オブリヴィオン
半身を引きずるアスタロトの狂い笑いが、穴の縁で響いた。
笑いの奥にあったのはもはや意識ではなく、存在を掴まれた魂の痙攣であった。
螺旋する闇と光の渦が、空間も時間も意味も押し流す。渦の中では、記憶も感覚も泡となって弾け、肉体だけが暴走する。
足元の大地は揺らぎ、重力も時間も、自我さえも意味を失った。
「…ルシフェル様……知っていたのか…?」
アスタロトは傍観するルシフェルに向かって呟く。
半身を引きずりながら、崩壊した泣き笑いの表情と声で。
彼は力の圧倒に飲み込まれ、意識は瞬時に崩れかけていた。
身体だけが異常な速度で動き、衝撃波を放つ者が隣にいる。カイであった。人間である彼は耐性が持たず精神は完全に溶け、もはや意思と呼べるものは残っていない。だが、何故かその身体能力だけは超越したものとして動き続けた。
踏みとどまる翼の天魔セーラが、かすかに足を踏みしめる。振り返ることもできず、視界には無限の渦と、存在の輪郭が蒸発していく者たちが並ぶ。
遠く、宇宙そのものが夢の揺らぎのように震え、すべてを覆う圧力となった。
光も音も概念も押し流され、残るのはただ、存在ごと書き換えられる絶望だけ。
アスタロトは震える手を、まだ見えぬ中心へと伸ばそうとする。
半ば崩壊した意識の奥底で、かすかな知覚が「この先に触れてはいけない」と告げていたが、身体は勝手に動く。
セーラは渦に立ち向かうように翼を広げる。
その羽ばたきは、微かな抗力となって、崩れゆく世界の中にかろうじて秩序を残すかのようであった。
ルシフェルは遥か空中から冷徹な視線で穴の様子を見下ろす。
彼はその危険性は理解していた。
ここに手を出せば、自らもまた存在の崩壊に巻き込まれることを。ただ、傍観するしかない、すべての変化を見極め、最悪の事態に備えるのみであった。
カイの動きは、人間の理性をはるかに超えた暴力そのものとして存在した。
瞬間ごとに周囲を押し潰す衝撃波は、意識のない身体が勝手に戦う姿である。
セーラはその間を縫い、暴走を回避させつつ中央の渦へと近づく。
渦の奥底では、名もなき超越的存在の圧力が、全てを呑み込むように広がる。
アスタロトもカイも、人間も魔神も、そして傍観者ですら、存在の輪郭を失い、書き換えられる感触に抗えなかった。
存在が存在であることすら許されない、無限の揺らぎの中で、開発者たちは互いに目配せしながら、わずかに声を漏らす。
「…これは…想定外だ」
オルドが信じ難い様子で言う。
「全てが消える…」
恐れ戦きジュリアンが呟く。
現実世界のとある廃屋にて、ボロボロの白衣を着たライナスは瞠目した。
「しかし、ここは箱庭。止めることも、理解することも、まだ…できる…か」
渦の中で、誰もが圧倒的な絶望に呑まれつつ、次の瞬間何が起こるのかを、ただ見据えるしかなかった。
中央穴は、全存在を嘲笑うかのように、変わらず、無限の揺らぎを広げ続けている。
次の瞬間、渦の奥から異質な衝撃が走った。
アスタロトの崩れた意識が、半ば自律した肉体の暴力と共に、周囲の空間を切り裂く。
無数の光線が、魔法の残響と混ざり合い、かろうじて生き残っている味方たちの前に飛来した。
「っ…!」
衝撃波がタナトスの魔法の盾に叩きつけられ、砕け散り、微かに歪む電子フィールドが警告音を響かせる。
そして、またしてもバグってしまったカイの暴走した腕が、空中で奇妙に伸び、宙に描かれた剣の軌跡は、目に見えぬ力として味方を押し潰す。
その動きは意図ではなく本能に近く、理性を失った存在の暴走として現れていた。
セーラは翼を広げて滑空し、渦の中で飛び交う攻撃を必死に避ける。
「カイ!」
破壊の波動は、剣と魔法が融合した異様な軌跡となり、残された地形や空間の秩序を切り裂いていった。
ルシフェルは冷徹な目で状況を見定める。
傍観者であるが故に手を出せない。
ただ、全てを俯瞰し、最悪の破滅の中で、味方がどのように耐えられるかを見極めたかった。
アスタロトの狂った声が、遠くまで震えるように響いた。
「……消えてしまえ…!」
その叫びは理性を超えた魔力によって、物理的に空間を震わせる。
カイのほうも、もう意思を持たず、身体だけが怒り狂って攻撃を増幅させる。
セーラはその中心に立ち、飛び散る暴力をかろうじて避けながら飛び進む。
渦の中心に近づくほど、存在の輪郭は曖昧になり、その意味を失うかのように歪む。
味方たちは、かつての戦場の残像の中で、圧倒的絶望を文字通り体感する。
中央穴は無限の揺らぎのまま、全てを試すかのように存在を嘲笑し、静かに、しかし確実に、存在そのものを飲み込み続けた。




