淀み
万魔殿・第零会議室
黒曜石の円卓を囲む影は五つ。
ルシフェル。
アスタロト。
ハデス。
タナトス。
ヒュプノス。
眠りの神ヒュプノスは、他の幹部と違って存在感が希薄であったが、その希薄さこそが異変をもっとも敏感に察知する。
会議室は、沈黙と緊張で張りつめていた。
普段なら仲間などと呼べぬ者たちが、今夜だけはひとつの沈黙に支配されていた。
東西南北の歪み穴。
どれも突如として活性化し、得体の知れぬ化け物が溢れ出している。
アスタロトが円卓を軽く叩き、静寂を破った。
「……東の穴、そして南北西。すべて同時に変質を始めた。これは天界の残滓では説明がつかない」
声は落ち着いていたが、指先がわずかに震えている。
タナトスが目線だけを上げる。
「ベルゼブブはどうした? 報告が途絶えたままだが」
「覚醒人類都市で破壊された。魂ごとだ。復帰はない」
アスタロトは淡々と言ったが、その瞳の奥は怒りで赤く揺れている。
「……そうか」タナトスが短く息を吐き、それ以上は何も言わなかった。
「四つの穴と、新しく出来た五つ目は違う」
ルシフェルは指を一本立てる。その先から黒と白が混ざる微細な粒子が溢れ、卓上に投影される。
「観測を拒むか」
タナトスが身を乗り出し、険しい表情で呟く。
「中央……オルドの塔跡地に突如出現した別種の穴だ」
ゆっくりと円卓を見渡すルシフェル。
「しかも発生したのは、私が新しい計算式を完成させた、その瞬間だ」
「つまり、あなたの作業が誰かに見られていた、と?」
アスタロトが眉をひそめる。ルシフェルは目線だけで微かに頷いた。
「内部か、外部か。どちらにせよ、あの穴は意志を持つ。そして我々の計画を妨害しうる存在だ」
「この中に裏切りの可能性か」
アスタロトは苛立ったように指を鳴らす。
「完全、否定は、できない、な」
ハデスの視線が揺れる。指先をわずかに震わせ、呼吸が乱れる。
「疑わしいと思えば、私が魂を視てもいいぞ。多少痛みは伴うが」
タナトスが不敵に口角を上げる。
「まだ必要ない」ルシフェルの低い一言に、タナトスは静かに手を引いた。
ヒュプノスは目を閉じたまま、眉間をわずかに寄せる。
ハデスが口を開く。声は地下で響く雷鳴のように重い。
「五つ目の、時空の穴……天界でも、地界でも、ない…もっと、古い…原初の……」
「系譜だ」ルシフェルが引き継ぐ。
「開発者や覚醒人類の周波数と近いが、それより遥かに古く、濁っている」
「知的生物の感情の中で……恐怖は最も強く脆いものだが……この中央の穴は死、虚無の匂いがする」
タナトスは腕を組んだまま、ぽつりと呟く。
「……美しい」
アスタロトは五つ目の穴を見つめ、目を細めた。
返事の遅れも微妙に計算されたようで、会議の流れには影響を与えない。
ルシフェルが再び卓を指でなぞる。
「結論を言うと、五つ目の穴は触れるほど増える可能性がある、つまり……」
「今は放置だ」ルシフェルが断言する。
「四つの穴だけを封鎖し、五つ目は経過観察とする」
ルシフェルは円卓上に四つの位置を示し、低く命じた。
「四つの歪み穴の担当を割り当てる」
ルシフェルは淀みなく指名していった。
東:ハデス
──腐蝕と地獄の泥で大地ごと封鎖。
西:ヒュプノス、マグナ
──精神汚染フィールドで侵入者の判断力を奪う。
南:タナトス、アグラト
──死の霊兵を展開し迎撃。
北:アスタロト、スルト
──本陣。観測と封印式の構築。
「四つの穴は我々で対応できそうではあるが…問題は……中央の穴か」
タナトスが静かに立ち上がる。
「何かが、我々を待っているようだ」
アスタロトも続く。
誰も言葉を返さなかった。だが全員が、胸の奥で同じ直感を共有していた。
(……これは罠だ。しかも、こちらの思考を読んで先回りする知性の罠)
ルシフェルは目を閉じ、ほんの一瞬、怒りを押し殺した。
(ライナス……見ているなら答えろ)
目を開いた時、会議室は再び圧倒的な緊張で満たされた。
「行動を開始する。四つの穴を封鎖しろ。中央は…私が観る」
ルシフェルの言葉に幹部たちはゆっくりと席を立った。
その背後、誰も気づかない中、アスタロトは円卓の粒子を指でなぞった。彼にとってベルゼブブの喪失は、心に深く刻まれた傷であった。その指先はわずかに震え、目の奥に微かな淀みが残った。
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