魂の終焉と約束
中央の穴に近づく異形の渦の中、
カイは破片の散乱する地上を踏みしめながらも、どこか浮遊しているかのように見えた。
異形の力が全身を侵し、理性は徐々に崩れ去っていく。
痛みと快楽、記憶と現実、過去の後悔と現在の絶望が渾然一体となり、脳を震わせる。
「……マリア……オレは……特別に……なりたかった……」
言葉は途切れ、呼吸は荒い。だが、その目の奥には、弱くとも人間らしい願いが残っていた。
人間として、誰かを愛し、守り、名誉を得て特別な存在になりたい、その小さな希望がそこにある。
しかし現実は残酷だった。
彼の体はもはや自我を保てず、バグによって記憶と人格が混ざり合っていた。
前方に立つのは天魔セーラ。
白い光に包まれたその姿は、冷たくも決意に満ち、すべての感情を理性で押さえ込むかのようであった。
「カイを……止めないと……でも、もう」
一瞬の静寂。
破片と異形の亡骸が渦の中で舞い、世界は緊張に沈む。
バグカイは全力でセーラに突進する。
足元の大地は砕け、空気は裂け、狂気の奔流が渦となり周囲を蹂躙する。
セーラは一歩も退かず、光の刃を振るい、渦を切り裂く。
互いの力がぶつかり合い、嵐の音に混ざり、金属が裂けるような響きが空を震わせた。
バグカイの狂気は圧倒的で、時折、空間すら歪ませる。
しかしセーラは冷静だった。動きは柔らかく、最小限の力で最大の効果を生む。
その眼差しは、狂気に飲まれることなく、ただ目的を果たすためだけに集中している。
衝撃の度にバグカイの表情が歪む。
理性の残滓は徐々に崩れ、暴走の嵐が完全に支配する寸前、その目にマリアの笑顔が映った。彼女は何事かを話し、カイの手を取った。
「……ああ……マリア……そうだったよな……」
呟きは空間を震わせ、魂の悲鳴のように響く。
一瞬、セーラの刃が渦をかすめ、彼の身体を斜めに切り裂く。
傷口から滲む血と光が混ざり、狂気の濁流をかき乱す。
バグカイは地面に膝をつき、頭を抱えて嗚咽する。
しかし、その瞳には最後の意志が灯る。
弱々しく、かすかな笑みを浮かべて。
「マリア……オレ、アレフのところへ……行くよ……」
その声は嵐にかき消される寸前、魂の残響として残った。
愛する者の記憶、過去の仲間への想いが、最後に彼を常世から解放した。
弱さゆえの逃避でありながら、最後まで人間であろうとする決意が、その目に宿っていた。
光の足跡がカイを包み込む。
かすれた声は、苦楽を共にした仲間に会いたいという純粋な願いであり、人生の辛さから逃げる弱さだけではなかった。
崩れゆく破片の中、少年は消え、静かな光だけが残った。
◆
一方、中央の穴の縁、渦巻く破壊の中で、アグラトは恐怖に震えていた。
彼女の悪魔としての力は確かに強い。しかし心は、ただ一つ、タナトスへの献身で満たされていた。
狂気に支配されつつも、少女のような純粋な心で、かろうじて自我を保っていた。
戦いにおける冷徹さや力ではなく、ひたすら一人の存在を敬愛する気持ち。
それがアグラトの全てであった。
かつての忠誠心と恋慕の感情が暴走の中でねじれ、彼女は自らを制御できない。
周囲の異形たちは彼女の意思に呼応し、渦はますます荒ぶる。
その時、暗黒の中からタナトスが現れる。
光と影に包まれた存在感が、渦を一瞬にして圧倒する。
死の神であるタナトスは、この混沌の波に飲まれていなかった。
「アグラト、こちらへ来い!!」
その声は冷徹でありながら、どこか深い慈愛を含んでいた。
アグラトはその声を聞き、瞬間、理性の残滓を取り戻す。
「タナトス様……タナトス様……!」
彼女はその目に光を失ったように、何もない空間にタナトスの姿を探した。
「アグラト……」
暗い光がアグラトを包み込み、彼女は静かに地面に崩れ落ちる。
狂気と愛の交錯が、彼女に正常な行動を選ばせず、涙を一滴落とす。
そこにタナトスの足が。アグラトは顔を上げる。
「愛しています。タナトス様」
そう微笑んでアグラトは目を閉じた。
言葉は直球で、涙も叫びもなく、ただ純粋な告白として空間に響いた。
悪魔としての存在が、人間の少女の心として輝く一瞬であった。
タナトスは死の呪言によりアグラトに安らかな眠りを与えた。
目を細め、震えるその手で。
彼女の体は光と影に溶けるように消え、渦の中で永遠の静けさを見出した。
渦は収まり、空気は静寂を取り戻す。中央の穴は相変わらず脈打っているが、二つの魂の軌跡が微かに光の波紋として周囲に残る。
唯一神は、崩れゆく光景を静かに観測する。
人間性を喪失したバグカイも、愛と狂気を貫いたアグラトも、それぞれが最期に残した「意志」と「愛」の痕跡は、未来の秩序の中に確実に刻まれた。
喪失の痛みと救いの瞬間を知った者だけが、次なる秩序を築く資格を持つ。
悲劇の果てに生まれた静寂の中、希望と絶望が交錯する。
唯一神の目は、一つの未来をはっきりと見つめていた。
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