、パトラも、スルトも、ハデスも、マグナも、ヒュプノスも。
渦中のすべての者が、同時にそれに気づいた。
アスタロトは悦楽に溶けた顔でそれを見つめる。
一方で、ルシフェルは、焦りによって顔を歪める。
悪魔を束ねる王の眼に恐怖が宿った。
「……これは……これは神ではない。唯一神のコードよりも古い、それは神が生まれる前の……」
その刹那、
ルシフェルが地上に降りてこないことに気づいたノーネーム達が、その眼から放たれた刺激に狂わされ、狂乱の群れとなってルシフェルへ殺到した。
堕天した王の周囲に、死と憎悪と空白が渦巻く。
渦の中心から迫る視線は、まだ名を持たないまま、世界の境界を揺るがしていた。
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