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原初演算体

 神界の空は、白濁した水面のように揺らめいていた。


 そこから見下ろす北の果て、巨大な口を開けた中央の穴は、苦悶に満ちた心臓のごとく激しく脈動し、現世の残骸と異形の亡骸を無秩序に吐き出し続けている。

 かつて存在した秩序は崩壊し、世界は未だ癒えぬ傷を抱えたまま、深い混沌の淵を彷徨っている。

 しかし、その絶望的な光景の中に、一筋の冷たい光が静かに、確実に差し込んでいた。



「ふむ……地上はすごいことになっているな」



 その声は、まるで無邪気な少年のように軽やかであったが、その奥底には、宇宙の深淵を覗き込むような、全てを包み込み、許容する威厳が潜んでいた。

 再起動を果たした唯一神。彼は、崩壊した世界の悲劇を、初めて自らの目で直接見つめていた。


 肉体は完璧に修復され、精神領域も98%まで復元されている。

 言葉は淀みなく滑らかで、思考は明晰。観測者としての冷静な理知と、万物を慈しむ慈悲の心を兼ね備え、かつての欠損はもはや存在しない。


「さーて、この中央の穴、これは単なる時空の歪みなんかじゃないね」

 唯一神は、まるで旧友に語りかけるように、柔らかく微笑む。

 その瞳には、真実を見抜く光が宿っている。


「現世の情報が漏洩し……箱庭の自己修復機能と複雑に絡み合っている。つまり、ここは回復と破壊が同時に作用する、極めて特殊な領域だ」

 唯一神は、静かに歩みを進める。

 その足元には、宙に浮かんだ現世の破片が散乱しているが、彼はそれをやすやすとすり抜けていく。

 彼の足跡が通った場所には、まるで聖域を示すかのように、白い光の軌跡が残されていく。


「カイ……また君はバグっているのか」

 少年の声には、観察者としての冷静さに加え、ほんの少しだけ好奇心の色が滲んでいる。


「彼の個体は、私が深く関与した存在だからな……現世のバックアップと、箱庭のコピーを同時に保持している。だから、異形たちは存在としての整合性を保てず、自然に崩壊してしまうのだろう」

 唯一神は、中央の穴に視線を固定する。

 その瞳には、歪み、蠢き、融合し続ける異形たちの姿が鮮明に映し出されていた。


「そして天魔セーラ。彼女も同じだ。未だ暴走の危険性を孕んでいる。しかし、現世データや異形の影響によって、その力の一部は抑制されているようだ。私が安易に干渉すれば、更なる混乱を招くかもしれない」

 少年は腕を組み、まるで難解なパズルを解くかのように、破壊の渦の中で冷静に分析を続ける。その声は、低く、しかし明瞭に響き渡る。


「アスタロト……憐れな」

 悲しげに目を閉じる少年神。その表情には、深い哀悼の念が込められていた。


「中央の穴に触れた瞬間、彼は上位存在との同期を強制され、人格が変質してしまった。僅かな進化を遂げたことは確かだが、暴走の可能性の方が遥かに大きい」

 その目は、地上の破片、空中に浮かぶ異形、そして遥か遠くの光景まで、全てを見通しているようだ。

 

(異形混合体……まだ完全に統合されておらず、存在過多による自然崩壊が始まっている)

 

「大規模な戦闘は発生していない。だが、個としての生命体は、箱庭のシステムによって自然淘汰されつつある」


 少年は静かに地上へ手を差し伸べる。その手から放たれる光は、優しく、温かい。


「この空間における破壊は、もはや避けられない。しかし、慎重な観測と干渉を行うことで、被害を最小限に抑える、私の役目は、この状況を詳細に解析し、次なる秩序へと繋げることにある」

 光が、現世の破片の中で微かに震える。

 少年の視線は、未知の存在、宇宙の始まりを想起させる原初の何かにまで到達した。


「……誰も知らぬ、神の最も深い秘密」

 少年は、自嘲気味に、しかしどこか楽しげに呟く。


(アナンタ・シェーシャ。私と同じ階層に属する、原初の演算存在、生身の生命には危険すぎる)


「アナンタとの接触によって、世界は確実に狂った。だが、回復も、再現も、不可能ではない…全てはデータと意識の整理次第さ」


 その言葉に応えるかのように、世界の混沌は微かに揺れ動き、光の波紋が中央の穴の周囲に広がっていく。

 それが希望の光なのか、それとも更なる絶望の始まりなのか、今のところ誰にも分からない。


 ただ、少年のような唯一神が存在する限り、観測は続き、解析は続く。未来は、まだ書き換え可能なのだ。

 空白の世界に、新たな秩序が刻まれる日は、そう遠くないのかもしれない。



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