黒の胎より
南界大陸ネザリア。
北に覚醒人類都市ノースヘブン、東にエルフ・ドラゴンの森、西に旧研究区画が残る、四界の一角。
人と亜人、古き精霊が交わり、生と死が胎動することから、いつしか「黒胎の地」と呼ばれた広大な大陸である。多種族が共存し、豊穣と魔性が交差する地であったが今、その大地は灰色の曇天の下、既に死の領域と化していた。
海は黒く泡立ち、森は灰に変わり、かつての街路には人の形をした骨と甲殻の山が築かれている。
その上を、二つの影が跋扈していた。
一人は、八本脚の軍馬スレイプニルを駆り、輝剣を操る歴戦の黒騎士スルト。
もう一人は、竜に乗り腐敗した翼を背に持つ蛇の堕天使、悪魔の大公爵アスタロト。
地上に残るわずかな生者…蜥蜴人、蛇人、魚人、鳥人。
かつて神代と人代を繋いだ亜人類たちは、いまや悪魔の"狩場"と化していた。
すっかり雑魚専が板に着いたスルトの輝剣が唸るたび、蜥蜴人の集落が切り刻まれる。
断裂した鱗の間から肉汁が滲み出し、雪解けのように蒸発していった。
彼は笑っていた。狂気でもなく、使命感でもない。
ただ「これが戦いだ」と、そう信じきっている顔であった。
「アスタロト様よぉ、こいつら、弱すぎてつまらねぇな」
その声に、アスタロトは応えない。
代わりに彼の胸郭から、低いうなり声が響いた。
次の瞬間。
(モワァアアア~~~~~~~)
腐臭と便臭が入り混じった激烈な悪臭が地表を覆い尽くす。
鼻孔を突く毒気に、ラミアの群れが悲鳴を上げ、ハーピーたちが空中で翼を失って墜ちた。
「ギャアアアァ! 臭い! 目が、目がァァァ!!」
彼らの皮膚がただれ、眼球が泡のように溶けていく。視覚を奪われた亜人たちは、パニックに陥り、互いに押し合い、逃げ惑う。触れたものを腐らせ、精神を蝕む瘴気に、悲鳴を上げ、悶え苦しみ、地に伏せる。
世界そのものが、吐き出された地獄の胃液に浸されていた。
だがスルトもアスタロトも眉ひとつ動かさない。
悪魔たちにとってこの匂いは、不快ではない。
冥界の空気そのもの、生まれた時から、共にあった臭気だ。アスタロトは少しばかりそれが強烈なだけであった。
「フン、下等な種族どもはこれしきの臭いにも耐えられぬ。軟弱なことよ」
アスタロトが嘲笑する。彼は、この悪臭こそが、自分たちの力を象徴するものだと考えていた。臭ければ臭いほど、それだけ強大な悪魔である証だと。
戦場は、亜人たちの悲鳴と悪魔たちの嘲笑、そしてアスタロトの悪臭に満たされていた。そこはまさに、地獄の一角が地上に現出したかのようであった。
スルトは足元のラミアの首を踏み砕き、笑う。
「これで地上の生き残りは、ほとんど掃除完了だな、ルシフェル様もさぞお喜びだろうよ。なぁ、アスタロト様よ。これで三界制覇ってやつか?」
少しだけ眉間に皺を寄せ、違和感を覚えるスルト。
「……お前は、まだそんな夢を見ているのか」
アスタロトは長い舌で血を拭いながら、低く呟いた。
「は?」
「ルシフェル様は、支配など望んでいない。欲しているのは観測だ」
スルトの目が一瞬だけ揺らぐ。
アスタロトの声には、嘲りでも忠誠でもない、冷たい確信があった。
「地上に現れた四つの歪み。あれを、邪魔されず解析したいのだ。そのために、我らに掃除を命じている」
「歪み……?」
「箱庭の残骸。神々が再構築に失敗した痕跡だ。恐らくルシフェル様はそこから、神を超える理を導き出そうとしている」
スルトは剣を地に突き刺し、火花を散らす。
「じゃあ、オレらは何だ? 実験の掃除係かよ」
「そうだ」
アスタロトは即答した。
「そして、箱庭の開発者たちは、全員"観測の障害"として封印、抹殺対象だ。転生させずにな」
冷風が吹く。灰の嵐の向こうに黒い稲妻が走った。
「ミシェルは封印された。オルドとジュリアンは逃亡中。……そして、ライナス」
その名を口にした瞬間、空気が震える。
スルトの魔気が、風に吸い取られるように細くなった。
「ハデスが言っていた。今の神は、そのライナスだと」
沈黙。
次の瞬間、地上の空間がめくれた。
重力も方角も意味を失い、空が裏返っていく……。
◆
万魔殿に戻る二人。
十二枚の黄金の翼を広げ、無音のデータを背に降り立つルシフェル。
「……戻ったか」
アスタロトとスルトは同時に膝をつく。
声に逆らえない。
それは命令ではなく、支配構文そのものであった。
「ベルゼブブがやられた」
語るルシフェルの瞳が、わずかに揺れた。
「覚醒人類の都市にて、相打ちだ」
空が鳴る。光が裏返り、空間が割れる。
裏返る光の裂け目が二人を呑み込むように迫った。その中で、スルトとアスタロトは、自分たちの忠誠の意味を問わざるを得なかった。
「マジですか」
スルトが眉を顰める。
「まさか、あのベルゼブブが……」
自分の耳を疑うアスタロト。その瞬間、彼の中で何かが確かに軋んだ。
忠誠でも恐怖でもない、未知の感情。
これは本当に"地獄の勝利"なのか?
答えのない問いが、腐った風の中に消えていった。
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